トップへ戻る

随想・言葉の値段 

京都大学大学院エネルギー科学研究科 広報        2001年6月

“人はその有すべきものを有す。神といえども之を如何ともする能わず、かるが故にわれ驚かず、また悲しまず。われらのものは他人のものとなるを得ざれば。”この短い一文だけが書かれた本を全財産と引きかえに買う男の話がインドの古い説話集、パンチャタントラにある。彼は誰に会っても、なにを聞かれてもこの一言のみを繰り返し唱えたので“有すべきもの”というあだ名をつけられだけれども、結局チャンドラヴァチ(月のように美しい)というお姫様と一緒になれた、という話だ。

英語にpriceless とか invaluable という単語があるが、値段が無いということは、どんなにお金を出しても買えない大切なものを意味している。“有すべきもの”という男はこの言葉の書かれた本に、金で買えない価値をみたわけだ。そう考えると、我々は本を読むときに、それがどんなに大部のものであっても、その本の述べようとする一言は何か、を探りながら読むと読み易いことに気がつく。また、どんな分野の人物でも、その人を端的に知るためには、その人の一言を覚えるのが得策であることに気がつく。

世界ではじめて革命らしきものを起こして、秦を倒すきっかけをつくった陳勝の一言は“燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや”であり、ソクラテスは“汝自身を知れ・・”という言葉を吹聴した。アダム・スミスは“みえざる手”、カントは“コペルニクス的転回”・・・、などと言えるだろうか。

これらは人の考えの中の事柄、つまり形而上の言葉だが、形而下のことすなわち自然科学の歴史上の人物もたとえば、クラウジウスはエントロピー、ケルビンは零度K,ニュートンならリンゴとか万有引力、アインシュタインはE=mc2 だろうか。これらはいずれもinvaluable でありpricelessな業績がひと言で示されている。

フランス人で経済学者のセー(J.B.Say,1767-1832)はマルクスから“俗流経済学者”とケチをつけられた人物らしいが、彼の一言に“生産物に対して販路を作るのは生産である”、あるいは“供給はそれ自身の需要を作る”というセーの法則がある。この言葉は、経済学の本を見ると、供給過剰などの現象の起こることを説明できない、などと細かい理由でケチをつけられているが、“有れば使う”という人間の心理(本性)をうまく経済学的に表現した名言のように思う。

エネルギーと環境についてセーの法則を考えてみよう。環境問題の根本原因は何の論議の余地も無く、エネルギーの大量消費にあり、それは我々の限度を超えたぜいたくな暮らしのためであることも自明のはずだ。けれどもエネルギーが安く大量に供給されれば我々はそれだけ気安く, 気楽に使ってしまうことを避けられない。神戸のルミナリエや京都のお寺のライトアップがきれいだ、楽しいと新聞もテレビも囃したてて、貴重なエネルギーを浪費する工夫に専念するのは、供給に応じて人間がどんどん需要を考え出す良い例ではないだろうか。 お寺のライトアップを見てその電気が火力発電所や原子炉で作られていると考える人はまずいないだろう。

度を越えたエネルギー消費が環境を破壊しつつあることは国連の委嘱により今年まとめられた気候変動に関するIPCC第3次レポートに明確に書かれている。また原子炉の放射性廃棄物の処理、貯蔵の場所をロシアが提供(お金をとって)する可能性が取りざたされたりもしている。これらの状況を冷静に見るならば、今すぐにでもエネルギーの供給を制限し始めなくてはいけないはずだ。 にも拘わらずエネルギーの需要予測を2030年とか2050年まで増加が続くと見てその供給法がいろいろ検討されている。

一体、炭酸ガスも放射性廃棄物も人間にとって毒であることは判っているのに、我々は平気で車からガスを撒き散らして走り、ライトアップを見て喜んでいるわけだ。カレーに砒素を入れたり、地下鉄でサリンを撒いたりする事をとんでもない暴挙だと誰しも非難する。けれども我々は、それにはるかに勝る大量の毒を、車を走らせ、ライトアップをしているときに撒き散らしているのだ。中国の墨子の一言“少見黒曰黒、多見黒曰白”つまり少しだけ黒を見た人がそれを黒だと言っておいて、多くの黒をみてそれは白です、と言っているのと何ら変わらないことを我々は行っていると言えるわけだ。

セーの一言を逆に言い変えると、“供給を減らさなければ需要は減らない”という法則になる。それではどうしたら供給が減るのだろうか。そこには荀子の一言“人は生まれながらにして利を好むことあり、之に従う”がヒントになるだろう。今、供給がどんどん工夫され、需要を見越して拡大されていく理由は、供給が多ければ多いだけ儲かるように経済機構が出来上がっているためだ。利を好む人間の本性は、供給が少ない時に儲かるように仕組まない限り、環境により優しい、というような理屈をつけてでも供給法を考えだすことになる。

環境税を課して、エネルギーの値段をあげることも、そのような仕組みのひとつだろうが、ほんの数パーセントの税をかけてその税収で環境対策を進める、というような発想では、IPCCレポートにみられるような差し迫った環境変化の危機にはとても対応できるとは思えない。エネルギーの値段が3倍とか5倍になれば、我々は誰に言われなくても競って省エネするだろう。戦後すぐや、高度成長期には、ガス代、電気代は実質上現在の10倍以上高価だった。覚悟を決めて抜本的な対策にチャレンジする必要がある。

エネルギーをつつましやかに使って、頑張って生きていくときにこそ我々はハッピーでいられるはずだ。そこに気がついて、供給が需要を呼び、需要を理由に供給が工夫されるエネルギー浪費の悪循環、輪廻の呪縛から逃れなければならない。すなわち仏教の一言“解脱”がない限り、この一文を読んでくれる1000年後の子孫の存在はないように思える。そんなことなら、いっそ今すぐ、“見るべき程のことは見つ”などと言って死んでしまった方が幸せなのかもしれない。

クイズ:最後の一言はだれの言葉でしょうか?・・・(。たしで葉言ので戦合浦ノ壇、盛知平)

Written by Shingu : 2003年02月14日 11:22

トップへ戻る