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安全と安心:論理(りくつ)と心理(きもち)

2004年度粉体工学イブニングセミナー : 電気評論 2005年 3月号 pp7-13 掲載

 
世の中には新技術があふれている。列車、自動車、飛行機など乗り物、コンピューターなど情報通信、火力や原子力などのエネルギー利用、医薬や食物などの遺伝子改変技術、・・・。どれをとっても、安全なのかどうか、気にし始めたら心配になる。事故が起こると必ず「あってはならないミスでした」などと責任者がテレビで頭を下げるが、時には知己の顔がそこにあったりして他人事でないのだと実感する。100%安全でいようとすれば何もしないでいるより他にない事は自明なのだが、人は何もしないでは安心していられない。安全でなくても安心して利用している技術も実は多いのだと人は判っていない。だからと言って便利なら何を利用してもいいわけでもない。安全とは何か、安心はどうして得られるのかについて、我々がどんな社会を目指して暮らしているのかを振り返って考えて見たい。

緒言

人は何を安全と思い、どんな時に安心でいられるのだろう。これは工学的に扱える事柄だろうか?心理学や社会学的にこんな事を考えている人もいるだろうが、その方面の知識を全く持たない事を良いことにしてバイアスの無い解析をしてみよう。

先ず論理学的に安全の証明が不可能な事を考察し、次に工学的な視点での安全を検討する。そして、心理的な感情である安心をどう扱えるかを考えて、今安心して暮らせる社会が、人類の未来社会の安心とも合致するものである為にはどのような行動を我々は取るべきかを考察したい。

1. オレ、オレ(I am that I am)

自己言及と身分証明

詐欺にやられる時とはどんな時かを考えるとそれは、後で反省すればどうみてもおかしいことが、その時にはおかしくない、当然だと思えるためであろう。

本題に関連していうならば、一時、安全、安心、であると考えられた事が実はそうでなかったわけである。しかし、一時であれ、詐欺師の言うことが、本当に思えたのだから、彼にもウソを本当と思わせるだけの根拠があるはずである。

最近メデイアを賑わせている、オレ、オレ詐欺に関連して、オレ、オレ、という表現の元祖をたずねてみると、それが旧約聖書(Exodus 3-14)にあることがわかった。

イスラエルの民をエジプトから脱出させなさいと神はモーゼに告げる。モーゼは、そのような使命を申し付けたあなたの名前をイスラエルの人々は問うに違いありません、私は何と答えたら良いのですかと、当然の質問をする。その時の神の答えが「I am that I am」、ラテン語では「Ego sum qui sum」(もとはヘブライ語)である。これは直訳すれば正に「私は、私である」つまり、オレ、オレ、と言っていることになる。

つまり神は人と違い、何の何べい、という身元が無い。人間や他の生物即ち英語で言うcreature は創造された物だから、お前はその穴に住む蛇のカーである、なんて名前が付いている。けれども創造した方Creator である神様には当然そんな名前は無い。身分証明は不要、というより元来不可能であり、この身分証明不可能性こそ神の神たる定義とも言える。

さて、オレ、オレ、詐欺が結構成功しているらしい理由は、元来神の持つべき証明不可能性を騙っていることにその理由があると見ることが出来る。証明不可能な物事は信ずるしかない。だから「オレだ、オレだ、金を振り込め・・・口座番号はコレコレ…ガシャン」と電話を切られたら、だまされる人が出るのは当然かも知れない。

元来この世にある物はすべて身分証明即ちアイデンティティ(ID)があるはずなのに、ID が無い者は信ずるより仕方ない、と思わせる事、即ち神を騙るのが、詐欺の原理とわかる。

別のよく知られる詐欺に、ねずみ講がある。親分が次ぎ次ぎ子分からお金を吸い上げるシステムは子分をどんどん増やせる間は成立するが、一度に増える子分の数を2人としても、十代目で約千人、二十代目で百万人、三十代目で十億人となってすぐに破綻する。

けれども、人口が無限に多ければ、このシステムは詐欺ではない。神様がどれだけの数おられるのか誰も知らないけれども、それはギリシャ哲学のパルメニデス風にいえば、一人であり、無限であるはずである。つまり神の国でのみ成り立つシステムをこの世に持ち込むという、オレ、オレ、と同じ理屈がねずみ講の原理だと解る。

2. 安全は証明できない(I)

いきなり詐欺の話になって、何が安全と関係あるかと不審に思われるかもしれないが、それが大いに関係あるのである。

一つの技術が安全だと証明出来るかどうかを論理学でいう背理法(reductio ad absurdum)によって考えてみよう。論理学的な記号を使って、ある技術は安全である、をAと書き、安全でない、を¬Aと書く事にしよう。

安全でないことを証明する時には、安全である、即ちAを仮定して、経過をみて事故が起これば仮定と矛盾する(absurdum にreductioされた)から、¬Aである、と証明されたことになる。

一方、安全であることを証明するためには、¬Aを仮定して経過を見なければならない。十年経過を見たとしてその間事故がない時には、人は通常「安全でない、とは言えない」などと言うだろう。これは記号で書けば、¬¬A、である。つまり、¬¬は二重否定を表すから、常識では肯定すなわちこの場合は、その技術は安全であることが証明された、と受け取られるであろう。

しかし「安全でない、とは言えない、だから安全である」という主張はゴリ押しの意見であると誰もが直感するはずである。

直感の根拠は事故が今日まで起こらなかったからと言って今起こるかも知れないことを否定できない所にある。つまり、無限の時間そのシステムを観察しないと安全宣言は出せないと論理的には言わざるを得ないことになる。

ところが人の世でなく神の国に事故は無いのだから、神の国では安全宣言は勿論有効なのである。端的に言えば、形式的にはどんな技術も「安全でない」という証明はできても「安全である」という証明は不可能なのである。そこを敢えて安全宣言が出される現在の社会は、オレ、オレ、詐欺と同じく神の国の原理を人の世に持ち込んでいることになる。人々は論理学などを勉強しなくても、感でこのことを察知するから、世に行われる安全宣言などは大体において少なくとも心の中では信用されていないようである。

3. 無限は人の世に存在する

技術の安全を確かめるために、十年経過を見る、と前述したが、何故十年なのかという問題が直ぐに頭に浮かぶ。十年でだめなら百年か、ということになるが大抵の技術システムはそんなに長く使われることは無い。

つまり無限の時間観察しないと安全宣言は出せない、とすると神の国でなければそれが出来ないことになるが、人の世では百年とか時には一ヶ月でも、事故が無ければ安全と言えるのが現実である。この事を工学的に見る概念に、物質の流動を扱うレオロジーという分野で使われる「緩和時間」とか、それを示すパラメーターとして「デボラ数, Deborah Number」がある。

緩和時間などというと難しそうであるが、あるシステムが有効に稼動する時間と見ればよい。品質保証期間と見てもよい。デボラ数とは、

DN = 緩和時間 / 観察時間

として定義された数値である(M.Reiner : Physics Today,1964)。

DNが1より大きい時はまだ観察時間が十分でなく、その期間事故が無いからといって安全宣言は出せない。しかしDNが1よりずっと小さくなる程観察時間を稼いでその間無事故であれば安全宣言を出してもよろしい、という目安としてDNを使える訳である。問題は安全宣言を出すためのDNの値をどれ位に置くかである。その値をどう決めるかは難しかろうが、少なくともこのように数値化して議論をすれば、ただ感情でその場限りの話しをして、神の国と人の世とをミックスして不毛のケンカをする無駄は省けるかもしれない。

DNを考えることは、工学的には人の世に無限が存在することを知ること、といえよう。

4. 安全は証明できない(II)

無限の話が先になったが、今度はオレ、オレと主張する事、即ち身分証明の面から、安全宣言の不可能性について考えて見よう。

論理学を勉強しようと入門書をめくると、どの本にも必ずパラドックスの事が例を挙げて書いてある。パラドックスとは、ある主張(論理学では、命題、という解り難い言葉が使われる、英語はproposition)がされた時に、それが正しいとすると正しくないことが証明され、正しくないとすると正しいことが証明されてしまう、というような矛盾を避けられない事態を指す。

パラドックスは、事の理由を考え、その理由の理由を考え・・・と原因と結果の無限遡上(infinite regress)を通じて、先述の無限の話しと関連するのだが、その点はさておくとして、表面的には、いわゆる「自己言及(self-reference)」をするときに生ずるとされている。自己言及というのも難しい言葉だが、要するに自分の事を自分で言い張る事で「私はウソを申しません」とよく政治家が述べるのが典型的自己言及である。論理学の本には「私はウソを言っている」という例が必ず載せられている。後者のほうが理屈上はその主張が正しければウソ、ウソであれば正しい、という事態をはっきり説明しやすいが、前者もウソを言わない事がウソならどうしようも無いのだから、自己矛盾すなわちパラドックスの一種とみなせるだろう。

所で本題の技術の安全性の証明だが、技術を利用して、技術の安全性を確保しようとするのが現在の工学的処置であり、我々はその面でかなりの成果を挙げて来たと考えている。しかし、すでに読者は気づかれたと思うが、この事態は正に自己言及そのものである。技術によって技術の安全性が高まることは勿論可能であるが、だからと言って安全宣言をすることは、自己言及となり、オレ、オレ、と自分で自分の証明を試みるのと同じく、神様以外には許されない事をしようとするに等しいのである。

自分で作った身分証明書、ID、を使う、というのが自己言及であり、それは無効である。その点で論理学は破綻するのだが、どの論理学の本を読んでもこの点の明快な解決策は書いてない。となると、結局論理的には、技術の安全性を技術の立場からは宣言出来ない事になる。

5. 場の理論

神にしか許されない無限が、実はデボラ数が小さい時という極めて現実的な条件で人の世に持ち込める事を先述したが、今度は神様にしか許されない自己言及のワナも何とかならないかを考えて見よう。

世界(宇宙)に例えばリンゴだけしか存在しないと仮定すると、それがリンゴだ、とか赤い、とか主張できるだろうか?ミカンやバナナや私やあいつがあるからリンゴはリンゴと認めてもらえるのではないか? つまりリンゴが自分でオレはリンゴであるぞ、と主張は元来していないのだ、と考えられないだろうか?

論理学の本に必ず出ているラッセルのパラドックスと言われるものがある。すべての集合の集合を作ったらその出来た集合はそれ自身を含むか?という難問である。これは自分自身を含むすべての集合が、又自分自身となるので自己言及の集合論版で、論理学はこのパラドックスを超えられていない。

未解決のパラドックスを論理学は含んでいるのだから、すべての論議を最終的に論理的に明確に結末をつける事は今の論理学では出来ないことになる。安全宣言を何とか人の世に持ち込むためには、しかし、自己言及にまつわる論理学の限界を超えなければならない。

そこで、参考になりそうなのが、ここに触れたリンゴの話であるが、これは実は素粒子論におけるゲージ(尺度)場の理論の概念を借りたものである。

H.Weyl(ワイル)によってその基礎が立てられたとされる場の理論では、素粒子はそれ自身が存在して、他の素粒子と直接作用を及ぼし合うと考えずに、とりあえず場がすべてであり、粒子の存在は場に対する作用として理解しようとされている。粒子間の相互作用も直接作用をすると見ずに、それぞれが場に対して作用を持ち、場との作用が他の粒子にそれぞれの作用を伝えると見る。即ち、すべての相互作用は場を通じた間接的なものと考える(1,2)。

安全とか、自己言及とかは、素粒子のような物理的な現象ではなく、考えの中にだけある事柄、すなわち形而上の事柄である。しかしここにも、いかなる概念も場なしには存在出来ない、というアナロジーは上手く当てはまる。

その見方によると、自己だけでの存在を初めから認めないのだから、自己言及という事態は発生しない。「私はウソをついています」という発言が出来るのは、私という存在が、他の何物の存在がなくても存在し得ることを前提としている。他方、自分の存在はそれ自体存在ではなく、人の世、社会、などの場の属性として有るだけである。と見れば「私はウソをついています」との発言は場に対する関係に変わり、その発言は他の人に直接にでなく場を通して伝わるので、ウソか否かの客観性を持つことになる。従ってここでは自己言及が成り立たない。つまり場を唯一の存在と考え、すべては場の属性と考える立場を取れば、自己が初めから無いのだから、自己言及もあり得ない事になる。

ラッセルのパラドックスにしても、空集合を始め集合はすべて「集合の場」の属性として認められるだけで、それ自体が独立にあるわけでは無いと見なければならない。そうなると、「すべての集合の集合」という自己も無いのだから、場の属性である集合という性質を持つ領域のすべてを場の一つの属性として考える事には何の問題もなくなる。

こうなると人の作る技術の安全宣言も出来そうに思えてくる。つまり、技術が技術の安全を保障するというような、独立した技術の身分証明、ID、を初めから認めないで、社会という場の属性として技術を見れば良いことが判る。

よく世間で言われるような「専門の技術者が保障しているのだから安全です」などという発想は、このような場の理論の逆で、安全宣言の決して出来ない、技術のIDを前提とした自己言及の方向を向いているのである。

6. 安全イコール安心ではない

6.1 人はする事が無いと不安になる

以上において、安全とは何かについて、それは事故が無い状態であると明確に定義できると考えた。しかし人間の求めるのは安全そのものよりは、安心である。安心の定義は安全のそれよりはるかに難しい。

冒頭に書いたように多数の人が毎年事故で死亡する原因の自動車に人は安心して日常的に乗っている。新幹線は千人もの人を乗せて細いレールの上を300Km/時もの速さで突っ走っている。今まで約40年間大きな事故が無かったが、そろそろデボラ数は1くらいかな、などと不安に思う人は少ない。神戸の震災が列車の止まっている時間帯でなかったら、とゾッとするような感慨が当時は新聞にも書かれたがそれも忘れられている。

このように、ある意味では大変な危険を冒して人々は活動を続けている。本当に安全が第一であれば、誰もディズニーランドを見るなどという、生活上の必然性も緊急性も無い事業のために“危険を冒して”新幹線に家族で乗って出かけたりしないであろう。

「小人閑居して不善をなす」という言葉があるが、なぜ人は時間があるとじっとしていられないのだろうか?

閑居していられない理由はそうしていることが不安なのではないだろうか?つまり人間は生き物の特性として行為するときに肉体的、精神的に安定、安心でいられるのである。行為することは必ず多かれ少なかれ危険を伴う。しかし、人間は実は安穏な生活に浸っても安心出来ず、かなりの危険を敢えて覚悟の上で何らかの行為に走ろうとする。アラビアンナイトのシンドバットは飛んでも無いヒドイ目に遭ってバグダッドに戻って来ても「我々の不幸の原因は、常に野心なのです」と分かりながら直ぐにまた旅に出かけたのである。

6.2 安全と安心の相反性

安全であるために何もしないでいると不安になる。人間の本性はこのように微妙に出来ているようである。人が生きているという事は、何か行為をしていることである、という見方は仏教で言われる「業(ごう、カルマ、行為)」の思想に繋がるとみることが出来よう。業が深い、などという表現を我々はするが、それはなるべく業が深くなく生きることを願う感情を表していると取れる。つまり何かの行為に執着し過ぎて安全を損なう(危険が増す)事を避けたい気持ちがそこにある。しかし業が全く無くなる時即ち完全な安全とは死ぬ時である。死んだら元も子もない、それは困る、となると結局人間は安全に近づき過ぎても、離れ過ぎても、安心感から遠ざかる事になる。

このように考察してくると、安全と安心との間に、ある種の相反性の存在が見て取れる。人の求めるものは安全そのものよりは、安心であると前述したが、全き安心、という事は文学的表現としては分かるが定義は難しい。安心の反対の不安について考えると、底知れぬ不安、とか限度の無い大きい不安を感ずるという気持は理解できる。端的に言えば安心とは不安の少ない事をいうと定義した方が良いのかも知れない。

本題の技術と安全、安心、に以上の考察を当てはめて見ると、安全を強調するだけでは如何なる技術についても安心感を人々に与えることが無理なことが分かる。

次に、人間の心理に基づいて、どのように上述の安全と安心の相反性の兼ね合いに立った、最も安心感の大きい(不安感の小さい)技術を考えることが出来るのかを考察して見よう。

7. 安心の心理、安心点を探す

人がどの様な「安全」の状態において「安心」を得るのかについて、安心感を本能的に感じるのはどのような時かを先ず考えて見よう。つまり、安全度は低くても行動(行為、カルマ)に重きを置くケースと、安全度を重視して行動を控えようとするケースを考えて、どのような事態において、それが前者に属すか後者に属す傾向が強いかを考えようとするわけである。

まず安全度と安心感、の概念をパラメーターで表す事を試みよう。

ある技術の危険度をDとして、必ず事故が起こる場合を1、絶対に事故が起こらない場合を0とする。

その技術の使用頻度をfとして、常時使用を1、全く使用しない場合を0とする。

安全度をSとして、全き安全を1、全き不安全を0、とすると、

S = 1 - f・D

と定義することが出来る。

さて、不安感をUとして、上述の安全と安心との相反性を考えると、Sが1あるいは0の時には大きな不安が人の心に生じ、Uは限り無く大きい値をとるであろう。

Uの最低値を与えるSの値を、安心点、と定義しSeで表すと、Seは0と1の間の適当な位置に現れることになる。安心点Seの位置は、危険の種別、技術の種別により異なる。 

人が被る可能性のある危害、災害、には色々な種別がある。例えば、被害が眼前に起こるか、将来的なことか、害が時間的に一過性か、持続的か、などが問題である。ここでは、それらを総括して、ミクロな危険とマクロな危険という分類で考えて見る。

ミクロとは眼前に危害が見える、どちらかというと一過性の事柄とし、マクロとは将来的に予測される危害で、どちらかと言えば持続的な危害を指すことにしよう。前者は己自身に直接及ぶもの、後者は将来世代に関する事柄、と見ることも出来る。そこで、これらの考察をもとに具体的に安心点の位置とミクロ、マクロな危険性との関係を考えて見よう。

ミクロな危険性の例としては、地震、雷、火事、オヤジ、や交通事故などがあり、マクロな危険性としては、遺伝子操作、地球温暖化、核施設の事故や廃棄物処理、などが挙げられよう。

古来、人は勇気をもって行動することが賞賛されて来た。虎穴に入らずんば虎児を得ず、という言葉に端的に示されるように、危険を冒しても利得を得ようとするわけである。しかし、行動した結果生ずるリスクの種類によって、行動の大胆さに差が生ずるのである。受容可能なリスクと受容可能でないリスク(acceptable risk, unacceptable risk)という区別がされるのも、安心点の位置に関連する事である。

さてそこでミクロな危険性とマクロな危険性とでは、どちらの安心点がより行動の大胆な側にあるかを次に考えて見なければならない。すなわち、どちらのSeが安全度の1から離れた(0に近い)側に位置するかである。

この点に関しては経済学のミクロとマクロの区別が参考になる。個人の行動は身の回りの利得すなわちミクロな経済観念がすべてである。ミクロな経済面では個人は自分のリスクの上でかなりの大胆な行動をとる。けれども、責任は自分で取らねばならないので極端な行動には走らない。すなわちアダム・スミスの提唱した自由放任の方法が機能する。

しかし、そのようなミクロな経済に基づく行動がマクロな経済、すなわち国全体や社会全体、あるいは将来の社会すなわち未来世代の経済にも寄与するとは限らない。その上、個人はマクロな経済に無関心な者がほとんどである。したがって、マクロ経済については、自由放任、成り行き任せは機能せず、国や社会が何らかの規制を強制しなければならない。

安全についても同じく、ミクロな安全については、安心点は安全度1からある程度離れても自律的に妥当な位置に決まるものである。

それに対してマクロな安全については、それが個人の利得に関係が生じない場合には、漠然とした不安感から極端に安全度1に近い所に安心点が置かれる傾向が出る。逆に、少しでも利得に関連が出ると、マクロな危険性は直ぐには害が個人に及ばないため、安心点が極端に安全度0に近い側に置かれ勝ちになる。

マクロな安全性に関しては、マクロ経済と同様、個人あるいは特定グループの利得に根ざす願望によらず、冷静で客観的な判断による適切な安心点を決めて、場合によっては政策的な強制も、人類の将来を考慮して、なされなければならない。

SとUとの関係およびSeの位置の概念はおよそ図1のようになるであろう。
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図1 安全度と安心感の概念図

8. 本能と教育

ミクロな安全性とマクロな安全性の論議は前者が人間の本能、本性に従う事柄であり、後者はどちらかと言えば将来を考えるというような、思考の上に立つ知恵に基づくものである。 C.S.ルイスは知恵に基づく倫理的な行動は教育によると「The Abolition of Man(3)」に書いている。しかし実効をあげるためには教育も大切であるが、教育の及ばない多数の人々も倫理的に行動するように仕向けることが必要である。そのためには要点を押さえた規制、規則の整備が大切になる。

そのようなマクロな安全性のための施策は、個人の利得に関連させて自然に望ましい方向に向くように工夫がなされないと実効が挙がらない。それは経済の場合と同様である。現実に照らして考えるならば、温暖化ガスの排出にしろ、放射性廃棄物の処理にしろ、細々と法的な規制をして、その排出量を減ずることを強制するよりは、先ずエネルギーの浪費をなくす社会を作る方向と個人の行動の向く方向とが一致するようにしなければならない。

端的に言えばそれは、節約が儲かるようにする事である。節約が儲かる為には、エネルギーの価格が高くなければならない。経済学に、セー(Say)の法則と呼ばれる「供給が需要を創る」という見方がある。安く供給されるエネルギーはそれを浪費し勝ちになるのは人間の本性である。安価なエネルギーの供給に実は、大きな、人類の未来世代に対する危険負担が予想されるというマクロな安全問題がある事を人は判っていても直視したがらない。その結果、今の社会の利得、利便性、にかまけて、安心点を都合よいようにずらせて見ようとし勝ちになるのである。「まだ大丈夫」という主張をする本などが出ると、粗末な内容でもベストセラーになったりするのがこの例である。

自由競争、市場原理によるエネルギー価格の低下を目論むことは、ミクロな安全性の原理でマクロな安全性も期待できると根拠無く願望する事である。安心点の決め方に関して、筋の異なる話を、同一に論じようとする誤りを犯しているのである。

9.今の安心、未来の安心

何が幸福か

安心とは何もしないで安全に暮らすことではなく、危険を承知でチャレンジしつつ、かつ可能な限り安全に生きる事らしい、と判ってきた。しかし将来世代のことまで配慮して、いま自発的に我慢の生活を始める人は少ないことも理解できる。教育による節度ある生活習慣の普及に限度があるとすると、政策的な強制に頼らねばならない。一般には問題点をここまで明確にすると、そのような節約の生活、端的に言えば我慢の生活は「出来ない、昔には戻れない」という人が多い。そう主張する人々は我慢すなわち不幸と考えているようである。

このように考察を進めてくると、結局、肝心カナメの最も根本的に考えるべきことは、人の幸福とはなにか、であることが明確になって来る。工学的にいうならば、社会の目的、すなわち解くべき方程式(数式で解けると言っているのではない)の境界条件として、人の幸福を十分に検討しなければならない。

ユートピアを目指すという時に人は、よく考えずに、それが物質的に豊かで、出来るだけ仕事が少なく(休みの日が多い!)憂いの無い平穏無事な生活の出来る社会を想像し勝ちである。それが実はとんでも無い間違いであることに気づいている人は案外少ない。仕事をするのは生活のため、収入のためという要素も無視は出来ないにしても、最大の意義は「小人閑居」の不幸を避けることである。

古来、人間の幸福について書かれた本は多い、よく考えると、すべての文学、すべての社会学、すべての宗教の経典は人間の幸福に関する本と見られよう。それらに書かれてきた幸福について要点を探ってみると、安易な、憂いの無い、物質的に豊かな生活に幸福があるなどと記されたものは無い。

ミクロな安心とマクロな安心、すなわち今の安心と未来の安心、の合致した社会に生きるために、節約、我慢の生活をすることは、取りも直さず人間の幸福にも合致することが、歴史上の多くの本に書かれて来ているのである(4,5)。

節約を守る社会を目指すことは社会を幸福に導く。これこそすべての基本、要点であると理解することが肝要である。

参考文献

1 Herman Weyl : Raum Zeit Materie(1923)、

ワイル、時間・空間・物質、内山達雄訳、岩浪書店(1973)。

2 リー・スモーリン:宇宙は自ら進歩した、野本陽代訳、日本放送協会(2000)、83、84頁。

3 C.S.Lewis: The Abolition of Man(1944),

HerperCollins Pub. (2000), Men without chest.

4 新宮秀夫:幸福ということ、NHKブックス(1998)

5 新宮秀夫:黄金律と技術の倫理:開発技術学会叢書 (2001)

Written by Shingu : 2004年05月18日 11:42

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