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エネルギー利用をめぐる作法

「炭酸ガスは困る、原子炉も怖い、環境は大切だ、景気は良くないと大変だ。」こんな事を漠然と不安に思いつつ、我々は安楽に暮らしています。でも心の底では、「こんなに贅沢してバチが当たらないのかしら」、と感じている人も多いのではないでしょうか。

暑くても、寒くても、ひもじくても、苦しくても、昔の人は、いま住んでる場所(地球)はいつまでも安心して存続できるような、つまり、子孫の将来を危ぶむ心配をしなくても済む生活をしていました。今の環境問題の根幹はなんのかの言っても結局、我々のエネルギー利用の仕方が、本来の作法に沿っていないところにある、と明言できます。

例えば、芸術であれ、技術であれ、一級のものは、みごとに作法にかなった、人の振舞いによって生まれるものでしょう。作法にかなったエネルギー利用をわれわれは意識しなければなりません。作法に外れた振る舞いには必ず、その報いが現れます。搾取された自然が、妖怪を人類に差し向ける前に、今、大急ぎで、作法に沿ったエネルギー利用にもどらねばならないのです。

ところで「作法」という言葉をいろいろ調べてみると「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」、という曹洞宗の開祖道元の著作に行き当たります。正法眼蔵とは、仏の正しい教えの真髄、という意味です。そこには、お釈迦様が守ってこられた肝心カナメの作法は「不染汚(ふぜんわ)」である、と明確に書かれています。 「不染汚」とは自分の身の回りの環境を汚さないことです。

今の社会生活に当てはめて考えるならば、環境を汚さない自然エネルギーの量は限られているのですから、作法に従ったエネルギー利用とは取りも直さず、エネルギーの節約ということになります。電気やガスやガソリンなどの値段が安いからといって贅沢にこれらを浪費することは「作法」にかなった行いではないのです。

未来の世代の幸福を考える習慣を我々日本人は昔から保ってきています。鎌倉初期の公家で歌人の藤原公経(きんつね)が、自分には見ることの出来ない未来の春に咲く桜の若木を植えた気持ちを、大切にしたいものです。
 

山桜峰にも尾にも植ゑおかん見ぬ世の春を人や忍ぶと (新勅撰集1040)


注:道元、1200-1253、正法眼蔵、洗浄、参照。藤原公経(西園寺公経)1171-1244、入道前太政大臣、花誘ふ嵐の庭の雪ならでふり行くものは我が身なりけり(百人一首)。

(2001.11.6 ホメオ京都)

Written by Shingu : 2003年02月14日 11:24

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