トップへ戻る

黄金律と技術の倫理

新宮秀夫著  開発技術学会叢書
序章  司馬遷(BC145-86)は史記列伝の始めに、行いをつつしむ正しい人が報われず、やりたい放題の悪者がはびこる世の中を見て、「私は、はなはだ当惑する(余甚惑焉)」と書いている。世界の歴史を見ると人類はいつも「今ほど倫理が地に堕ちた時代はない」と思って来ている。

 現在の世の中を見渡しても、限りなくぜいたくな暮しを求める人々がいる一方、多数の人々が飢えている。土地は本来誰のものでも無いはずなのに、それを争う紛争、戦争が至る所で生じている。何とか「まとも」な方向に人間社会が向わないと困る、と誰しも思っているけれども、果して歴史始まって以来いつも「地に堕ち」続けてきた倫理を今更考え直す価値があるのだろうか?
 本書は技術者の視点から、倫理および倫理学について人類が考えて来たこと、行って来たことを調べて簡潔にまとめ、その上に立って今、技術が人類とどのように係わりを持ってゆくべきなのかについての考えを述べようとするものである。すなわち、現在我々が直面している環境問題、エネルギー問題、医療、バイオなどの技術倫理について深く考えるために、倫理の根本を振り返って調べ直すことから始めて、その上に立った具体的行動の指針を得ようとするものだ。
 歴史を振り返って見ると、倫理がいつも地に墜ちた状態にある理由は社会の貧しさのせいである、と多くの人々が見なしている。中国の古典の中でも古い書物とされる “管子”は、人間の社会活動の基本を述べた「牧民」という章から始まっていて、その冒頭に「穀物の倉庫が充実すれば、人民は礼儀や節操を身につけるようになり、衣食の日常生活が充足すれば、栄誉と恥辱をわきまえて行動するようになる(倉廩実 則知礼節(そうりんみちて れいせつをしり)、衣食足 則知栄辱(いしょくたりて えいじょくをしる)」と述べられている。つまり、豊かな社会が実現すれば、倫理の問題は自づから解決するだろうと見ている。
しかし本当に、豊かな社会が実現すれば社会の倫理も向上するだろうか? 今の日本は、人類の歴史始まって以来、と言っても過言でない程、倉廩実ちて衣食足っている。けれども、この社会がこれで良いと人々は思わず、一方ではもっと豊かになろうとあせりながら、他方では、何となく将来に不安を持ち、これで良いのかと憂えている。そうなると、衣食足りることが倫理に適した社会を実現することと必ずしも一致しないらしい事になる。

 それでは倫理に沿った社会は、どういう方向に人々、ひいては社会を導くことによって実現できるのだろうか?歴史的に見ると、それを考えるためには、人の本性(ほんせい)、つまり自然に備わった人の本来の性質と、倫理のあり方との関連を、二つの流れとして見ると分り易いことに気付く。
 そのひとつは、人の本来の性質、つまり本性は善なのだから、教育、訓練によって善い性質に育てることが可能なので、すべての人々が倫理的な行動を行う社会を作るよう指導すべきだという見方だ。 これは歴史的には孟子やプラトンの考え方として知られている。その流れは、近世では“人間不平等起源論”のルソーや“資本論”のマルクスなどに続くもので、理想社会の実現が、人の考え方(性質)の訓練によって可能となるとされている。
 もうひとつの流れは、荀子(じゅんし)やアリストテレスにその源を見出せるもので、人間はそれぞれ個人によって異なる性質をもっており、自分の利益を考えて行動するという前提に立つ。その考えの下に如何にして個人の集りである社会を上手く運営できるかを考えようとする見方だ。つまり、人間の本性は悪なのであって、それは教育や訓練によって善に変え得ないのだから、その性悪(せいあく)、すなわち利を好む強い力を、社会の利益につながるように社会の仕組みを対応させるべきだと見る。この流れは近世のイギリスで特に発展し、その代表的な思想家には、“蜂の寓話”のマンデビル、“道徳情操論”、“国富論”のスミス、“人口の原理”のマルサスなどがいる。性悪、というと聞こえが良くないので、言葉だけで性悪説を嫌う人が多いけれども、悪、というのは、生き伸びるという本能に根ざす自分の利益を守る強い力を指しているので、元気、活力に通ずるものであり、性悪説の人すなわち悪人という見方をするのは間違いだ。
 結局、性善説派の主張は、個々の人の行動、すなわちミクロなレベルでの正しい行為が守られるような努力が、社会全体のマクロな善のために有効であって欲しいと願う、願望に基づくものと言える。他方、性悪説派の考えは、個々の人の活力を尊重する考えに基づくから、たとえミクロなレベルで悪がはびこっても、それは総計すれば社会全体の活力に資する。つまりマクロな善につながるのだと願う、これも願望に根ざす主張だと言える。

 このように今まで我々は願望に根ざした見方で倫理を考えて来たと言える。けれども、今まではそれで「何とかなって」来た。そこで、なぜ「何とかなって」来たかを考えて見ることが次に大切となる。中国の歴史においては、社会活動の盛衰を表す「一治一乱」という言葉がある。つまり人々が豊かさを求めて活動して、人口が増えてくると人々の利害がぶつかり、社会にひずみがたまる。そしてある所まで来ると大乱が起って人口が激減して国全体が荒廃する。けれどもそのときには、人間一人あたりの自然のめぐみは大きくなるので、再び人々は活力を取り戻して繁栄する。歴史はこのくり返しと見なせるということだ。
 歴史が本当にくり返すのであれば、性善であれ、性悪であれ、またミクロ倫理もマクロ倫理も、その時点では重大な問題かも知れないが、人類が、いずれにせよ喜んだり悲しんだりというドラマを継続してゆく、という見方をすれば「いづれは何とかなる」という範囲で納得できる。けれども、物事の変化は一方通行で、一度起ったことは決して二度起らないのがエネルギー学(熱力学)の教える宇宙の原理なのだから、何事も厳密には決してくり返すことはない。歴史はくり返す、という教えを限度をわきまえずに信ずることは、やりたい放題やってもあとは何とかなる、というこれも願望に根ざした思考法につながる危険性を含むものだ。
 今や、「何とかなる」と思うことが、許されない所まで、取り返しのつかない環境の劣化を人類はひき起こしつつある。この事実を正面から見つめることをしないで、従来の通りのやり方で豊かさや繁栄を追い求めれば、仮名草子の“竹斎”が、大変な失敗をして「この事夢になれ!この事夢になれ!」と叫んだような事態となるであろう。病気の対症療法のように、技術によって、それらの問題を克服できると見て、その原因を見直す事をしない今の世界の社会は、現実を直視しないで願望に基づいて動いているといえる。今、技術と倫理について考える必然性はここにある。技術者は何が技術で解決できて、何は不可能なのかを知っている。技術で解決できない問題を解決するための、倫理学の拡張が必要なのだ。
 この本は、3部から成っている。それらは各々独立に続けて書いたものだが、技術の進歩と人間の生き方について異なる視点から述べている。最初の、「明日のエネルギーと環境」はエネルギー大量消費に伴って発生する環境や資源枯涸の問題の歴史を調べて、問題の核心を探り、根本的な解決は倹約による他ない事を論じている。次に、「黄金律と技術の倫理」は、先ず、文明の発生以来、世界のどの場所にも共通して通用して来た、いわゆる「黄金律(己の欲せざる所を人に施す勿れ、自分のいやな事を人にさせるな)」を、倫理の始まりと見て、詳しく検討している。そして倫理学の歴史を簡明に総括して、その上に立って、倫理学の拡張として、「環境倫理」が如何に解釈されるべきであるかを述べている。最後の「お経と工学」は、先ず、宗教、宗派にこだわらないで、広い範囲のお経の中味を楽しんで頂き、今直面している技術と倫理の問題のように、解決が困難と思える問題にも、超越的な解があり得るというヒントを汲み取って頂きたい。すなわち、最初に述べた「倹約」などを実践する方向が、従来人々が求めて来た豊か、ゆとり、安心といった社会を目指す方向と大きく異なり、非現実的な空論であると思うのが誤りで、決して、そうではなくて、いつでも景気が良くなくてはならない、という発想こそ非現実的であるのだ。というように読んで頂けるのではないかと思う。
 人類が20世紀において、技術と深く係わりを持ち、それに大きく依存する生活をするようになり、更に21世紀にも、その習慣を続けようとしている今、技術者が、人間の生きるべき本来の姿について考える事、すなわち倫理に目を向けるべきでは無いか、と問い掛ける意味で、開発技術学会からこれらをまとめて出版して頂ける事を著者として嬉しく思う。この企画を推進して頂いた開発技術学会理事、東京大学教授、足立芳寛氏に心より感謝する。

注文は、
105-0001 東京都港区虎ノ門1-21-19
ファックス03-3593-1275,
電話03-3593-1274
開発技術学会 まで。
 (定価2400円、会員特別価格2000円送料別)。
エネカン協会会員である事を知らせると割引になります。
なを、当協会事務所にも置いてあります。

Written by Shingu : 2001年04月14日 10:47

トップへ戻る