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哲学とは何か

この文章はエネカン誌「ENEKAN VOL 3」に掲載されています。
冊子ご希望の方はエネカンまで、メール下さい。

1.哲学とは始まりと終わりを考える事
Qu’est-ce que la philosophie。これフランス語です。 ドウルーズ(アルジェリア生まれのフランスの哲学者、1925-1995)のこのタイトルの本がこれを考える一つのキッカケとなったので、蛮人の言葉(シーザーから見て、後述)を書いて見ました。何しろ哲学とは難しい事の代名詞みたいですから簡単には判らないのでしょうが、簡単で無い事を簡単にやっつけるのがエネカンのやり口です。そこで一言で哲学とは何かを言い切れるその一言として先ず、

「哲学とは、始まりと終わりを考えることである」・・・パンタルゴス。
この格言からスタートしました。エネカン集会に参加の会員に意見を求めたら、
「哲学とは、概念が何かを考える事」・・・東京から駆けつけた国家公務員31才
「哲学とは言葉です」・・・文学部卒、出版社勤務 妙齢女性

というすばらしい意見がでました。何とエネカンの知的レベルが高いこと!!でも何も判らんけど判ってるのが最高に判ってるのだ、という、お釈迦様の弟子、ハンタカ(朱利般特、二を聞いたら一を忘れる人)、をエネカンではシンボルにしていますからご心配なく。

1・1 概念の概念、イデアのイデア
さて、概念とはなにかを考えるなんて、とても普段には考えないでしょうが、哲学の元祖の一人、誰でも名前を知ってるプラトンが考えたのが正にそのことです。プラトンといえば「イデア」というのがキーワードですが、このイデアとはあっさり言えば概念です。人間は何かというイメージ、それが人間であるという印象、これが人間というものだという頭のなかにある元の形、それをプラトンは「イデア」と呼んだ。「美しい」のイデア「幸福」のイデア「美味しい」のイデア「悲しい」のイデア・・・というように諸々の社会のそして宇宙の森羅万象はすべてイデアの集まりである。
こんな風に考えて、どうだイデアがすべてと考えるこの考え方はすばらしいではないか!!と悦に入っていたプラトンはある時ハッと気がついて、大困りに困ってしまった?!
プラトンは「イデアのイデア」つまり概念の概念とは何か?と考えたら、イデアのイデアはイデアである事に気がついた。すると新しく考え付いたイデアもイデアならその新しいイデアとは何かを考えないといけない、それを考えると又新しいイデアが出来る、すると又・・・。となって始末がつかない。「始末がつかない!!!」
「始末」とは中国語かな? 「始めと終わり」 が始末なら、最初に掲げたパンタルゴスの格言は正にプラトンの行き当たった哲学の壁、エネカン集会での31才氏の発言が何と実は「哲学とは、始まりと終わりを考えること」と一致しているではないか!
プラトンは「イデアはそれがそのようなものだと考えても、そのようなものでないと考えても具合が悪いものとなる」だからこれはアポリア(矛盾を含む難問、パラドックス、paradox, aporia)である、お手上げだ。と著書「パルメニデス」に書いている。ちなみにパルメニデスとはプラトンよりずっと先輩のギリシャ哲学の草分けの人で「万物は一である」ことを言い張った人。一の話は後回しにして・・・。
プラトンは、イデアは結局アポリアである、で終わるのは沽券に関わる(コケンにかかわる、と読む、難しいね)つまり面子、メンツが潰れるので頑張って解決策を立てた、それが「ティマイオス」という本に書かれている。そこでプラトンはそんなイデアが独立にウロウロ動き回るのは具合わるいのでイデアと、イデアを模して現れる現実のものと、それら全部を収容する場(ギリシャ語でコーラという)とがあるのだと言っている。場、コーラ(not cola but chora)を考えるなんて苦し紛れのゴマカシだ!と素人は思うけれども、このゴマカシ法には世界共通性がある。

1.2 有るでもない、無いでもない、「空」
始末がつかないアポリアに出会った人はプラトン以外にもワンサといる。大乗仏教を始めた重要人物である龍樹(印度名ナーガルジューナ)が主著「中論」などで主張する「空(くう)」の思想はなにを隠そう、宇宙の全てをあらわすダルマと言われる「法」がホンとに「有る」のか実は「無い」のかを考え、それらを超越するものとして“捻り出された”思想だ。すなわち形而上と形而下、考えの中のものと現実に身の回りに見える、触れる、食べられる諸々のもの、全ては「有」るのか「無」いのか、有無を考えると、無という概念は有るという概念なしにはナイ。まして有るとはナイがアルからこそアルと言える、なんてこれも概念を確定できない。正に「始末」に負えない難問(仏教用語では難無記といわれる?)となる。龍樹はこれを乗り越えるために、有でもない、無でもない、そのどちらでもあり、どちらでもない、そんなものを「空」と呼ぶことにしたらしい。コレ、プラトンのコーラと同じとチャウんか?「色則是空、空則是色・・・」ナンマイダ、ナンマイダ・・・。

1.3 三位一体
そう言えば、キリスト教でも、政界などで縁無き衆生が今騒いでいる「三位一体(さんみいったい)」とは父なる神と、子であるイエスと、万人に宿る聖霊との三つは全て神であり一体のものであるとする。しかし基本的役割はあって、生まれずして「ある」神と、神から生まれたイエスと、イエスの分身としての聖霊を持つ諸人(モーロービトー!)とがあってこそ社会、世界が有ることになっている。キリスト教は父なる神から子イエスが生まれるという、人間的感覚からズレたストーリーを作っているところに無理がある。ここは次に述べる中国の道教と違うところだが、それはさておき、三位一体なんていう外部者にはどうでもいいような事が、なぜキリスト教では大問題なのかと考えて見ると、それが矢張りプラトンや龍樹が突き当たった壁にキリスト教も困ってしまった事によっている・・・らしい。 

冒頭に挙げた、始まりと終わりを考える事、をとことんやるとイエスを生んだ神様は何処から来たの?という問に対する解答を用意しておかないと信者からの質問をこなせない。そこでイデアと実態とがコーラに含まれたり、有と無が空によって超越されたり、などの考えと似た、生むもの、生まれたもの、人の心にあるもの、すべてが一体である、三位一体の結論が用意されたのであろう。

1.4 どこへも行かない「道」を説く、老子
中国哲学といえば、道教つまり老荘思想。「老子」の第五章には、始まりの始まりは山(男性)ではなく、谷(女性)であり、「谷神は死せず・・・」とあって、始まりは女性から、すなわち玄牝之門、から全てが生じた事にしてある。玄(暗い)すなわち、判り難い、という言葉は始めを考えると必ず人間の頭に浮かぶイメージらしい。玄について言うならば、中国語すなわち漢文にはイロハにあたる「千字文」という千個の違う漢字を使って韻を踏んで作られた詩句があり(5世紀頃からいろいろ作られた?)、最も有名な千字文テキストの出だしは「天地玄黄、宇宙洪荒、てんちげんこう、うちゅうこうこう」と、玄の字が使われている。

道教では“道”が全ての根本なのだが、道は決して目的地に行く単なる手段(英語のmethod、手段は、meta によって、hodos 道、というギリシャ語から来てるらしい)では無い。全てを含み、始めも無ければ終わりも無いもの、是だけあってその他すべては道の属性、そんな、元の元、コンポンとしてTAOすなわち“道”があるのだと言うわけらしい。道は大体において暗い(玄い)ものだという感覚は山歩きをしたことのある人には判るだろう。道に迷ったとき、おっかさん助けて!と思うならば道教の思想が正しいわけである。

1.5 始まりは暗い、物理学
暗い、と言った物理学者にワイル(Wyle)と言う人がいる。「すべて始まりは暗いものだ・・・」と言うイントロダクションで始まる本(1931年)は素粒子物理という分野の極めて有名な本で、そこには、ゲージ(寸法)場の理論、というものがよりどころとしている考えが書かれている。 解説によればこの「場」の理論とは、素粒子すなわち電子など、構造を持たない粒子が相互に作用を及ぼしあうことを取り扱う場合、一個一個が独立に存在を示してお互いに作用し合うのではなく、先ず場があって、全ての素粒子は場の属性に過ぎず、相互作用は素粒子が場を通してお互いに及ぼしあうのだ、と見るらしい。 場はフィールドだが、これを道、空、コーラ、三位一体とか言うならば、これらは皆、同じ苦し紛れのゴマカシのようでも有る、けれども、そうでもないようでもある・・・。 やはり「空」? 
始まりと終わりを深く考えると、自ずから哲学そのものの真髄に考えが進んで行くことは、何と無くご理解いただけたでしょうか?

2. 哲学には言葉が要るか?
さて、もう一方のご発言「哲学は言葉です・・・」に移ろう。
「始めに言葉があった、すべては言葉からなった・・・」と、新約聖書ヨハネ伝の冒頭に書かれていることは結構有名。ギリシャ語でロゴスと言う語が訳されて「言葉」とされているのだが、ロゴスとはロジックすなわち理屈のことをも意味している。論理学は英語ではロジック(logic)。哲学も人間がそれについて云々する限り言葉で表すしかない(言えないけれども示せる・・・話はあとで)。

討ち入りは12月14日(新暦、1703年1月30日)だったそうだから、丁度今は時節が合っているが、忠臣蔵狂言はなんで「仮名手本忠臣蔵」と名づけられたか?と言うと、吉良上野介が江戸城松の廊下で浅野内匠頭とすれ違った時に、田舎侍メ、と軽蔑して「鼻でフン」と笑ったので逆上した内匠頭がご法度を忘れて抜刀して切りつけた、というのが「始まり」である。「鼻でフン、ハナデフン・・・カナデホン」となまったので、元は「鼻でふん忠臣蔵」が正しい。40年前に聞いた漫才のネタを覚えていると頭が満杯になるので今日でこのネタを消して哲学を入れる事にします。

2.1 10進法、2進法、1進法、0進法。
さて、日本語という“言葉”はイロハ・・・と仮名手本の47文字(ん、を入れて48文字)。それですべての思想を書きつくすようにしている。アルファベットは26文字、ギリシャ語のアルファαからオメガωまでは24文字。 言語によって基本の文字数が違うが、哲学が言葉であるならば、哲学を書き示す最小の文字(記号)数は幾つだろうか?
これについては倫理の講義を今受け持っている関西大学のマテリアル工学の100名の学生に聞いた時も、先日福山大学で一年生800人に講演した時にも、学生から、最小の記号数は「ゼロです」と驚くべき答えをもらった。理由を聞くと「言わんでもわかります・・・」というのである。是には参った、そんな話に導いて学生をからかおうという魂胆が見透かされたのか?今時の学生にも面白いのがいる。

常識的答えは2である。つまり二進法(0と1とで全ての数を書き示す、普通使う10進法の0は0、1は1、2は10、3は11、4は100、5は101、6は110、7は111、8は1000、・・・)つまり1の次に桁が上がるシステムである。コンピューターはすべての情報を、一とゼロの組み合わせすなわち2進法で処理していることを知れば、哲学は2個の数字で表せるもの、すなわちピタゴラスが2500年ほど昔に「万物は数である・・・」と言ったことの意味がわかる。中国で発明された陰陽占い、即ち“易”の記法は陰と陽の二つの記号で全てを記述するのだから、まさに2進法の元祖ということになる。けれども特許が取ってないので、コンピューターに二進法が使われてもそれはタダ。でもウィンドウズには金を中国でも払ってる。アメリカが偉いですか、中国がえらいですか?

では、もう一歩進めて一進法があるか?と学生にきいたら「あります、ドットで書けばよろしい」とこれも又すごい答えが返ってきた。実は論理学では、Sと言う記号を、ある数の次の数、という意味に使う。すなわち、Sと言う記号だけで数を扱う方法があるのだ。
(10進法の3なら、ゼロの次の次の次だから、SSS)。リンゴが5個というのは石器時代人なら◎◎◎◎◎と書いたと推量できるが、 これも、桁が常に上がって行く、と見れば一進法と言える。
更にもう一歩進めて、ゼロ進法があるかを考えるのが順序であろう。そうなると先述の学生の答え「言わんでもわかります・・・」の意味が脚光を浴びることになる。ゼロ進法では記号の数はゼロだから、文字、数字は無い。数学ではゼロを0と書くけれども、一個でも記号を使うなら、それが0でもSでも同じことで、一進法になってしまう。 言わんでもわかる、は、あくまで「言わない、書かない」が基本だから、それは、維摩の沈黙(後述)のようにシーンと静まり返って文字も言葉も何にも無い、のでなければならない。

少し冗談的に思いついたことを書くと、ゼロ進法はなにも書かない、言わない、とすると、シーンとした静寂、白紙はなにを意味することがあるのか・・・。 一進法の「◎◎◎◎◎」 がリンゴ5個を表す事は判然としているが、ゼロ進法の「      」は論理的にはなにも表さない。けれども「      」でも通常我々はそれが何か判るし更に「      」は場合により、リンゴが5個ナイのか、10個ナイのか、さえ “示せる”わけである。ゼロ進法ってすごいですねエー。思い出しました、ゼロ進法に関して、白紙の答案は満点以上であり得る、とコメントをエネカン会員、京大教授 K.I.氏から貰ってました(そんな事言ってるわりには点が辛いかもネ?)。 こんな“白紙”やシーンとした“場”は、ゼロ進法にも必要か?と思うと、それこそ“空”なのか・・・。アポリア・難問、ですねエー。
ヴィトゲンシュタインという20世紀始めの有名な哲学者の「論理哲学論考」の4.1212項には「What can be shown, cannot be said、示せる事は言葉でいえない」 という文句がある。ゼロ進法という概念を使えば是も言葉の内?ということで文学部卒さんの発言も納得!となり、しかもパンタルゴスの「始まりと終わりを・・・」という思想とも、ゼロ進法から始まる・・・とこじつければ、上手く一致する!!
「・・・・シュタイン」なんて人に“言って”もらわんでも、維摩経(ゆいまきょう)という有り難いお経には、維摩詰という主人公の先生が、不二(ふに、ふじ、空と同じ思想、有るでも、無いでも、どちらでも無いのでも、どちらでも有るのでもあり、ない、なんて概念?)の説明を求められて“無言”で答えた、維摩の沈黙雷の如し、なんて言葉を昔の人は皆知ってた・・・のでした。何進法と言う仕方で括るならばゼロ進法は、桁が無い、という記法といえるでしょう。

2.2 無限(∞)進法
まだ終わりではありません、ゼロ進法に来たら今度は当然、無限(∞)進法、は何か?を考えないと「始末」がつかない。
中国語の「千字文」について先述したところにもどりましょう。およそ世界中の言語は漢字文化圏以外ではアルファベット、即ち限られた数の記号で意味を書き表す方式をとっているようです。すなわち前に書いたように、何進法、という数字で言語が出来てるとみなせます。ところが、中国語だけは文字の数に制限が無い。千字文はたしかにおよそ漢文で言い表すに必要な文字を多くカバーしていますが、足りない文字がある。
足りない、という実際的な問題だけなら、例えば「万字文」など(韻を踏むのは難しいとしても)を作れば、ほぼ言いたい事の全てが表記できるかも知れません。けれども中国語の、他の言語に無い際立った特徴は、原理的に限られた記号数が無いことです。 これはもうお判りのように、1,2,3,4・・・・・・・というような数字(記号)を物の数だけ増やす記法である。無限にものがあれば無限に記号を作らねばならないのですから、無限(∞)進法による記法です。 ∞進法は桁が上がらずに、すべての数に異なる記号が対応する数記法と言えるでしょう。

なんと中国では一方で“易”の陰陽二記号によるもっとも単純な記法を発明しておいて、実際の生活、文化においては無限進法である漢字を平気で3000年このかた利用して来たわけです。
日本はというと、勿論ここは和藤内(わとうない、倭唐ナイ、近松の国姓爺合戦の主人公で日本人と唐人との混血?)の国ですから、イロハなるアルファベットと無限進法の漢字の両刀使い。今頃はカタカナ即ち西洋文字も採用、そのうちハングルも併用するかも・・・?という無節操振りですが、それが生き残りの戦略か?

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梁の周興嗣による千字文、駢儷体で書かれている。(紀元500年頃、岩波文庫から)

哲学するには、何進法がいいのでしょうね。最後に書きますが、哲学は無前提に物事を考えるのが“前提”なので、縛りは少ない方が良い、と思うと、全く無制限の無限進法が優れてる?けれども、縛りの極致であるゼロ進法、すなわち文字の使えない状態もいいかも知れない。そこで、文字についてもう一押しの考察を・・・。

2.3 文字は人をダメにする?
「文心雕龍、ぶんしんちょうりゅう」という本が今から1500年ほど昔、いわゆる中国の六朝(りくちょう)時代に劉勰(りゅうきょう)という人によって書かれている。「四六駢儷体(べんれいたい)」なんていう韻を上手く整え、意味も前後の句が相呼応した漢文の書き方のテキストで、駢儷とは2頭の馬が並んで見事に走る様を意味している。日本でも平安時代ころにはこれが大流行したらしいので、駢儷体という言葉は古文にも頻出する。文心雕龍とは、文の心をあたかも龍を彫るように作るという意味らしいです、かっこいいねエー。
さて、なんで、ブンシンチョウリュー、なんや?という無かれ、それは文字(漢字)を発明した人である「蒼頡(そうけつ、目を4つもった神人)」のことに触れているのです。イントロに当たる「原道」に「自鳥跡代縄、文字初炳、鳥跡により縄に代え、文字初めて炳す」とあります(炳、へい、は明らかという意味)。 そうです蒼頡は鳥の足跡を真似て漢字を発明したわけでした。(代縄とは文字以前の、結び目の数で言葉を表したやり方にとって代わったこと)。 こうして文字が発明された時のことが文心雕龍には「蒼頡造之、鬼哭粟飛・・・」と書かれています。これはずっと古い(紀元前100年以前)の老荘思想の本「淮南子(えなんじ)」からの引用で、文字という便利なものができると、人が働くことを忘れて文に走ることを悲しんで鬼が泣き、天は農作が滞って人が飢えると思って穀物を降らせた・・・らしい。
漢字は鳥の足跡を真似て発明された、とは酉年にふさわしい話題ではありませんか?そういえば大学院時代に同室だったジャック・スマートというエール大学出のヤンキーは私の日本語のメモを見ると必ず「chicken scratches!! 鶏の掻き跡!」と言いました。

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漢字の発明者、蒼頡(そうけつ)像、4つ目の神人 (蒼頡たちの宴、武田雅哉著、筑摩書房、より)

要するに、ヨウスルニ、文字がでけたでー、サー哲学や、なんて喜ぶのは愚かである、文字は人の営み、本来の勤めを損なうものである、という思想に触れたかったんです。この思想がナント中国のみならず、西洋にもレッキとしてある。 先ずジュリアス・シーザー(Julius Caesarです、話が飛びますねエー)がガリア戦記(要するに紀元前数十年頃に今のフランス、つまり当時の蛮地に攻め入ったローマ軍の記録)にガリア人(フランス人のことです)は文字は記憶を弱めるという理由から極力避けて使わないようにしている、と書いています。

中島敦、に話はとびます。「文字禍」という短編があり、アッシリア(紀元前600年ころ、いまのイラクあたりを中心に栄えた国)での出来事が語られてる。粘土板にありとあらゆる歴史その他を彫り刻んだものが本であり、それを集めた図書館もあった。そこで、その図書館でなんか夜な夜な変なささやきが聞こえる・・・。という出だし。要するにこれは文字の精霊ではないか・・・。人が文字を覚えると精霊は人に何をするのか・・・。老博士がこれを研究。 今風にアンケート調査してみると、文字を覚えたら急にシラミが取れなくなった、空の色が前ほど青くなくなった、脚が弱った、頭が薄くなった・・・、が結果として統計的に“有意”に示された。要するに、文字を覚えた人は例えば本物の女性にあこがれずに“女”という文字に惚れたりする、事が判ったわけである。これらは「中島敦と問い:小沢秋広著、河出書房新社1995」に詳しい論考あり。ナント著者はパリ在住のエネカン会員、哲学者!

長くなりすぎて、読んでくれる人は長さに反比例して減少!が感じられて来ました、最後に残るのは書いている者と文字の精霊だけ!エネカン事務所で一人さびしく文字の精霊にやられてしまうか?

3.哲学は前提なしに考える?
そこで結論を無理に引き出そうということになります。要するに、「哲学とは何か・・・」というタイトルの本を片端から読み漁ってみても(アリストテレス:公理つまり、アタリマエの事、の根拠を考える事。フッサール:徹底的無前提の思考だから(厳密)。シェーラー:哲学は最も無前提な認識。デイルタイ:明確な範囲決定を許さない境界が残る。ドウルーズ:概念とは何かを考えること。デリダ:存在しなくても憑在つまりユーレイ的にある物も怖いですゾ。ヤスパース:普遍的な成果が無い。その他、その他・・・バラバラの乱読)自分一人でムチャ集中して考えても、誰も何も判ってないことは、はっきり判ったのですが、基本に流れる一言、一つの事があります。

科学と哲学とを峻別する点は、科学は前提の上に立って考える、哲学は前提なしに考える。という事のようです。 ようです・・・ではまずいので「です」といたしましょう。これは昨年の「非論理哲学論考」のパンタルゴスの言葉「矛盾、無限、因果は一つの謎の三つの顔である」と同じ事を言っていることになる。 人が当たり前だという事を、当たり前って何のこと?と問う。 オマエのいうことは矛盾してると言われて、矛盾して悪いんケ?なんて、すこし品がよくないようですが、哲学は人が当たり前にしてる前提を考え直して見たりするものなんです。 

これが結論でありますが「ほんでなんやネン・・・という、かの問い、イチャモン」には、空を仰いで冬空の青さを見て、も一度これ読んでミ・・・と誤魔化すより、今のところ手がありません。「坦白説、我親愛的、我一点也不関心。 Frankly, my dear, I don’t give a damn !  すまんけど、オレにはかんけいねエー」と言われても、なおしつこく食い下がるのがエネカン哲学?これ、何のせりふでしょうか?(Gone with the wind の最後の場面デス)。無前提とは何か、エネルギーとなんの関係が・・・、などまた書きましょう。 ハナデフン忠臣蔵ヤ、と見捨てないで下さい・・・。

以上で “終わり” にしようと思いましたが、再考すると、それではマズイように思えて来ましたので、蛇足を加える事にしました。

3.1 前提なしに考える、という前提!?
気になったのは、哲学は無前提に考えることが前提である、と、途中で何気なく書いたことです。つまり無前提に考える事など可能なのか・・・?無前提を前提にしたらそれは無前提では無い!!これは困った、困ったけれどもこれ、プラトンがいみじくもイデアのイデアは何?というアポリアで困ったのと同じではないか?その他の偉い人々や聖人も皆、困った困った、になっているのだから、こんな事態は今更驚くにあたらない。 

けれども、哲学を考えるとき必ず突き当たるこの、困った困った状態、こそ哲学を考える事に意味を与えるものである。 そこが面白い、困った困った、を面白いと感じることは人間にしか(地球上の生物としては)出来ないことだと思うと“考える”ことは人として生きることなのだと判る。 アリストテレスが哲学は、役立つ、という点では他のどの学問に較べても劣るけれどもこれ以上に素晴らしい学問はないのだ、と言った(形而上学:アルファ巻2章)のはこの事を指しているのであろう。

要するに(なんども言うな!)、始まりと終わりを考えると(始末をつけてナットクしようとすると)必ず何処が初めなんかいナ、という問が出て、これが解決できない。終わりを考えても、どこまででキリにするか、なんて、とことん考えたら困ってしまう。そこに必ず矛盾が生じる、つまり、パラドックスが発生する。

キーワードで整理すると: 無前提を前提に出来ない。イデアのイデアはイデア(プラトン)。ゼロ進法か無限進法か。有るか無いか空か(龍樹)。すべては梵語の阿字から生まれる、阿字は生まれずにある、阿字本不生(あじほんぶしょう、密教の真言)。生まれざるものと生まれたものは三位一体。 陰陽の初めは太極すなわち一(易)。  道可道非常道、道の道とす可きは常の道に非ず(老子第一章)。

これらは皆、困った困った状態を超越しようとするアガキと言えるでしょうか? 他にも、すべては一と言ったエレア(南イタリア)のパルメニデス、この世に一般化出来るものは何も無いと言い張ったイギリスのオッカム、反対の一致を唱えたドイツのクザーヌス、など、もがき苦しんだ人は多い。そう、反対の一致と言えば、それもなんとかしてパラドックスを逃れようというアガキの一つです。 
相反するものも、元は一つ、という見方は洋の東西に見られます。漢書芸文誌という紀元100年頃に纏められた歴史書にも、「相反相成也、相反するものがあるからこそ一致がある?」とあります。 カントのアンチノミー(二律背反、対象とする概念のどこにアポリアがあるかを明確にする)、や、へーゲルの弁証法(ある概念(定立、テーゼ)に対して反定立、アンチテーゼを考えて、より進んだ考え、概念、に昇る:止揚、アウフヘーベンする)などもある。 
日本でも江戸中期の三浦梅園は「玄語(くらい言葉?)」という驚くべき独創的(ひとりよがり的)な本を書いている。キーワードは「反観合一」です。全ては一から発するのだから、世の中に反対の事柄が多いのは当たり前 (分かれるときには、反対の性質があるからこそ分かれる、と考えれば納得?)実はそれらも元は一なのだから、反対も見方で合一する?

3.2 困った、困った、が無ければオシマイ!
今度こそ、終わりにいたします。要するに、パラドックスが解消されたら、“困った”が無くなったら、世の中どうなるかを考えて見てください。それはとんでもない事態です。  
人が神様になったら、成仏したら、それは
「That is the end of the story」 なのですから・・・。 だから役に立たない哲学を楽しめる内が仕合せ。 こんな仕合せはお金もかからんし、ましてやエネルギー大量消費は不必要。 
哲学を世界に復活する事こそ今最も有効な省エネルギー法であり即ちこれ以外(以上のミスプリではないです)に有効な環境対策はありません。 これ本気です。エネカンの主張はそこにあります。
終わりが“有れば”、哲学では“無い”、のが哲学らしいので終わらずに、 つづく?

Originally written in January 2005.

Written by Shingu : 2005年07月19日 15:28

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