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災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候

Tempus Destruendi Tempus Aedificandi

この文章はエネカン誌「ENEKAN VOL 2」に掲載されています。
冊子ご希望の方はエネカンまで、メール下さい。

まえがき

エネルギー・環境の問題を考える非営利特定法人(NPO)を始めて3年目になる。NPOというと何か「役に立つ」ことを皆でやろう、という雰囲気があるようだが、当方は一向に役に立つ事をやらずに「なんで節約が大切なんや?」といった「どうでもいい事だけれども大切な事」を「考える事」をしている。

世の中みなが「役に立つ事」を目指しており、大学の先生までが「論文よりも特許」などという言葉を口にして恥かしくないご時世なのだが、また時代が変われば、役に立たないこと、が持てはやされるようになるのかも知れない。

本稿では、そんなNPO活動をしている間に、いろいろ本を読んだり調べたりして面白いと感じた事柄とそれについての考察を、次に何か文章をまとめるためのメモのつもりで、いくつか紹介してみようと思う。これらに関して更に詳しい知識や考察、あるいは筆者の思い違いや間違いをお教え頂ければ幸いである。

1.災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候

良寛(1758-1831)が71歳の時(1828年)に新潟県の三条で大地震が起こった。三条から30キロほど南の島崎というところに住んでいた良寛は、三条の惨状を見て、

なからへむ ことや思ひし かくばかり 変はりはてぬる 世とは知らずて

かにかくに 止まらぬものは 涙なり 人の見る目も 忍ぶばかりに

と、運命にほんろうされる人間の姿を嘆いているが、親しい親戚の人宛の見舞いに、

「災難に逢時節には、災難に逢がよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是ハこれ災難をのがるる妙法にて候」

という有名な手紙を書いている。

今の若者がこの手紙の文句をどう思うだろか興味を持ったので、昨年から技術者倫理の講義を受け持っている大学の一年生(工学部)のクラス90人に感想を書かせて見た。ところが、先ず手紙の文句を紹介して説明を始めた時に何か雰囲気がおかしい。念のため確かめて見たら、なんとクラスの中で良寛という名前だけでも聞いたことのあるものが5名しかいなかった!

良かれ悪しかれ、日本の歴史、文化は仏教ぬきには理解もエンジョイも全く不可能なのだから良寛さんの名前くらいは学校で教えて欲しい気もオないでは無いが、ちなみに、一休さんについて聞いたら全員が知ってた。漫画にあります、という答えである。良寛は漫画にないらしい事がこれで判った。ところで、「災難に逢時節には・・・」の感想だが、ケシカラン言葉だと言う者も何人かいたが、大半はいい言葉と思う、とか、どうにも出来ないことは受け入れるよりしかたがない、という感想であった。西洋の国でこんな質問をしたらこのような「受けいれる」という答えは少ないのではないかと想像できる。

日本は災害の多い国であることは確かなのだけれども、災害が社会の繁栄を妨げて来たと思うのは大間違いであるらしいと最近教えられた事がある。ひとつは地すべり地帯に沿って集落が形成されていると言う調査結果の話である。地すべりによる土地の軟弱化は住むには危険なのだか、土地が柔らかいことは耕作には都合がいいらしい。地すべりなんて起こっても何十年に一度なのだから起こればアンラッキー、起こらなければ穀物の収量が多い土地に住めてラッキー、という考えも「受け入れ」思想につながりそうだ。

河川の氾濫域が肥沃なのは周知のことだが、氾濫によって家も時には人命も失われるのは「しかたがない」わけである。関東ローム層は雨が降るとぬかるんでラグビーの試合が泥だらけで大変になると聞いたが、そこは肥沃で農地は豊かである。そのローム層は富士山の噴火物の堆積なのだから、富士山がドカンといけば関東地方は大災難である。そんなこと何百年か何千年に一度なので、ひとは平気でいられる。

また、災難が社会を活気づける事は日本では昔から常識だったらしい話がある。江戸時代初期に地震が続いた後に「焼け転け白蟻、大明神」というお札が神棚に祀られたらしい。火事と地震(転け)と白蟻の害がなく家々がいつまでも建替えの必要がないと、建築業、大工、左官はお手上げで、今で言えば景気が沈滞することになる、というわけである。聞くところによると建築学会の会議室に掛かる額の裏にはこの文句が書いてあるそうだ(真偽は不明)。

いづれにせよ、災難は困ったことなのだが、災難もまた幸せをもたらす、災難なくして幸せなし、というのが自然の営みである。これを良寛さんは、端的に手紙に書いたと見ると納得がいく。エネルギー・環境の視点でこれを考えれば、災難に逢えるのは生きていればこそであり、今の世の安易な生活を求めて技術に頼り、エネルギーを浪費し環境を汚染して人類の存続を危険にさらす、というのは大いなる愚行ではないか、と良寛さんにお教え頂いたことにしよう(大愚は良寛の号)。

2.GMF(遺伝子組み替え食物)とジェボンズのパラドックス

ニューズウィーク誌といえば昔は進歩的とか言われて、アメリカの週刊雑誌のもう一つの代表タイムの保守的な論調と対比されたものだった。しかし最近はなんか論鋒が鈍って政府の御用誌的な記事が多くて面白みが減った。政府の御用誌というよりは、何でも金で解決、というWTO的、単細胞的、西部劇的な雰囲気になっている。さて、その9月12日号に、アフリカは食物に困って人々が飢えに苦しんでいるのに、収量の多いGMF(Genetically Modified Foods)を導入しないのはおかしい、という記事がある。それによると、GMFが導入されない理由はGMFを受け入れないヨーロッパに気兼ねしている為だということである。ヨーロッパの機嫌をそこねたら、食料の援助がもらえなくなるらしい。

ヨーロッパがGMFを受け入れない理由は、科学的根拠の無い新技術アレルギーのためである、根拠のない好き嫌いの為に多くの人が飢えるのは倫理的に困った問題だ。というのが4頁に渡る記事の主張である。

これほど断定的に、新技術を導入する側に立って雑誌記事が書かれると、首をかしげたくなる。GMFにせよ他の新技術にせよ、「安全である」という「科学的根拠」は論理的に絶対に示せない問題である。確実に「安全でない」ことは示せるけれど「安全である」ことは人類が滅びるまで観察して初めて、その期間は影響なかった、とだけしか「科学的」にはいえない。

例えば、フロンガスはオゾンホールを作ることが判明して製造禁止になったが、それまで長い間「安全である」として散々冷房器具に大量使用されていた。「安全でない」証拠は何時出るか不明だけれど「安全である」という「証拠」を出すには無限の時間が必要なのである。

だから、戦戦兢兢として深淵に臨み、薄氷を履む、ような気持ちで新技術の導入をしよう、と言うならまだしも、経済的な大きな利益があるのにGMFを感情だけから拒否するのは人道的でない、と主張するのは権威ある雑誌としては拙いのではないかと思う。特に穀物という皆が食べるものについては、リスクが小さくても、そして利益が大きいからと言っても、何かあった時の被害の重大さを考えると、慎重の上にも慎重でなければならない。

もう一つ、新技術に関して気にしなければならない事は、「便利になる」ことがいつでも「世の為、人の為」に良いのか、という問題である。イギリスの経済学者ジェボンズはエネルギー効率の良い新技術はそれによって生産量が増加するので、かえってエネルギー大量消費を助長する、といういわゆるジェボンズのパラドックスを1865年に「石炭問題」という本に書いている。

同様の事態は農耕技術が出来て人々が豊かになったか、という問題についても言える。耕作による食料増産はすぐに人口増加を呼んで、結局農地不足、土地の取り合い、戦争、というコースが世界中で起っているのである。産業革命は大きい富を社会に生んだはずだが皆がリッチになるどころか、多数の貧困者が出てしまった。その貧困を「救う」為というキャッチフレーズで20世紀を通じて科学技術の革新が奨励され、みながそれに励んで来た。しかし現在でも、世界一金持ちの大国にホームレスの人、治療を受けられない病人が多数存在している。GMFをアフリカで使わないと飢餓が救えないのではなくて、社会体制が悪いから飢餓が出るのである。GMFの供給は、企業が利益を挙げるという目的にはピッタリだが、利益が挙がるとか、得をするという事柄にたいしてはそれが「安全である」事を願望する気持ちも強くなる。願望が正邪の判断を曇らせる最大の原因であることは、歴史が繰り返し教えている。

3.英語コンプレックスからの開放:英語上達の必要はない

ジョセフ・コンラッドは「ハート オブ ダークネス」と言うタイトルの小説を19世紀末に書いた。ポーランド生まれのイギリス人船乗りの書いたこの本は結構有名なのだが、思うに、有名である大きな理由の一つはタイトル「Heart of Darkness」がアッピールするためであう。岩波文庫に「闇の奥」として中野好夫訳で出されている。直訳すれば「闇の心」となることは中学生でも判るが、それでは闇を擬人化した雰囲気でダメである。「闇の奥」とした訳者の気持ちは判るが、奥、はハートとは違いしっくりと来ない。闇、という謎っぽいものの、心臓部分、最も暗い闇の中心、といった雰囲気が原題にはある。適訳は日本語では無理なのであろう。

中味は、アフリカが暗黒大陸と呼ばれていた時代に、暗黒大陸の真ん中で象牙を集めていて殆んど連絡の無くなった男、クルツ、をコンゴー河を遡って探しに行く主人公の語り、という形式の小説である。暗黒大陸の真ん中の暗黒さ、黒人と白人のゲンナリする関係なども、ダークネス、というタイトルに含まれているようだが、一番のダークネスは、クルツ、の心の闇ではないかと思える。人間の心を覆う闇みたいなものをクルツという謎めいた、俗物かつ超人みたいな人物に凝縮しようとしたらしい、と勘ぐって何度か読んでみたけれども、結局読後感は「いいタイトルだな」である。

クライマックスを書いてしまうのは全く気が引けるけれども、英語の原文を見る人は殆んどないと思うので、訳の難しさの例としてこの小説の「決め」の一言を紹介しよう。クルツにはパリに残した婚約者がいる。クルツは暗黒大陸の中心から「救出」されてコンゴー河を下る途中で死んでしまい、語り手の主人公が遺品を届けに行く。主人公がクルツの最後を看取った事を知り婚約者は、いまわの言葉、を聞かせて下さいとせがむ。そこが問題なのだが「The horror! The horror!」と叫んだクルツの最後の言葉を告げようとして、主人公の口から出た言葉は「The last word he pronounced was - your name」だった!

Horror はホラー映画のホラーだから「怖ろしい! 怖ろしい!」と言った雰囲気らしいけれども、中野は「地獄だ!地獄だ!」と訳している。クルツは死にのぞんで人生を総括した、と憶測するならば、地獄だと訳すのは少し面白くない。けれどもクルツの頑迷さを察すると死ぬ時に怖がったという印象も拙いかもしれない。自分が怖ろしいのではなくて、お前達、この世は怖ろしい場所だったよ、とか言ってる雰囲気と取ったけれども、ご不満の向きは、岩波文庫を読んで下さい。

さて、前置きばかり長くなったけれど、言いたいことは、所詮英語をいくら勉強しても、とてもまともに英語の本を読むことさえ無理なんだということである。中野好夫も、あとがき、にこの岩波文庫の訳(1958年)は前訳(1940年)が間違いだらけだったので、すっかり訂正したと記している。そしてこれでも自信がないので、誰かもっといい訳が出来る人はやって下さいとしている。中野好夫にしてこの程度の英語力である、専門家になるのでなければ、外国語はいくら努力しても大したレベルになることを最初からアキラメるが勝ちである。アキラメたとたん、どんな外国語も一挙に親しみが湧いて、原典を覗いて見る気になり、得るものが大きくなる。

今英語教育が持てはやされて、小学校から英語教育をしよう、なんて動きがあるらしいけれども、愚の骨頂とはこのことを言うと思う。英語が大切だと主張する人達は、ガイジンに混じって会話を出来ないので、自分も英語ができたらなあ!などという全くお門違いの嘆きを楽しんでいるのではないか? 会話に入れないのは英語のせいでなく、会話するネタが無いか、話の内容が違うだけなのである。会話には向き不向きがあって、話し上手な人は言葉を知らなくても平気で話を弾ませることが出来る。会話は会話力できまる、語学力ではない。

もっというならば、最近大学でも論文は英語で書かないと世界で認められないなどと学生に説教する先生が結構いる。小生も恥ずかしながら昔はそんな気持ちで英語の論文を書こうとしてあせっていたけれども、本当にオリジナルないい仕事なら何語で書いてもいいものはいいとタカをくくるべきだと今は思っている。最近も論理学の英語の本に引用してある肝心カナメの論文が日本語の古い論文だったが、早速原典をみるとたった一頁にちょろっと式が書いてあるだけだった。大学の先生も学生に説教するなら、先ず自分の納得出来るいい仕事をすることを教えるべきで、何語で書きなさい、などと下らんことを言うのは本末転倒というものである。

日本語が判らずには英語も、どんな外国語も判るわけが無い。日本語を深く理解してこそ外国語の理解も出来るようになる。英語の教育なんてせいぜい中学からで充分で、小学校の大切な時期に異文化の言語を教えるくらいなら、前節に書いた良寛さんの事蹟でも教えたらどうだろうか?文部科学省はそんな事も教えないでガイジンと何を喋らせようというのでしょうかね。

4.王者的学問と奴隷的学問(哲学でいくか、科学でいくか)

学問はどんな学問も同じで、別に序列があるなんて考えてみなかったが、アリストテレスは、上位の学問とか王者的学問があり、それに対して、付随的な学問、奴隷的な学問があると「形而上学(けいじじょうがく)」に書いている。王様が貴くて、奴隷は賎しいと思わなければ、学問の貴賎、という話ではないが、アリストテレスは何を言おうとしたのだろう。

アリストテレスの本は多いが彼の発想はいつも、物事の根源、始まり(アルケー)に「こだわり」を持つのが特徴である。「けだし、始まりは全体の半ば以上である」と倫理学の本にも書いている。そうなると、学問の根源はどこにあると言うのだろう?

「形而上学」の第4巻(ガンマ巻)3章に、全ての学問は何かの基礎の上に築かれるもので、その基礎となるものは「公理(axiom)」と呼ばれるものである。と先ず述べて、数学であれ、自然学であれ、公理、すなわち誰が見ても「あたりまえ」な原理の上に築かれるものであるが、それらの学に従事する者は、その「公理」そのものについてそれが真か偽かを語ろうとしない。故に、それらの学者達より上位に立つ学者がいるのであって、上位に立つ学者は「第一の知恵(第一の哲学)」すなわち、公理そのものの考察も含めた実体の全体を全体としてありのままに研究する、と書いている。

要するに、公理、というルールを「あたりまえ」だからと受け入れて、ルールの中で学問を詳しく、細かく、壮大に築く多くの学問は「奴隷的」であることになる。それに対して、「あたりまえ」がほんとにあたりまえか?などと、全く役に立たないことを考えるような学問すなわち第一哲学は「王者的」と言えるらしい。この事はきわめてはっきりと「このような学(第一哲学)は、生活の必要という点では他のいずれの学もこの学以上であるが、この学以上に優れて尊い学はこれ以外には一つもない:第1巻(アルファ巻)2章」と明記されている。

さて、王者的な学問があるらしいことは判ったが、そのような学の考えるべき「あたりまえ」な「公理」とは何だろうか? 「あたりまえ」な事の代表は「矛盾律」と言われるものである。律、などと言う漢字がつくとイカメシイけれども、要するに、矛盾する事柄は認めない、という原則である。「これはAである、かつ、これはAではない」と言われたら誰もそんなバカな事は無い、と断言するだろう。そのとき人は「矛盾律」を受け入れているのである。だから、矛盾律は「公理」としてすべての学問の基礎となっている。つまり矛盾を認める学問など無いわけである。しかし、第一哲学をする者だけは「それホント?」と考えるのであり、そこが「他の学問」と大いに違うところなのである。

以上に述べた中で、他の学問、というのを一応「科学」と言い換えると、「哲学」と「科学」の関係というか、両者の歴然たる相違が明解になったと思う。「科学」はアリストテレスがいみじくも指摘した通リ、生活の役には立つ。しかし、それはあくまでも、無条件に受け入れた「公理」に寄りかかっている便宜的な(奴隷的)方便にしか過ぎない。しかし、ふわふわと人生を面白おかしく過ごすならよいが、少しでも「はてな」と思う人は、面白おかしいことがちっとも面白おかしくなくなって、悩むことになる。

「哲学」は王者的に考える事が仕事で「矛盾律」といえども「あたりまえ」と思わない。つまり解決の無い問題について考えるのものなのである。悩みを楽しむ学、とでも言えるのだろうか?

ちなみに、日本国は「科学技術創造立国」を国是(こくぜ、国がよって立つ基本方針)と宣言している(科学技術基本計画、閣議決定1996年)。優れて尊い学問ではなく、奴隷的学問に全力を挙げる、という宣言ですな、とアリストテレスなら言うかもしれない。

5.青砥藤綱とイェ―リング

十文の銭を誤って川に落とした青砥藤綱は、五十文の銭を使ってそれを拾わせた。人がそれは「小利大損である」と笑ったが、藤綱は「使った五十文は、人の利益となった。十文は自分に戻った、合計六十文が天下の利となったのだ」と答えたので、笑った人は「舌を振って感心した」。

これは太平記(鎌倉時代から室町時代へと世の中が変化する激動の時代をドラマチックに描写した歴史書的、古典の大傑作。後醍醐天皇が政権を鎌倉幕府から取り返すあたりがクライマックス、楠正成の活躍などが記されてる。戦争のことが満載されてるのに、なんで太平記なんや?)に書かれた有名な逸話の要約である。

有名な、というのは「有名だった」と書くべきかもしれない。青砥藤綱(あおとふじつな)は前記の良寛よりまだ若者の間での知名度は低い。前述のクラス90名の中でたった一人「何となく聞いたような気がします」という者がいたくらいである。歌舞伎「白波五人男」の最後に裁きの決着をつけるのが青砥藤綱ということだから、江戸時代には知らない人はいなかったのだろう。

さて、藤綱の説明を聞いた人は、舌を振って感心した、らしいが確かに感心はしなくても何か意味ありそうな逸話だなとは思える。小生は子供の時にこの話を聞いたが60年経っても聞いた時のことを覚えている。行動の意外性がポイントのようであるが、学生にアンケートを求めたら、偉い人だ、意味ない、金持ちにだけ出来ることだ、自分ならしない、などの回答のなかに「自分もよくそんな事をしますよ」というのがあった。これには驚いたが、よく考えるとこの学生は鋭い点を衝いている。自分の持ち物が無くなった時にそれにこだわって家中探すことは誰にも経験がある。百円硬貨をあそこに置いたはずだが無い、となると一時間も探す。マクドナルドの時給でも850円なのだから、百円を一時間探したら、青砥藤綱以上の小利大損である。しかし、それは日常的に我々のしていることだった訳である。それをやることの意味を日本的と西洋的の対比で少し考えてみよう。

藤綱の行為の意味は太平記には「天下の利」としてあり、これは一応、納得出来そうだし、昨今の経済学で考えれば景気対策としてこんなことも大いに実行されているようである。ところが、最近知ったことだが、ドイツの法律学者イェーリングの「権利のための闘争」という本に藤綱の事例と全く同じシチュエーションが論じられている。

この本は知る人ぞ知る有名なものらしいが、要するに、権利を守るのは自分であり、待ってても誰もあなたの気持ちを察してあなたの利益を守ってくれはしないと説教している。そして、少し気を許したら、何時の間にかあなたの権利は根こそぎ人に奪われてしまいます。些細な権利の侵害を見過ごすことは、あなた自身の、引いてはあなたの国家の将来を危険にさらすものですと主張している。つまりどんな小さな権利も身を挺して守るべく闘うのがあなたの「義務」なのです。と、誠に簡明直截、単純明快、単細胞これにすぐる者なし、大うけ間違いなし、の発想がピシャリと書いてある。

例として、藤綱の逸話と同じく「水中に1ターレル落とした人が、2ターレル使ってそれを拾うか?」という話を出して説明されている。イェ―リングは、この話を聞いて「拾います、という人はいないと思うが、それがイケナイのだ」と述べている。つまり、自国の1マイルを他国に侵された時に、何万人の犠牲者がでても戦争して奪い返さないと、結局どんどん侵略されて国が滅びる、1ターレルを見逃すのは1マイルの侵略を許す気持ちに通ずるのだと主張するのである。だから、水に落とした1ターレルはあなたのお金の所有権を守ると言う意味で、2ターレル使って回収するのは「義務」ですよ、立派な国家はそのような国民によって支えられるのです、と書いている。

藤綱派は「天下の利」を思って銭を拾う、イェ―リング派は「自分と自国の権利」を守るために銭を拾う、となるようである。そうなると、前述の良寛ならどうするか?と考えるのも面白いかもしれない。「誰かが拾うかもしれないから、ほっときましょ」と言うのが良寛派である、と仮にしよう。するとやはり、良寛派は平和的である。

藤綱は五十文で先ず松明を買って照明したらしいから、天下の利の為に無駄なエネルギーを浪費したことにはなる、景気のためにエネルギーを大量使用する社会の先例かもしれない。イェ―リングの著書「権利のための闘争」には、その「答え」のような本としてヒトラーの「我が闘争」がある。権利に敏感すぎると何でも自分の権利に見えて来る危険性の例かも知れない。良寛流は出来事をなんでも「受け入れ」てジタバタしない、という哲学なのだろうか?昨今の世界の動きを見ると良寛流を広めるのは至難のようである。しかし、本気で考えれば「受け入れる」発想でないと、地球環境保全に必要なエネルギー節約のための抜本的な行動は不可能であろう。

6.「もがな」:願望をあらわす助詞

最近、環境汚染のデータを「科学的」によく調べると、環境問題は、温暖化を含めて、世間が騒ぐほど深刻な事態ではない、と主張する本が出版され、アメリカでベストセラーになり、日本語にも訳した者が出て、これも売れている。「科学的」というと皆がなるほどと思う点を衝いているのだが、調べてみると一番の主張は「多少環境が汚れても先ず今のままの産業活動を続けて金をかせいで、そのあとで、儲かった一部で手直しをすれば良い」というのである。手直しできる程度の地球環境変化しか起きない、と平気で断言する者は本人がなんと言おうと「科学者」ではあり得ない。

気象や生物活動が如何に複雑なものであり予測が困難かは、数十億羽(今の世界人口くらい)もいたアメリカの旅行バトが、科学者の予想を裏切って、乱獲と森林破壊のため数十年で20世紀始めに絶滅した例をあげるだけで良いだろう。こんな本が売れるのは、環境変化が深刻でない事を願望する気持ちを持つ、人間の弱さの現われである。願望は人間の判断を曇らせる最大の原因となることはGMFの所にもすでに触れた。

あまりバカバカしくてうんざりしたので、願望を優雅に楽しんだ我々のご先祖さまの文化遺産をしのんで終わりにしよう。

小倉百人一首のなかで、願望を表わす助詞「もがな」の使われている歌が6首ある。

年代順に挙げる。

三条右大臣

なにしおば あふさかやまの さねかづら ひとにしられで くるよしもがな

藤原義孝

きみがため おしからざりし いのちさへ ながくもがなと おもひけるかな 

儀同三司母

わすれじの ゆくすえまでは かたければ けふをかぎりの いのちともがな 

和泉式部

あらざらむ このよのほかの おもひでに いまひとたびの あふこともがな 

右京大夫道雅

いまはただ おもひたえなむ とばかりを ひとづてならで いふよしもがな 

鎌倉右大臣(源実朝)

よのなかは つねにもがもな なぎさこぐ あまのおぶねの つなでかなしも 

謝辞

「役に立たない」NPO活動をご支援頂いている多数の方々に感謝いたします。知人、友人が多いのは勿論ですが、ホームページを見て参加して来る方もいます。多様性の世の中を感じずにはいられません。こんなオモロイことがあるよ、なんて情報をお寄せ頂ければ幸いです。連絡先、NPOの紹介は下記アドレスに載せてあります。

蛇足(Snake Legs)

1.Tempus Destruendi Tempus Aedificandi「破壊するに時があり 建てるに時がある」は旧約聖書から、Liber Ecclesiastes, コヘレトの言葉3、(聖書、日本聖書協会)。

「災難に逢時には・・・」は良寛書簡から、良寛全集下巻366頁、東郷豊治編著、東京創元社(1959年初版)。良寛は曹洞宗の禅僧だったが、寺も持たず和尚の称号さえもなかった。歌や漢詩を作り、独特の書を描き、好んで子供と手毬で遊んだ。多くの人に慕われ、晩年になって、貞心尼という若い尼さんと親しくなり、歌のやり取りをして優雅に暮らしたようである。親しい人達に看取られて死んだあと、近隣のあらゆる宗派の坊さんや、神主も葬式に加わり、雪の中、千人もの参列者があったそうである。貞心尼の書いた良寛との歌のやり取り集「はちすの露」の最後に「貞、くるに似て かへるに似たり おきつなみ、師、あきらかりけり きみがことのは」とある。

地すべり地帯に人が住む話は、「公共哲学9巻」地球環境と公共性、東京大学出版(2002年)原田憲一:将来世代から見た資源・公共性、より引用。そこに、江戸時代に起きた安政大地震の後、鯰を題材にした「鯰絵」が大流行し,始めは鯰を封じ込めるような絵だったが、やがて景気が返って良くなったので「鯰宝舟」が描かれた事が紹介されてる。国家予算の10倍以上の大借金をチャラにするために、大震災をひたすら待っている国がどこかにあるかも知れない。

2.Newsweek September 12, 2003, What Green Revolution?

「戦戦兢兢 深淵に臨む如く 薄氷を履む如し」は「詩経、小雅:小旻(しょうびん)」にある文句、新釈漢文大系111、詩経(中)334頁、明治書院。。

3. Joseph Conrad : Heart of Darkness(1902年初版)。「闇の奥」中野好夫訳、岩波文庫(1958年初版)。コンラッドは他に「青春」という短編が有名。石炭を積んでイギリスからインドに向かう船に若者(コンラッド?)が乗って初めての航海を経験する話。出航の直前に船からネズミが逃げ出すのを見て、おかしい、と思ってたら果たして航海途中で石炭が発火、救援の船に引っ張ってもらったら船倉に風が入って燃え出して沈没、想像では書けないリアルな緊張と感動、「青春」という題もピッタシ。

4.アリストテレス:「形而上学(上、下)」出隆訳、岩波文庫。Aristotle:「Metaphysics, books I-IX」Translated by Hugh Tredennick,Loeb Classical Library,Harvard Univ.Press.(ギリシャ語、英語、対訳)。引用は主に出隆訳によった。

「王者的学」は英訳では「supreme science」、「奴隷的学」は「subsidiary science」とされている。ギリシャ語では、「アルキコタテー」、「フペレトウセス」という語がつかわれ、それぞれ、「支配者の」、「隷属的の」というような意味らしい、別の文章に「ドウロス、奴隷」という言葉もこれに関連して使われている。

「矛盾」を悩まずに認めるのは宗教である。般若心経の「色即是空、空即是色」は論理的には矛盾である。キリスト教でも、神の子であるイエスが死んで蘇った事は「不可能だから確かなのだ(certain because it is impossible、テルトリアヌス:キリストの肉) 」と説教されている。結局「哲学」と「宗教」と「科学」とは森羅万象に対する、全く異なったアプローチすなわち「住み分け」であると理解出来る。

5.太平記巻第35「北野通夜物語事付青砥左衛門事」に滑川に十文落とした話が載ってる。:太平記(三)、日本古典文学大系36、岩波書店。

藤綱は「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ、通称、白波五人男)、河竹黙阿弥作」などの歌舞伎に判官として登場する。

Rudolf von Jhering : Der Kampf ums Recht(1872年発表): イェ―リング「権利のための闘争」小林孝輔、広沢民生訳、日本評論社(1978)34頁に1ターレル落として2ターレル使って拾う話が出てる。同書表紙に、モットーとして、「闘争のなかに汝は汝の権利を見出すべし」と書かれている。

6.「環境問題に手直しなし」は前掲「公共哲学9巻」”はじめに”参照。

百人一首の解説書としては、江戸時代のベストセラー「百人一首一夕話」尾崎雅嘉著、大石真虎挿絵、が抜群に面白い。一首ごとに詠み人の経歴やエピソードが面白く紹介されてる。岩波文庫上下二冊になって出ている。

Tempus Destruendi Tempus Aedificandi

SHINGU, Hideo Paul

Professor Emeritus Kyoto University

Representative: Kyoto Energy-Environmental Research Association,

54 Sakakida-cho,Kamigamo, Kitaku-ku, Kyoto-shi, 603-8145, Japan

TEL&FAX 075-722-1223

Abstract

How useful, is the key word for the assessment of everything in present world. Even in academic society, some people say patent is preferred to the paper publication. Aristotle wrote in "Metaphysics" that philosophy, which investigates the very beginning of everything,

is the most divine science, and, although the least necessary, the most excellent. Following are six essays, which are written rethinking the usefulness as the measure of judging our conduct.

1. Ryokan, a Zen Buddhist (1758-1831), wrote a famous letter to his friend after the big earthquake in Sanjo (1828): "When hardship comes, there is no better way to evade it than accepting it".

2. In reference to the use of the genetically modified foods (GMF), one should aware, while one example is enough to disprove the safety of any technology, it is impossible to prove it safe unless you have infinite time of observation. One should behave, as if walking on thin ice, as it is written in old Chinese poem (Shi Jing).

3. Difficulty of translation of foreign language is discussed referring to the last word by Mr. Kurtz "The horror! The horror!" in Heart of Darkness by Joseph Conrad. It is nonsensical to start teaching English to primary school pupil as the government is trying to do. The most important matter for children is to master Japanese language well. Only after mastering their own language and their own tradition and culture, they may understand subtle expression in foreign languages.

4.Aristotle says philosophy is the only supreme science and other sciences are subsidiary. It seems that present society is all out to go along with the subsidiary learning because these are useful.

5. What would you do if you drop 100yen into a river at night? Aoto Fujitsuna, a noble samurai in Kamakura era, purchased lanterns for 50mon and recovered 10mon he dropped in a river. He rationalized his conduct saying that total of 60mon was reserved benefiting the whole economy of the society. Rudolf Jhering claimed, in his book "Der Kampf ums Recht (1902)", that it is your duty to recover 1 thaler dropped in a well by using 2 thalers. Only by doing so you can protect your own right. Negligence of minor rights eventually destroy your crucial rights thus leads to the defeat of your country. Monk Ryokan would have just walked away saying "Somebody will pick it up tomorrow, I gave her a luck! ".

6. Being desirous always misleads the judgment of one's decision. "First we earn money, we can take care of the environment later using only a small part of those money". Such is a basic idea of a recently published good selling book by a "scientist". Only by the wishful prospect such book can be written. No environmental degradation can be recoverable. Irreversibility is a rule of universe every scientist knows.

"mogana" is an old Japanese word meaning to be desirous. Our ancestors enjoyed being desirous in very elegant way. There are six poems, each uses "mogana" in Teika Fujiwara's

Hyakunin Isshu, one poem by one hundred people. These are splendid indeed but the translation is too difficult for me since I started learning English only in my secondary school!

Written by Shingu : 2004年02月14日 11:41

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