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エネルギー倫理

第17回 環境工学連合講演会 論文集  平成14年1月

ABSTRACT:The root of most of the environmental problems we are facing exists, without any argument, in the excessive use of energy in the present social activity. Even in the 19th century, when the principles of thermodynamics were established, many scientists argued the danger of the dependency on the fossil energy for either the depletion of deposits or the environmental reasons. We still do not have, at the beginning of the 21st century, any scientific or engineering solution to these problems. The only acceptable solution to the environmental problems exists in the energy saving, the principle under which we have lived since the start of evolution of humankind.

The advancement of energy saving in the political, economical, scientific, engineering and all other field of social activities is the foremost duty of the present time, in other words, the contemporary ethics, if we hope for the continued prosperity of humankind in the many centuries to come. It must be remembered that the happier life exists not in the affluent easy life style supported by the excessive use of energy, as most people imagine, instead, it exists in the lives where more physical and mental exertion of people is required due to the limited usage of energy.

KEYWORDS:Energy Ethics, Engineering Ethics, Environmental Ethics, Ethics, Save Energy, Happiness.

1.はじめに

 最近技術者倫理の重要性がとりあげられて来ているが、その理由の一つは従来、技術の進歩が目先の利便性の向上を目指す事に注目するあまり、不可逆的な環境破壊を主とした、未来世代への負の遺産を作り出して来た事への反省がなされ始めたことによっている。

 しかしながら、我々技術者にとって倫理とか倫理学はなじみの薄い分野であった為に、学生に技術者倫理を指導しようにも、何をしたら良いのか迷う羽目になる。技術者倫理のテキストは確かに米国の幾つかの学会から出されているが、それらは主に技術者が具体的に倫理的な判断を下す必然性の生じた時の事例集のようなものであり、実際的のように見えるが、倫理の根本に立ち返って技術者が自分で考えて判断をする事、すなわち自分で倫理について考える助けにはなりにくいように見える。 一方、科学、技術、の分野にたずさわらない人びとによる倫理学のテキストは環境倫理学と言われる分野の本でさえ、倫理の分野の専門的表現が多い上に、技術に対する過剰の期待がなされやすく、やはり技術者の身近なものとはなり難い雰囲気がある。

 本稿では技術者の視点で、従来倫理学と言われる分野で、なにが取り上げられ、論ぜられてきたのかを出来るだけ簡明にサマライズした上で、エネルギー利用の倫理を“エネルギー倫理”と呼んで、それが何故今、新しい倫理の根幹にあるのかを論ずることを試みる。

2.倫理学の三つの流れ

 倫理学(英語では倫理、倫理学ともにethics)とは何か、すなわち倫理学の定義は多くの倫理学のテキストの冒頭に書かれているが、最も端的に分かる表現が、イギリスの功利主義倫理学者者シジウィック(Henry Sidgwick)の著書(1)、The Methods of Ethics (1874)になされている(功利主義とは、最大多数の最大幸福を社会の目標とするベンサムにより提唱された思想)。それによると、倫理学とは人が自分の(自由な)意志の下に行動する時に、何を行う事が正しいのかを論じ判断する学問である、とされている。

社会現象を、これはこうである、と叙述するだけではなく、それが正しい事か否かを判断しようとする点で倫理学は他の学問と全く異なり、すべての学問の前に置かれるべき重要性を持つことになる。

 そこで次に、何をもって正しいとする事が出来るのかが問題となる。人間の行動についてそれを判断するのだから、そうなると、その行動が何を目的になされたのかを考える事が必要になる。つまり目的が明示されれば、人の行動がその目的の達成に合致していれば正しい行動である事になる。しかし当然その前に、その目的自体が、正しいものであると判断されていなければならない。

 倫理学の最重要課題の一つは、したがって人の行動の究極目的は何かを考えることになる。正しい究極目的さえ決まれば、それに向かう行動は全て正しいといえるし、その目的に反する行動は正しく無いと判断できる。

 倫理という概念をこのように捉えて倫理学の歴史をたどると、大きく二つの流れのあることが分かる。それらは、

1.アリストテレス的な見方:アリストテレスは人生の究極目的は幸福である、と考えている。その幸福は大きく、享楽的、政治的、観照的の三つに分けられるが、勿論それらの内の観照的すなわち知的な活動に快を見出す幸福が最高のものであるとしている。著書、ニコマコス倫理学(2)、は幸福を正面きって論じた書物の元祖の一つとされているが、このように究極目的をたずねて、行動の正しさを論ずるやり方はアリストテレス流と言えよう。


2.カントの考え:アリストテレスの考え方はいかにも論理的で説得力がありそうだが、これに真っ向から反対するのがカントだ。カントは自分の考えがアリストテレス流と正反対であることを判然とさせる為に、コペルニクス的転回、という言葉を使って自分の考えを主張した(3)。

 カントは人間には先験的(アプリオリ)に、つまり、あらゆる知識や経験に先立って存在するような、それに従うべき徳が決められている、とする。それはカテゴリカル・インペラティブ(categorical imperative,定言的命法)すなわち天の与えた命令のようなもので、人が目的として探したり目指したりするものでは無い、と断言している。

これら二つの倫理学の流れは、人がいかにより良く生きるかを目指すという視点で倫理を考えるのだから、見方は違っていても、いずれの流れもなるほどと、考え方を理解(詳しい内容はさておき概念としては)できる。

エネルギー倫理とここで呼ぼうとする、21世紀における倫理はこれらの歴史的な倫理学の流れとちがって、人としてより良く生きるという目的よりも、何をさておいても、先ず人類が存続できる地球上の環境を維持する事を目的に掲げ、それに反する行動をしないことが倫理的である、とするものだ。それは第三番目の倫理の流れと呼べるかもしれないが、人類は今世紀には、先ずこの第三の倫理の流れに沿った社会を作らなければ、人類の築き上げたすべての文化は前述の倫理の二つの流れも含めてむなしいことになってしまう(4)。

3.人の自由意志の有無

 前述のシジウィックの倫理学の定義の中で、もう一つ重要な点は、人の行動について、それが自分の意志の下に行われる時に、という但し書きが述べられていることだ。正しい行動をする事が倫理的であると言っても、もしその行動

を自分の意志で決めたので無ければ、その人を倫理的であるとほめる訳にはいかない。正しく無い行動をするチョイスもあるのに敢えて正しい方の行動を選ぶ時に人は倫理的であると言われることになる。

 しかしながら、少し深く考えてみると、自分の行動の多くは何らかの必然的な理由によっていることに気がつく。更に深く考えると、世の中に原因の無い結果は無いのだから、ある行動を自分がしたときにも、それは何らか原因による結果そういう行動に至ったのだと見なせるはずだ。

 すべての現象には原因があり、それらの原因の全てにはまたそれぞれの原因がある、と見ると世の中のどんな一つの現象も、時間を遡れば無限に多くの原因の結果として、今目の前に起こっているのであり、それらの無限に多くの原因のどれが欠けても、その目の前の現象は今見ている現象とは多少なりとも異なっているはずになる。

 人の下す判断も脳の中の何らかの物理現象があって初めて起こりえる事を疑う人はいないだろうから、そうなると自分の意志による判断だと自分では感じても、少なくともその大きな部分は何らかの過去の原因による必然的結果であると見なければならない。

 このような理由で、倫理学者は過去長い間、人の自由意志の有無、その範囲などについて悩み続けてきた。この事を知っておくことが、これから技術者が倫理を考えねばならない時には大切であろう。つまりある事件の倫理的な責任などを、何処まで厳密に追及出来るのかは、大変困難な問題を含んでいるのだと、あらかじめ知っておかなければならない。そうでないと、やっても全く無駄な努力をすることがあり得るばかりか、正義とは程遠い事が正義として行われたりする事にもなり得るのだ。

4.エネルギーについて知る事の重要性

 例えば、星が美しい、という感情を我々は理解できる。これは人間の考えの中だけにある感情だから、人間がいなければ存在しないと言う意味で、形而上の事柄だと言えよう。形而上の事柄は、言葉で言い表せない、というような表現まで含めて言語で記述できると見ると、それは、言語すなわち記号だから、必要最小限の記号である数字の0と1あるいは、周易の陰と陽の記号などがその全てだと言えよう。万物は数であると言うピタゴラスの考え方は形而上の事柄に当てはまると見られよう。

 形而下の事柄は、物の世界だから、熱、光、音、電気、仕事、物質などからなる万物は、エネルギーであると我々は理解している。

 先述の倫理学の話に戻ると、古来、倫理学は形而上の事すなわち、人間の考えの中だけの概念である、正義とは何かについて論じて来た。けれども現代では、エネルギー利用の行き過ぎによって、形而下のものである人間の存在そのものが危険にさらされる事態に至った。易経の注釈である、孔子の書いたとされる繋辞上伝 (5)には、形而上とは道のことであり、形而下とは器のことである(形而上者謂之道、形而下者謂之器)、と書かれている。つまり形而上のことである倫理すなわち道を考える器である人の存亡を先ず考えねばならない時代になったのだ。 すなわち、形而下のものであるエネルギー利用のやり方を人間の存続の条件に合わせることをも正義とみなす、エネルギー倫理、を考える必要が生じたと言えよう。

エネルギー倫理を取り上げるとなると、先ず、形而下の万物であるエネルギーの基本的性質を理解して、その基礎に立って始めて、エネルギー利用の正しいやり方、エネルギー倫理を論ずる事が可能となる。

5.エネルギーの基本的性質、熱力学の三法則

 今の時代になって改めてエネルギー倫理を論ずる必要が生ずる理由は、エネルギーの性質が直感を超えている事によっている。そのために人々がエネルギーの大量消費社会をあたかも、技術の進歩によって人類が勝ち取った成果であるかの様な錯覚におちいっている。したがってエネルギー倫理を論ずるには先ずエネルギーについての正しい知識を持つ必要がある。

熱力学の三法則と呼ばれるエネルギーの基本的性質を復習すると、それらは次のように示される。

 1.エネルギー保存:エネルギーは増えも減りもしない。

 2.エントロピー増大:変化の不可逆性。

 3.絶対温度零度が基準である。

熱力学の教科書には必ず書かれているこれらの法則は、知るは易いけども実感する事は難しい。エネルギー倫理を論ずるにはエネルギーの基本的性質、特に熱エネルギーの特別な性質に基ずく不可逆な変化についてある程度定量的に理解する事が望ましいので、ここで例題によって復習しておく(6)。

次の問題は単純ながら直感を超えたエネルギーの性質を良く示していると思える。
image004.gif熱エネルギーの移り方

まず、図Aに示すように、80℃と20℃の同じ量の水があるとして、これらを混ぜ合わせれば、図Bのように50℃の水となる。今度は、図Aの80℃側の水から熱エネルギーを少しずつ20℃側の水に移動させつつ、理想熱機関を働かせて熱エネルギーを仕事のエネルギーに変換してやると、80℃側の水は冷めて行き、20℃側の水は温かくなって、最終的には同じ温度となる。その温度は48.6℃と計算できる。仕事エネルギー、W、は電気エネルギーか力学エネルギーとして蓄えられたとしよう。
第一法則によって、状態A,BおよびCのエネルギーはどれも同じである。つまり状態が変わってもエネルギー量に変化は生じない。

 理想熱機関を使って仕事を取り出した、という仮定は図Aの状態からCの状態になるまでエントロピーに変化が無いということである。つまり、蓄えた仕事エネルギー、W、を使って熱機関を逆に働かせると、48.6℃の水はもとの80℃と20℃の水に戻せる。元に戻れると言う事は、エネルギー学的に言えば、AとCとは見かけは大きく異なるが、変化は全く起こっていないと見なされる。

 それに対してBの状態は外からの助け無しに元のAの状態に戻る事は出来ない。つまり不可逆の変化が起こったのでエントロピーは増大している。

 以上の過程を計算で示すと、AからBへの変化は、(80+20)/2 = 50、であり、AからCへの変化は、
image006.gif= 48.6+273、となる。後者の計算には、80℃および20℃から48.6℃になる過程でエントロピーが不変、すなわち、(dQ/T)h +(dQ/T)l =0、という条件を使って積分がなされている。ここに添え字、hとlとはそれぞれ高温側と低温側とを示している。

 前者が算術平均、後者が幾何平均となるのは面白いが、前者では℃で計算できるのに、後者では絶対温度Kを使う必然性が生ずる点が驚くべき自然の仕組みの見事さを示している。

6.エネルギーと経済学

 お金が価値の基準を与え、異なる品物の交易に正義をもたらす。アリストテレスはニコマコス倫理学にこう述べて、家政学(オイコノミア)の説明をしている。社会活動に正義をもたらすのだから、家政学の発展した経済学は倫理学と関連が深い。

井原西鶴の日本永代蔵(1689)(7)や、アダム・スミスの国富論(1776)(8)の頃までは、経済活動は、人力と、せいぜい水力、風力などにより支えられているので、経済活動の象徴である富が何処にどんな理由で存在しているのか、それが正義に基ずいて築かれたものか否かが人々の目にはっきりと見えていたようだ。ところが、ドーデーの、風車小屋便り(1865), を読むと、南フランスのアヴィニヨン地方で盛んだった風車による製粉業が20年ほど前にすっかり“悪魔の考えた蒸気”による製粉工場に置き替わってしまった事がわかる(4)。

産業革命は石炭エネルギーの大量消費によって支えられたが、エネルギーの大量消費は莫大な富をもたらす事になり、その富が少数の人たちに独占されて、著しい不正義が世の中に広がってしまった。そのような莫大な富の生ずる社会活動すなわち近代経済を説明しようとするのが、例えば、生産によってどれだけ利益が生ずるのかを考える限界分析と言う手法を考え出した、新古典派経済学である。そして、富の偏析を正そうとして、富が富を生む複利法的拡大の不可避な資本主義の本質的欠陥を指摘したのがマルクス主義経済学だ。

 富の偏りと言う意味での不正義は、前述の人間がより良く生きるという、第一、第二の倫理の問題だが、そればかりでなく、エネルギー大量消費社会のあり方ついて、それは本来人間が生きるべき生き方とは違うのではないかと、第三の倫理感に沿った問い掛けをする人々が、経済学者にも自然科学者にも現れた。

7.エネルギー倫理の歴史

 イギリスの経済学者ジェボンズは著書、石炭問題(1865)に当時の先進国であるイギリス、フランス、ドイツ、アメリカなどにおける石炭の使用量と埋蔵量とを見積って、資源の枯渇を心配している(9)。見積りの当否は別にして、有限の資源を数世代で使い尽くすことに対する配慮の必要性を明確に書いていることは、エネルギー大量使用が、倫理を自分の世代を超えて考るべき必然性をもたらした事を示している。ジェボンズは結論で、英国は石炭のあるうちに出来るだけ発展して、無くなれば元の質素な英国に戻るのだとして、元に戻れない変化の生ずる心配まではしていない。

 エントロピーを定義したクラウジウスは、1885年の論文に(10)、科学が如何に進歩しても人類は新しいエネルギーを創出できないのだから、人類は太陽の放射するエネルギーのみによって、活動するように運命ずけられているのだ、と書いている。現在も、クラウジウスのこの論文に反論できる根拠を我々は持っていない。

 アレニウスは1896年の論文に(11)、大気中の炭酸ガスの濃度が3倍になると気温が8℃上昇するだろうと見積っている。当時の石炭使用量から見てそれが現実に起こりそうだとは見ていないが、現在のIPCCのレポートに報告されている炭酸ガスの濃度上昇を見たら彼はどう思うだろうか?

 廃棄物の処理費用などを製品価格に含めること、すなわち外部費用の内部化を課税のやり方で行う、いわゆるピグー的課税法で知られるピグーは、著書、厚生経済学(1920)(12)に「一国の限りある自然的資源が急激かつ無謀な濫費を被らぬように監視し、もし必要があれば立法手段に訴えてこれを防ぐことは、現在の市民にとってばかりでなく、まだ生まれない子孫にとっても受託者たる政府の明白な義務である」と書いている。この文章は明確に倫理の及ぶ範囲を未来世代にまで広げる必然性が、エネルギー大量消費による社会活動の拡大に伴って生じていることを指摘している。これは後述する、ミクロ倫理とマクロ倫理の概念に沿った見方と言える。すなわわち自分の世代の生活向上をミクロな倫理と見れば、世代を超えた人類の福祉を考えることはマクロの倫理だ。ピグーは人間は目先の欲や満足を求めることを最優先する性質があるので、政府がそれをカバーしなければならないと考えている。

 ルーマニア生まれの数理経済学者ジョージェスク・レーゲンの著書、エントロピー法則と経済過程(1971)(13)は、経済学と熱力学の第二法則、すなわち先述の、エントロピー増大の法則との関連を明確に示している。その中の最も端的な表現が「生産は常に赤字である」という言葉だ。

地中に酸化物として埋もれている鉄を掘り起こして選鉱し、精錬すれば利便性の大きな鋼が生産される。しかしそれは、採掘、輸送、精錬などによる莫大なエネルギー使用無しには決して得られないものであり、エネルギー利用に伴う地球上のエントロピー増加を考えると、その生産は必ず余分のエントロピーを増加させる事になっている。つまり生産する事は、それによって生ずるエントロピー増大分だけ必ず赤字だと言うのである。

生産は人為だけでなく自然にも起こる。早い話、我々人間も自然の仕組みによって、バラバラの元素が集まって大変エントロピーの小さい“製品”として生まれて来ている。けれども、それは自然界全体からみれば必ずエントロピー増加すなわち“赤字”になっているのだ、と著者は指摘している。

経済学の見方からすれば、赤字は必ず誰かが返済しなければならない。上述の赤字は誰が支払うのだろう? 太古から生きてきた人間は、生れ落ちて死ぬまでのエントロピーの赤字、すなわち借金を太陽から来る小さなエントロピーの光エネルギーに払ってもらって来た。鋼作り、車作り、コンピューター作りによるエントロピーの赤字は、太陽光の小さなエントロピーに頼るには手間が掛かるので、化石燃料や原子力という銀行から借金して支払っているといえる。しかしいつまでもその借金を払わずに後回しにしておこうという訳にはいかない、と著者は言う。 未来世代に、払いきれない借金を、環境の不可逆な破壊として残す事は果たして倫理的であろうか?

前述のピグーの心配は、エネルギー資源を未来世代の分まで使ってしまい、不便な生活を未来世代にさせる事だった。ジョージェスク・レーゲンの指摘は、資源の枯渇よりもエントロピー増大の赤字、端的には再生不可能な環境の破壊の後始末を未来世代に押し付けることが困ると言うことである。

8.人間の本性:ミクロ倫理とマクロ倫理

 保育所で子供たちが元気に遊んでいるのを見て可愛いと思わぬ人はいない。我々は自分自身のこと以上に次世代の人類の事を思う本能を持っているようだ。しかし、漢の高祖となった沛公は戦に負けて敗走する時に、馬車を軽くするために自分の子供をつき落として逃げ延びた、という話もある。

 アダム・スミスの国富論の基調となる思想は、人は本性として自分の利益のためには最大の力を発揮するから、私欲(私悪)の放任こそ経済を活性化し結果として国を富ませ公益(大きく見た倫理)に貢献するのだ、ということに尽きる。

 人間の本性がどんなものかを把握する事は難しいが、やはり、目前の利益、満足、つまりミクロな判断を最優先するのが大多数の人の行動であろう。それに対して全世界のことや未来世代のこととなると、それを気にする心は皆が持っていても、それは後回しになりがちだ。

人類始まって以来、こんなやり方で人類は繁栄してきた。今まではそれで良かったのだが、21世紀にいたって遂に人間の社会活動の規模、端的にはエネルギー消費量が限界を超えて大きくなって、人間の本能を野放しにして置くことが、返って人類を危機に陥れる事態に立ち至っているのだ。ここに今、エネルギー倫理を真剣に考えねばならない必然性がある。

目先の福祉を考えることをミクロ倫理、世界全体や未来世代のそれを考える事をマクロ倫理と呼ぶ事にすると話の整理がつきやすい。つまり人間は、倫理であれ、利益や欲であれ、ミクロ優先で生きてきたのであり、マクロについてはあまり気にしなくても何とかなって来たのだ。しかしエネルギー倫理は、どうしてもミクロな視点からは解決できないとエネルギー学の基本は教えてくれている。

ここで問題になるのは、人間がどうしてもマクロな視点で行動するとは思えない点だ。エネルギー倫理の話しをすると多くの人が、それは分かっていても難しいと、悲観的な態度をとる。悲観的になるのは良いが、技術者としてそれはとりたくない態度である。

結局人の本性に沿ってエネルギー倫理の問題を解決するには、ミクロな倫理、ミクロな欲を満たす事がマクロな倫理に繋がる方策を考え出す以外に方法がない。つまり私欲に従ってする行動、目先の倫理観に沿っておこす行動が、世界全体、未来世代の利益、福祉に繋がるようにしなければならない。

9.具体的な方法、言うは易く行うは難いか?

 中国の漢の時代の経済政策について書かれた、塩鉄論、に御史大夫の桑公羊が、経済政策の改革を求める知識人に「言うは易く、行うは難し」とのべた事は有名な話だ(14)。何故、言うは易く行うは難い、かと言えば、答えは簡単で要するに、市民が塩と鉄の専売を止めろと言いながら、専売がなされる利点も引き続き望んでいる事が、御史大夫には見えていたからだ。

 エネルギー倫理とは端的に言えば、徹底した省エネルギーのことだ。省エネルギーを徹底することによって未来世代への環境保全の責任が果たせることになるが、省エネルギーは、現在の安易な生活からより厳しい生活への転換を余儀なくさせる。大気中の炭酸ガスは減らしたい、放射性物質の蓄積は怖い、けれども景気はもっと良くしたい、と人々がの望むとしたら、それ(徹底した省エネルギー)は御史大夫(総理大臣)から見て、言うは易く行うは難い、としか言いようが無いだろう。

 現実を冷徹に直視するならば、省エネルギーを環境破壊が起らない程度にまで徹底させることと、経済の持続的発展をすることとは相反している。これをあたかも両立させる方法が例えば、技術革新によって、可能であるかのような幻想を人びとに抱かせることは、正に技術者倫理に反すると言わねばならない。それはエネルギーの基本的性質に基ずく原理から来る結論である。

 我々は既に手にしている、化石燃料や原子力によるエネルギーの利用をなるべく減らして行き、地上に降り注ぐ太陽エネルギーの利用を進めることにこそ技術の力を応用して行くべきであって、いかなる新エネルギーの開拓も未来世代に負の遺産を残すこと無しには行い得ない原理的な制約を認識せねばならない。

 前節末尾に述べた目先の欲に従う行動がマクロな倫理に適うような具体策の例としては、エネルギーの値段を大幅に上げることが提案できる。例えば電気料金が3倍とか10倍になれば、誰しも競って省エネするであろう。原子炉で細心の注意を払いつつ懸命に作ったり、炭酸ガスを排出しつつ作る火力による電気を、1kWh当たり25円という安い値段で家庭で浪費する権利を未来世代に対して我々は持っていない。

 問題は、徹底した省エネルギーによる経済的

に厳しい世の中が我々にとって良いのか悪いのか、と言うことである。言うは易く行うは難いと誰もが思う理由は、そのような生活が不幸であると、深く考える事無く即断されている為である。

 最も肝要な、どんな社会が人間に幸福をもたらすのかについての突き詰めた考察無しに、エネルギー政策、経済政策を考えることは最も危険である。ユートピアを目指すと簡単に言われることが多いがユートピアは物質的満足と安易な生活を保障する社会ではない。

10.ユートピアとは何か

 幸福についてのアンケートや、雑誌の特集などを見ると、多くの人が満足を幸福とイコールにおいている。幸福について考えないでいる事が幸福です、という意見もよく出される回答だ。幸福には自信が持ちにくいらしい。

はたして満足することは幸福だろうか? すべて満たされて、何も言うことが無い状態を想像してみると、それが良い状態だと断言でき無い何かを感じないだろうか? 少し考えると、人間の本性は、満足イコール幸福と置けるほど単純では無い事に気がつく。それゆえに生きている甲斐がある、と言えるような行動の手本を我々は、満足した人に見ることは無い。

古来幸福について論じた人びとの多数の書物があるが、それらをなん百冊も集めて読んで内容を分析してみると、人の幸福を次のような四つのステージに分けて見る事ができる(15)。1.本能に従って、恋、富、名誉に付随する快を求めて行動する。2.得た快を持続させる。3.悲しみ、苦しみを経験して、それを克服する。4.癒されることの無い、悲しみや苦しみの中に幸福を見いだす。

第4のステージは少し理解し難い。我々は誰一人進んでそれを求める人はいないが、運命により誰でもいつの瞬間にも、悲しみや苦しみにみまわれる可能性がある。その時に人は不運だけれども、それは不幸とイコールではない、という結論が多くの本に書かれているのだ。

幸福は満足そのものでは無く、満足を求めて努力する過程にあるらしい。さらに、宗教書でなくても、癒されることの出来ない苦難や悲しみの中にあってさえ、大きな幸福がある事を示す小説などを我々は理解できるし、求めてそれらを読む。

 我々は、喜んだり悲しんだり、得をしたり、損をしたり、騙したり騙されたり、しつつ幸福を得て人生を過ごすのだから、省エネルギーを徹底して少々経済的に厳しい世の中になる事を何ら恐れる必要は無い。安易な生活を保障する事がユートピアの実現では決して無い。

エネルギー倫理に反する安易な生活をすることは、そのこと自体が幸せでないばかりか、未来世代が我々と同じく幸せに暮らすチャンスを奪う事になるのだ。徹底した省エネルギーに踏み切る以外に人類の進む方向はない。

 ギリシャの哲学者エピクロスを称える次のような警句(エピグラム)がある(16)。

「人間どもよ、汝らはくだらぬことに骨を折り、利得にかられて飽くことを知らずに、

争いや戦いを始めているのだ。

自然のもたらす富は、つつましやかな或る限度を保っているのに、

汝らの空しい判断は、果てしのない道を進むのだ。」

参考文献

1.Henry Sidgwick : The Methods of Ethicks. Hacket Pub.Co. Indianapolis(1981).

2.アリストテレス:ニコマコス倫理学、高田三郎訳、岩波文庫、青604-1,2.

3.カント:篠田英雄訳、岩波文庫、道徳形而上学原論、75,61頁、純粋理性批判、上巻、37,8頁。

4.新宮秀夫:黄金律と技術の倫理、開発技術学会叢書(2001).

5.易経:高田真治、後藤基巳訳、岩波文庫、(1996),

201-1,2.

6.キャレン:熱力学、山本常信、小田垣孝訳、吉岡書店(1978)83,4頁、H.Callen, Willey and Sons(1960).

7.井原西鶴、日本永代蔵、東明雅校訂、岩波文庫、(1994)。

8.アダム・スミス、諸国民の富、松川七郎、大内兵衛訳、岩波書店(1959).

9.W.S.Jevons, The Coal Question, The Reprints o f Economic Classics, Augustius M. Kelley, N.Y.(1965).

10.クラウジウス、自然界のエネルギー貯蔵とそ

れを人類の利益のために利用すること、河宮

信郎訳、、中京大学教養論叢、29巻、3号、

197頁(1988).

11.ピグウ:厚生経済学、気賀健三他訳、東洋経済新報社、(1966).36,7頁。A.C.Pigou, (1920).

12. S.Arrhenius:On the Influence of Carbonic Acid in the Air upon Temperature of the Ground, Phil.Mag. and Sci.,vol.41,(1895),pp.237-276.

13. N.ジョージェスク・レーゲン:エントロピー法則と経済過程、高橋正立他訳、みすず書房(1993)。Nicholas Georgescu-Roegen,(1971)。

14.桓寛:塩鉄論、山田勝美訳、明徳出版社、(1995)、185頁。

15.新宮秀夫:幸福ということ、NHK出版、NHKブックス838号、(1998)。

16.ギリシャ哲学者列伝、岩波文庫、ディオゲネス・ライエルティネス著、加来彰俊訳、(1996),下巻、209頁。

Written by Shingu : 2002年12月14日 11:11

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