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一言でわかる経済学

(V e r b u m S a p i e n t i : 賢者には一言で足りる)

経済学の目的

P.A.Samuelson の “Economics” 17版 2001年、には、こう説明してある。
“全ての人が物質的に豊かになること。 欠乏をなくす事。”
そして結論の所は、持続的成長の維持が必要であり、そのためには技術革新による生産性
の向上が不可欠である、と締めくくられている。
技術革新こそ最も重要であると、経済学者から技術者にゲタをあずけられては、黙ってい
るわけにもいかないので、何が経済学なのかを、簡明にサマライズしたくなる。おそらく
世界で最もよく知られた経済学の教科書に挙げられた経済学の目標には、少し首をかしげ
たくなる気もするが、先ず従来の経済学の全貌を見渡してそれから、本当に経済学は何を
目指すのか考えてみよう。

三人の経済学者

知っている経済学者を3人挙げよ、という質問を入社試験できかれたら、どう答えますか?
誰にもまず納得してもらえるだろう答えは、
アダム・スミス(1723-1790)、カール・マルクス(1818-1883)、メイナード・ケインズ
(1883-1946)でしょうか。
ではこれら3 人が何を言ったのでしょう。

当今流行の言葉でいう、ミクロ経済学の代表とされるのが、スミスです。ミクロ経済とい
うのは端的にいえば、個人の身の回りの金銭的損得を考えることです。スミスは、個人の
行動は、なんのかの理屈を言っても、結局は自分の利己的な心すなわち、損得ずくできま
る。と断定して、個人の能力を最大限に発揮させるためには、個人の行動がその人の利益
につながるような、世のなかのシステムにしたらよろしい、と言っています。
全国民が個人の能力を最大限に発揮して頑張れば国全体が富んでくるのは当たり前です。
国全体の経済の事すなわちマクロ経済のことは、スミスによれば、ミクロ経済の面倒さえ
しっかり見ておけば自動的に(見えざる手にみちびかれて)上手くいくであろう、とされ
ているわけです。
国を富ませ、社会の発展をもたらすのは、高邁な理想に基ずく人間の行動ではなくて、最
も卑しい己の利得を優先する人間の私悪の心である。私悪は公益につながるものである。
とスミスは、臆面も無く言ってのけます。
そして、そのためのシステムは、政府が個人の活動に干渉しないこと、つまり自由放任、
規制なし(レセ・フェール、laissez faire)であるべきだと言うのです。
スミスはこれらのことを、国富論(An inquiry into the nature and causes of The Wealth of
Nations,1776)に書いたのです。彼はその18 年前に道徳情操論という本を書いた道徳学者
でしたから、国民の福祉や豊かさを大切に考える立場に立って、国がまず富めば、その富
はおのずと、国民すべてにゆきわたるであろうと、楽観したのでしょう。
ところが、スミスの予想とはまったく逆に、スミスの時代から始まった産業革命、すなわ
ち技術革新と工業化がスミスの描いた自由放任の経済システムのもとで進行した結果、国
は富んでも、国民の大多数は、とんでもない貧困におちいってしまいました。
機械をつかい、分業がすすんで、石炭エネルギーの利用によって、人間ひとりの労働によ
って作り出される製品の量は何十倍にも増えたはずです。単純に考えれば、それまで、10
日掛かって作れた品物が1 日で作れるようになれば、後の9 日は遊んで暮らせるはずです。
人間は余裕とゆとりを楽しむことのできる、ユートピアに近ずけたはずなのに、実際起こ
ったことは、子供までが工場で寝る暇も与えられずに働かないと食べて行けないような世
の中にになってしまったのです。
サムエルソンのいう技術革新、生産性の向上は、なんら国民の福祉に寄与しないばかりか、
逆に生活条件を悪化させてしまったのです。その惨状に憤った人の代表がマルクスでした。
国が富んでいるのに国民がより貧乏になるのは、資本家、金持ちが労働者を搾取、つまり
騙し討ちにしているのだ。と、資本家の私悪は公益につながるものでは決してない、金持
ちは、取れるものは根こそぎ取って、出すものは舌だけだ、と言ったかどうか、もっと激
しく、もっと具体的に理屈をのべて、自由放任の資本主義を攻撃したのがマルクスです。
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Written by Shingu : 2002年06月14日 11:01

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