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リサイクルできるもの、できないもの、すべきもの、すべきでないもの

京都エネルギー環境研究協会 第二回総会 講演会  2002年6月22日

京都大学エネルギー科学研究科 教授 石原慶一 氏

昨日一昨日とリサイクルとか、環境について話をする機会があって、話の後の懇親会で、新宮先生からこういうタイトルで講演をして欲しいと依頼をされているとの話題になった。リサイクルと言っても、対象は種々雑多で、こんな話をするのはすごく難しいし、すぱっと割り切って話が出来ないなぁーと言う事になった。しかし、省エネ共和国大統領の命令なので、思い切って考えている事をすぱっと割り切って話をしてみたいと思う。

 リサイクルという言葉は色んな風に使われているが、循環型社会基本推進法が制定されていて、白書が発行されている中で、定義されている。この基本法の下に例えば容器包装リサイクル法とか、家電リサイクル法とか、食品リサイクル法とかがあり、こういう幾つかの法に掲げられていないものについては資源有効利用推進法で色々なものをリサイクルしようと言う事になっている。日本では、家庭や事業所から排出される廃棄物量は年間5000万トン程度、産業廃棄物は4億トンで、これらを処分する処理場が不足してきた。産業廃棄物の処理は後三年で満杯になってしまうと言われている。新しい処理場を建設しようとしても、住民の反対運動が起こって、新しい処理場を建設出来ないので、こうした法律を作って廃棄物を減らそうと言う事になっている。そこで、国の方針として少々エネルギーを使って無理をしてもよい、無理をしても廃棄物を減らそうと言う事だと理解している。

循環型社会基本推進法の基本理念として、3Rと言う事が謳われている。Reduce, Reuse, Recycleの三つで、これを推進するのだが、この中でReduceが最重点項目となっている。最初Reduceを生産量を減らすのかと思ったが、そんな事を言えば環境省が経済産業省のお叱りを受ける訳で、そうではなくてゴミの量を減らそうと言う事であった。それで、ゴミの量を減らして、どうしても減らない分をReuseで再使用再利用しましょう、それでもどうしても駄目だったら高分子ならモノマー迄戻し、金属なら金属材料まで戻してマテリアルRecycleをしましょうと言う理念だ。これで経済産業省にとっても重要なプラグラムとなって、3Rを推進しましょうと動いて、色々な産業で推進されている。本日はこの国の3Rの現状を話しするのではなく、独自にリサイクルを考えて、それについて話をしたい。

 ゴミはある人にとって不要になったものと定義出来る。これは別の人には使えるかもしれない、これがリサイクルの基本の第一歩。また、そのままでは使えなくても形を変えれば使えるかも知れない、こういうリサイクルもあるかも知れない。そういうリサイクルを考えましょうというのが今日の私の話の要点。要するにゴミとはその持っている意味からはある人にとって不要になったものであるが、別の人や皆にとって不要なものではない。ゴミとは、捨てるゴミあれば拾うゴミありで、必ず誰かが拾ってくれるものなのだ。本日リサイクル出来るもの、出来ないものをはっきりさせなさいと言う事であるが、これを判り易く言うと大抵のものはリサイクル出来るものと言って良いのではないか。

 産業では例えば板から小さい円板を打ち抜くと3割は残材になるし、プラスチック製品を作る時には湯道が残材になるが、産業ではこうしたものを必ずリサイクルして原料として使用している。大抵のものはリサイクル出来ると考えて間違いない。日本の32産業分野で排出される廃棄物量を試算してみた。そうすると製造業からは殆どゴミが出ていない。日本の製造業は無駄な事をしていない。それではどの産業からゴミが出ているかと言うとサービス産業から物凄くゴミが出ている。公務関係医療関係建設業等で、見逃せないのが教育関係で結構ゴミが出ている。冗談ですが、プリントを配っても直ぐゴミとして捨ててしまわれるし、大体教えた事でも頭に残っていないから教育は全部ゴミかも知れない。

 例えば、何かの分野で1万円の価格で何かをした時、その分野でどの位ゴミを出しているかを調べた。500分野について調査を行って、例えば映画を1万円分楽しむ為には、この分野で物凄い量のゴミを排出している。マスコミ関係もゴミが多い。映画やテレビのセットは一度使ったら二度と使わないで、使った物は全部捨ててしまっているらしい。分別もリサイクルもされていないようだ。こちらの映画で使ったセットをあちらのドラマで使おうとか言う事なしに、全部ゴミになっている。要するに製造業分野ではリサイクルを行っていてゴミが少なく、サービス産業では分別が行われずいろいろな物が混ざってしまって物凄くゴミが出ている。素材が判っていて、分ける事が出来たり、大量に同じ物があれば、リサイクルが進む。

 それでは次に家庭ではどうするか。「分別は分別」(ぶんべつはフンベツ)と読んで下さい。ぶんべつはゴミを分けると言う事で、フンベツは良くもの事が判っていると言う事です。フンベツのある人はゴミをぶんべつして出して資源としてリサイクルする。

しかし、これにはいろいろ問題もある。本日の皆さんは京都住民だけでなく、各地から参加して戴いている。それぞれの地方でゴミの分別の仕方は種々雑多である。各自治体毎に分別の仕方が異なり、友人の家に行ってお手伝いをする時も、缶と瓶は分けるのかどうか、聞かないと判らない。缶と瓶を分ける、一緒で良い、缶と瓶を分けた上で瓶を色毎に30種類に分ける必要がある等、日本全国まちまちである。楽な処では大阪市内など不燃物なら一緒でよいと言う処もある。30種類に分ける処を酷い処と申しましたが、あまり細かく分けてしまうと回収コストが高くなってしまうので、酷いと言ってしまった。

 それでは家庭では分別をどの位まで行うのが適当であろうか。今日はこの位迄は実践した方が良いのではないかと言う所を考えてみたい。家庭では容器包装がゴミの中に占める割合が比較的に大きくて一番問題である。容積で言うと55%を占めている。容器包装をきちっと処理すれば普通に出すゴミは半分に減る筈ある。重さで言えば22%である。容器包装以外のゴミは残飯とかへたなどの野菜くず等で水分が多く重いが、容器包装は紙とかプラスチックとか、瓶とか缶で軽い。それで、容器包装リサイクル法をきちっとやれば、容積で50%、重さで22%のゴミが減量出来る訳でゴミ問題が可成り解決される事になる。ところが、現行の容器包装リサイクル法は上手く出来ていないのでなかなか進まない。

 容器包装リサイクル法よれば消費者の出したゴミについては地方自治体が回収と保管に責任を負っている。事業者はリサイクルの再商品化の義務を負うので、容器包装リサイクル協会という指定法人に委託して処理をして貰っている。そして再商品化出来るものは事業者が再商品化し、再生加工の必要なものは指定法人が再生加工し、リサイクルの輪が上手く廻るだろうと法律が作られた。しかし、法律、施行令をよくよく読むと、自治体はその年の収集実績を見積もり、その見積もりを指定法人に登録する。指定法人はその見積もりに従って引取量を決める。指定法人はこの見積もり量以上は引き取らない。そこで各家庭が自治体からの指示に従ってゴミを分別して捨て、現実にはゴミが集まると自治体はこれを指定法人に持ち込むのだが、この見積もり量が物凄く過小申告をしてるので、沢山ゴミが集まっても、指定法人の引取量は最初の少ない見積もり量しか引き取らない。その上、容器包装の判断基準が難しい。その定義は容器又は包装で商品を包んでいる物であって、中身と分離した時不要となるものとされている。例えば、CDのケースは中身のCDと分離した後もそのケースとして保管するために使えるのでこれは容器包装では無い。外側の透明なフィルムははがして捨ててしまうのでこれは容器包装である。社会通念上、容器包装であると概ね判断可能だが、これに反する例として、弁当のバランは昔は本物の植物で問題がないのだが、現在はプラスチックで出来ている。これはどう考えても容器包装ではなく、容器包装リサイクル法の対象外なので、幾ら分別しても引き取ってくれない。それではどうすれば家庭で間違いなく分別できるかと言うと容器包装リサイクル法の対象になる容器包装には必ずリサイクルのマークがついている。紙なら紙のマーク、プラスチックならプラスチックのマークがついて、材質が表示されている。こうしたマークのついているものについては分別して廃棄すればよい。しかし、これでも難しい例がある。例えば、練り辛子とか、マヨネーズのプラスチックのチューブの先にアルミ箔がついているがこれは容器包装リサイクル法の対象になる金属なので分別して回収せねばならぬが、このアルミ箔を剥がして集めて分別して捨てている方がおられるなんて信じられない。一方先程のバランのような大きなものでも対象外のものも沢山ある。法律にこうした処がきちんと書かれていれば良いのだが、それがなかなか出来ていない。

 容器包装は歴史的にも非常に大切であった。縄文式土器に始まって、弥生式土器となり、ガラスになって、器から密閉出来る瓶になり、これらの容器は大切なものであった。ビールや醤油や酒は瓶を持っていって、中身を購入するデポジット制となっていた。ビール瓶は酒屋が5円で引き取り、問屋は7円で、そしてビールメーカーは11円で引き取る。新しく瓶を購入すると30円かかるところを洗って使えば20円程度で済むので、関係する皆が得をする事になるように、うまくシステムが出来ていた。それ故、ビール瓶は90数%の回収率で、30回程度使われている。ところが昭和30年代、瓶の大量生産方式が開発され、製造コストが大幅に下がり、ものとしての価値が下がってしまい、リサイクルが進まなくなった。ペットボトルもこれ以上便利なものがないと言うようなもので、全く科学技術の進歩のお陰である。ペットボトルは中身込みで150円程度であるが、これを250円程度に値上げすると上手くリサイクルされるようになるかも知れない。実際に大阪大学の生協では、デポジットすると10円返してくれすようになっている。なかなか感心な事だと思って、学生に聞きただすと「いやぁー、返しても10円ですからねー。わざわざ下宿まで帰ってペットボトルを持ってきませんよ。」との事で、現実にはどうもうまくいっていない。それでは1万円ならどうなるかと言うと自動販売機を壊して、自動販売機の中身の現金を盗むのではなく、ペットボトルを盗む奴が出てくるので、どうも、やはり100円程度のような適正なデポジットの価格がありそうだ。

ペットボトルの生産量は平成12年で35万トンで、約34.5%の回収率である。3分の2がどこかに廃棄されてしまっている。これをなんとかするよい手だてが必要であろう。ペットボトルの回収率は上がってはいるが、生産量が増加しているので、廃棄される量自体はどんどん増えてきた。平成12年になって始めて廃棄量が減った。

 ペットボトル以外のプラスチックの回収を行っている市町村比率とその人口比率を紹介する。例えば、京都府では34%の市町村が回収を実施しているが、京都市では回収していないので、人口当たりにすると0.34%の回収しかしていない事になる。政府では、市町村の実施比率をみて、どんどんプラスチック回収が進んでいると称しているが、大都市ではそれ程進んでいないので、人口当たりでみると一向に進んでいるとは言えない。コストの問題があって大都市では回収が行われない。名古屋市の例であるが、名古屋市ではゴミ処理場が完全にパンクしてしまい、厳しく分別収集を行って、ほぼ完全に回収するようになった。しかし、その費用は一般ゴミの処理費用が1kg当たり55円で済むところを資源回収処理をすると93円かかり、要するに税金の負担は重くなっている。資源回収処理をすると高くつくのだが、最終処分場が無いので仕方なく行っている。

 東京都の粗大ゴミの処理費用は212円、家電リサイクル費用が40円から80円。鉄鋼会社の鉄の元売り価格はキロ当たり22円なので、新しい鉄を買って来て、使わずになにもせずにそのまま捨てると40円から80円かかると言う時代である。うっかり鉄鋼会社からプレゼントですよと鉄を1トン貰うと捨てるのに莫大な費用がかかると言うそういう時代であると知る必要がある。

 プラスチックリサイクルの例では、発泡ポリスチレンの新品コストがキログラム150円に対し、再生品は350円から550円。ペットボトルでは新品が200円に対し、再生品は320円から620円で、どうしても再生品のコストが高くなってしまう。最近、プラスチックを高炉還元すると言う事で政府が進めている。プラスチックを鉄鋼会社に持って行けばよいと言う事であるが、この処理費用が230円から240円、一方通常は微粉炭を使っておりこれが5円で、とても太刀打ち出来る値段ではない。

 紙の例を最近調べた。昔からちり紙交換があって古新聞をちり紙と交換してくれる。私自身学生時代にアルバイトでこれを行った事がある。軽トラック一台で、7000円位になった。一日頑張ったら2台分位集まったので、一日14000円になった。これは当時としてはとてもよいアルバイトであった。この当時、新聞1キロ当たり12円から13円だった。今の新聞紙の値段は、製紙会社が購入するのは9円であるが、回収問屋では2円から2.5円である。雑誌は売れるのではなく、こちらが1円支払わねばならぬ。段ボールはゼロ円である。この話をすると主婦の方々は昔は古紙を集めたらお金になったけど今では損する事もあるので、集めずゴミとして廃棄するのだとおっしゃる。しかし、これは間違いで、ゴミとして処理をするには55円かかり、これは税金で支払っていることになる。要するに無料で引き取って貰える紙はましな方で、歴史的にもビール瓶より古くからリサイクルされていて、物の中で一番うまく廻っているという事である。

 昔は「勿体ないから持っている。」と言う事であったが、今では「持ったら損。」と言う時代になっている。素材コストより流通コストが高くなっている。ペットボトルの水の例をとると、ペットボトルの原料コストは20円、流通コストは80円、中身の水は5円もしない。回収すると流通経路を遡る事になり、流通コストと同じコストの80円がかかるので、回収しても20円の原料コストに太刀打ち出来ない。要するに捨てたら勿体ないと言う時代から捨てるのに高くつく時代になっている。そこで何が起こっているかと言うと、ここ3年間で急にプラスチックの輸出量が増加している。ゴミはバーゼル条約で輸出を禁じられているが、プラスチックは資源としての輸出が急増している。特に平成13年では輸出先の50%が中国である。噂として聞いた話であるが、中国にはプラスチック街道と言うのがあって、行けども行けども道の両側にプラスチックの廃材が山積みになっているところがあるそうである。中国ではプラスチックを再生している。それが例えば、ユニクロの衣料として、日本に輸入されている。聞くところによると価格体系は中国がプラスチック廃材を有償で引き取っている訳ではない。中国の港の引き渡し価格が丁度ゼロ円になっている。日本からは有償で港を出港しているが、輸送料で荷出しを行っている。これがお金を出して輸出していると廃棄物の輸出という事でバーゼル条約に抵触するが、丁度抵触しないぎりぎりの処で取引が行われている。

 昔、紙の消費は文化のバロメーターと言われていた。文化人類学の学者に言わせると文化とは「人間生活に関わりのあるものの中で、種の保存にとって本質的でないものすべて」という事である。だから、言語は文化である。食べ物は食べるだけなら文化ではないが、美味しく食べるとか、料理をするというと文化という事になる。こうなるとゴミは文化ということが出来るらしいと考えた。そうするとゴミと文化は比例するのでないかと考えた。OECDの統計資料を調べると一人当たり年間の排出量でアメリカでは700kg、次がカナダで650kg、ドイツはゴミの先進国と言われているが、351kg、日本は400kg、ベトナムのハノイ市で153kgである。日本で容器包装リサイクル法を完全に実施すると320kg位まで減らす事が出来るという事になる。それでは、アメリカ、カナダは文化の進んだ国で、ベトナムは遅れているという事になるのだろうか。

 最後に文化とは人間生活に関わりのあるものの中で、種の保存にとって本質的でないものすべてという事をベースに考えをまとめる。

 ゴミは文化の中でも物質文明に結びついている。精神的な事には関係なく、物質に結びついており、物質文明の象徴であり、文化である。文化であるとすると種の保存に関係のないものであり、生活にとって本質的なものではないので必ず減らすことが出来る筈である。最近、携帯電話が普及して、携帯電話が生活必需品であり、持っていないと生活して行けないとか、或いは電気が無かったら生きていけないとか、テレビが無かったら生きて行けないとかいう人がいる。もしそれが無ければ生きていけない思った時には、それは生活必需品であって、もう文化では無くなってしまうのではないか。それを種の保存に必要な事であると概念的に頭に受け入れた時には、もうそれは無くする事が出来ない。そういう事を沢山抱え込んでいる人たちを文化の進んでいる人間と思うのは間違いで、生活必需品であると思った時には、それはもう文化ではないので、そういう人達は文化人とは認めがたい。文化人というのは何時でもそういうものは捨てられるよと、これは生活必需品ではなくプラスアルファとして楽しんでいるのだと、そういう気持ちでおれる人が本当の文化人で、本当に文化的な国であれば、ゴミを減らす必要があれば、直ちに減らす事が出来るはずだと考えている。

                          以上

Written by Shingu : 2003年02月14日 11:26

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