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日中・「協力か競争か」

1.「協力と競争」を超越するのが道

1.1 エネルギー利用の限界

我々人類が現在使用しているエネルギーの量は一年間を平均するとほぼ100億kWである。一方太陽が我々の住む大気圏に降り注ぐ光のエネルギーはほぼ100兆kWと概算される。億は兆の一万分の一であるから、人類はすでに全地球の気候を司る太陽のエネルギーにたいして0.01%に達する膨大なエネルギーを利用するまでにその社会活動の規模を増大させている事になる。0.01%が小さい数字だと思うのは大変な間違いで、地球上の大気の組成、気温、風向などの如何に微妙なバランスの上に我々生物の活動が成り立っているかを思うと、この数字はもはや今地球に住む生物の環境上無視できない大きさに達していると考えるべきである。
100億kWという抽象的な数字が意味するものを具体的に見ると、それは原子炉や、大型の火力発電所の数に置き換えて見て、ほぼ1万箇所が稼動している状態である。人類の存続を条件にした時、これ以上のエネルギー利用増大が可能であろうか。

1.2 エネルギー利用量の公平性

世界の人々が使用出来るエネルギー量が環境保存の条件から現在以上に増大不可能だとすると、誰がどれだけエネルギーを利用するのか、が問題となる。
現在の世界の状況は、先進国と呼ばれる国々が一人当たり年間に石油換算約4トンのエネルギーを利用(米国は8トン以上)しており、中国は約0.7トンである。その他の国々では先進国の十分の一以下しかエネルギーを使っていない。要するに一部の人々(全世界人口の約20%)がエネルギーの「つかみ取り」をしているのが現状である。
全世界の年間一次エネルギーの使用量(石油換算約90億トン)を全世界人口(約60億人)で割れば、公平な一人当たりの使用量は1.5トンとなる。
石油90億トン相当のエネルギー使用量をもっと減らすべきである事は勿論であるが、まず現状において公平性を考えるときに、果たして石油1.5トンのエネルギー使用量はどのような生活状態に当たるか日本を例に考えて見よう。それはおよそ1967年ころの社会状況に相当する。この頃すでに東海道新幹線、東名高速道路は出来ていたが、まだ美しい海岸は残っていたし、人の労働力が貴ばれていた時代である。自家用車は勿論まだ贅沢品であった。

1.3「協力か競争か」の問いを超越しなければならない

日本と中国とのエネルギー利用の戦略を考えるときに「協力か競争か」という問がこのシンポジウムの課題として話題に挙げられている。言葉の印象からいえば「協力」は良くて「競争」は困る、という結論が用意されているように取れるが、アダム・スミス流の自由競争の理論からは「競争」も推奨さるべきだとも解釈できる。結局「協力」と「競争」とは相反する意味の言葉であるが、相反しているからこそ「相反相成(漢書芸文誌にある班固の言葉)」出来るはずである。つまり、どちらの良い所も使っていけば良い、と解釈して行動に移せるのではないかと思える。
相反相成はよいが、最も大切なことは、「協力と競争」を合わせ行って、何をしようとするのか、目的を明確に理解することである。日本と中国が一致してエネルギーをもっと使おう、今以上のエネルギー供給をどんな手段で確保出来るか、などを工夫する事は果たして正しい目的であろうか?そのような「つかみ取り」に関する技術的な「戦術」を考える事はもっとも容易な事である。パイを増やしてその取り分を論議する会議は少なくとも「学術」の範疇には入らないし、それは「戦略」ではないだろう。

2.哲学と欲

2.1 哲学とは始まりと終わりを考えること

哲学についての上記の格言はエネルギーの利用について大変良く当てはまる。エネルギー利用の目的は歴史的に見て、社会生活の利便性を増す事であったし今もそうである。交通手段は歩くだけ、暖房は薪と炭、照明は蝋燭か蛍の光、の生活はあまりにも不自由なので、石炭、石油を使う利便性の増大に全力を挙げるのも無理ないかも知れない。そのような事情がエネルギー利用の始まりであろう。しかし、昨今のニュースを聞くと日本から海外に旅行する人は2005年に1700万人以上になる予想だそうである。旅行には主にジェット機が使われると考えると、燃料効率の悪いエンジンで大量のエネルギー消費がよくも奨励されているものだと呆れるより他ない。
海外旅行にどれだけの必然性があるのかよくは判らないにしても、少なくとも昔の暖房や照明の有り難さ、我慢しきれない要求とは全く質の異なる行動であることは確かである。自分の町の周りにも美しい場所、素晴らしい観光地はあるはずなのに、何故外国へいくのかエネルギー節約の観点からするとそれは「小人閑居して不善をなす、至らざる所なし」の感慨を否めない。一体何処まで贅沢にエネルギーを人は使いたがるのか?そこを考えるのはエネルギー利用の終わりを考えることになる。

2.2 欲の野放しが自由主義経済を支える

人の行動、その動機の大半は「欲」にあると見ることは先ず妥当であろう。荀子の言葉「人は生まれつき利を好むことあり之に従う」や、アダム・スミスの「自分の利益のために人は最大の努力をする」という言葉には誰も納得する。欲を野放しにしよう、それが人々の幸福である、という前提を立てて運営されているのが今の“自由主義経済”に基づく社会である。しかし、実は先述のような我慢しきれない欲求はそれほどのエネルギー大量消費をしなくても充足できるのだ。
自由主義経済が維持されるために最大の障害となる問題は「不足がなくなる」ということである。自由主義経済では物であれ、サービスであれ生産され続ける事が景気維持の前提であり、生産されたものが消費されずに溜まることは最も困ることなのである。足りないから物を作る、不便だからサービスを提供する、というメカニズムが不可欠なのである。もし人々がみな、必要なものしか買わない、本当に必要な時しか旅行しない、となると経済が沈滞してしまう。今の日本の社会ではその事態をおそれる結果、企業人だけでなく、現在の国民だけでなく将来の世代にまで責任を持つべき政治家や経済学者までが「消費の活性化」などという、少し哲学的(即ち後始末まで考える事)に考えればとんでもない方針を堂々と掲げて、贅沢しなさいと国民に薦めることになる(ちなみに1940年に日本政府が作ったポスターには「贅沢は敵だ」と書かれていた)。

3.持続的発展のもたらすものは破局

3.1 限界効用のつり上げ

人々の基本的欲求が充足されてもなお「不足」が維持されないと自由主義経済は成り立たない。そこで考案されたのが、すでに産業革命時代から使われて来た「限界効用のつり上げ」である。英語の“marginal utility” が限界効用と訳されるが、マージナルとは「余分の」という意味であり、本質的でないものごとを指す。人間が生存し、適度の快適さを得るための必然的な効用が充足されれば本来の意味の限界効用はゼロになる。しかし不足がなくなり限界効用がゼロになると先述のように景気が沈滞する。それを避けるために余分な、利便性、効用(ユーティリティー)を連続的に提供して人々の「欲」を刺激するのが現在の自由主義経済の手法である。
持続的発展という言葉が自由主義経済において最重要のキーワードのように使われるのは、余分な効用を常に提供し続けることがその根幹にあるからである。余分な効用を提供し、それが充足して「欲」が減ってくると更にその上に、新たな効用を提供する、というメカニズムを機能させるのが、持続的発展である。しかしそのメカニズムの根幹にあるのは複利的な、すなわち指数関数的な経済規模の増大である。指数関数的発展は、とりもなおさず指数関数的エネルギー消費の増大に直結する。技術によって省エネルギー出来るから、もっとエネルギーを使っても大丈夫、という発想は自由主義経済を現在のままの形で温存したいという願望に根ざす偏見である。

3.2 エネルギーの値上げによる省エネルギー

勿論、人の本性である「欲」に根ざした自由主義経済には人を活性化し、手間をかけずに社会が機能する大きな利点がある。この点を考えて今後の戦略を考えねばならない。一つの必ず成功する戦術はエネルギーを大幅に値上げする事である。日本では今、家庭の電気料金は1kWhが25円である。ガソリンはリットルが120円である。こんなに安いエネルギーを節約しようという人はほとんどいない。もしこれらが250円、1200円であれば人は誰に説教されなくても節約に走るであろう。その理由は節約、省エネが儲かるからである。即ち人々は「欲」に駆られて行動し、その結果が将来世代の為に良い結果をもたらすのである。「世のため人のため」などと考えない人たちの行動が結果として(見えない手に導かれて)そうなる、というメカニズムはアダム・スミスの理論である。
エネルギーの生産の現場では火力であれ原子力であれ、技術者が安全に細心の注意を払って日夜働いて設備を稼動させているのである。資源とよばれるものは限られた場所に有限にしか存在しない。また、如何なるエネルギーも(太陽エネルギー以外には)環境に影響なく創り出すことは出来ない。この貴重なエネルギーを現代人の一時の「欲」の為に安価に供給することは許される事ではない。自由化してエネルギー価格を下げるという意見はエネルギーの本質を見誤っているのである。
このような施策を提案すると必ず、産業の国際競争力が落ちるので出来ない、という意見が出る。そのような意見は先述のように、保守的な企業が利益をつかみ取りをするために、今の体制を維持したいという願望によって決断が出来ず、具体的な方策が工夫されないためである。高率の環境税の実施や個人にエネルギー消費権を配給して権利の有価取引を認めるなど、さまざまな工夫や、それらの勇気ある実行による方策は必ず出来るのである。いまこそ日本と中国が「協力と競争」をして、国際的に「欲」の利用による省エネルギーを検討する絶好の機会ではないだろうか?

4.我々は何を目指すのか?

結局、現在のエネルギー問題への社会的な認識は日本では、自由主義経済を今のままに維持しつつどの程度エネルギー利用の制限が出来るか、という発想に立っている。これは全く根本的に主客転倒の論議である。即ち我々は、将来世代を考えればどの程度のエネルギー利用が限度であるかを条件として、その枠の中でどれ程の経済活動が許されるかを工夫する、という発想に戻らねばならないのである。しかも現在のエネルギー利用量はすでに人類の持続的生存の条件にとって許される限度を超えているのである。
問題は、それではそのような省エネルギー、節約、つまり、かなりの程度マージナルな効用、利便性を我慢する社会が不幸な社会であるか否かである。少しでも人類の残した古典、それが哲学であれ、文学であれ、科学であれ、まして宗教であれ、を読んで味わってみれば、贅沢、浪費、満足の状態が幸福であると書かれたものは無い。そう書かれていない事には理由がある。即ち我々は本性として、肉体的、精神的に頑張る必然性のあるときに肉体的、精神的に、健全でいられる即ち幸福でいられるのである。勇気を持ってエネルギーの値段を大幅に上げて、我慢の必要な社会に向かう事を恐れる必要は何も無い。感動は前進、満足は後退である。

Written by Shingu : 2005年02月23日 15:44

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