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節約は最大の資源である(1)

日本学術会議主催 第43回原子力総合シンポジウム 講演論文集 pp.71-76
於:日本学術会議講堂 2005年5月26、27日

節約は最大の資源である
Frugality is the biggest natural resource

(財)若狭湾エネルギー研究センター 新宮秀夫
P. Hideo Shingu

概要
1992年に国連の「持続可能な開発委員会(Commission of Sustainable Development)」が設立された。目標は「将来世代のニーズを損なわずに現世代のニーズを満たす開発」であると説明されている。Development という単語は発展、成長、などとも訳されるが公式訳は開発である。誰もが知っている通り、この世の中のすべてのものには終わりがあるのだから、開発の持続が不可能なことは自明である。したがって、国連に正式に取り上げられている標語はそれをどう解釈できるか、するべきか、をよく考えて見なければならない。京都五山の送り火の一つ{妙}の字のある山のすそに、昔「どろ田」と子どもたちが呼んでいる湿地があった(1)。春になると毎年、近くのガキ大将をリーダーにフナ釣りに必ず遠征したが、底なし沼だというドロ池の中をわずかな目印をたよりに渡っていかないと釣り場に行けなかった。あの胸のときめきの場所が今は「開発」されてサッカー場とテニスコートと自動車教習所になって市民に幸福を提供している。ゲーテのファウストでは、移住を好まない老夫婦を焼き討ちにしてまで湿地を「開発」し、人民の福祉に貢献した自分(ファウスト)は天国に昇ることになっている。開発にこだわる人間の本性にある「欲」と、持続可能な社会の実現とを両立させる「節約は最大の資源である」という発想について考えるのが本稿の目的である。

1. 人間の本性:なぜ成長が望ましいのか?
アダム・スミスの経済理論は1776年に国富論に書かれて以来、現在でもなお経済学において尊重され、用いられている(2)。この成功の理由は彼が自由主義経済の基本を人間の本性に対する率直な観察結果に基づいて構築したことによっている。彼は人間がその持てる能力を最大限に発揮する駆動力は決して高邁な理念ではなくて、皆が持っている貪欲な心であると冷静に判断して、自由放任(レセ・フェール)の理論を提唱したのであった。
人の欲には限りがなく、欲を野放しにしてやれば、国民の大半が持てる知恵と労力を最大限に発揮することになる。国民の大多数が能力を発揮してくれれば、国はおのずから(見えざる手に導かれるごとくに)富み栄えるはずだ、とスミスは卓見した。スミスの時代はそれでひとまずは良かったのだが、今日では世界の一次エネルギー使用量が地球の受け取る太陽エネルギーの100ppmにまで達し、資源の限界と環境劣化の両面から、もはや欲の野放しによる限度のない経済成長は人類の遠からぬ滅亡の危惧を生むに至ってしまった。しかしながら、現在でもメディアでは繰り返し、経済界の人々のみならず、経済学者や政治家によって、消費の活性化による経済成長、経済の健全化、などという意見が堂々と述べられている。
成長の限界とか定常経済とかについて書かれた書物も多く出回っているし、それらの中には極めて優れた解析、解説のなされているものもある。そしてそれらを読んで賛同する人々も少なくないが、政治や経済において根本的に経済成長を再考しようという動きは全くない。産業革命以来、成長経済か持続的経済か、という選択において人類は常に「成長」を選んで来た。そうして来た理由を考えると、人はスミスの言う「欲の野放し状態」において幸福を感じるのだと見なさねばならない。
結局、人は欲に駆られて利得に走るという身近な(ミクロの)幸福感を求める行動を優先し、将来世代まで含めた(マクロの)幸福感には鈍感なようである。アルフォンス・ドーデーの書いた、産業革命の頃、風車が蒸気製粉工場に替わっていった状況を描いた小説はその好例であろう。

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図1 コルニーユ親方は、「蒸気なんぞ悪魔の考えたものじゃァありませんか、風は神様の息ですぞ・・・」といって村人達を説得しようとした(3)。ドーデー「風車小屋だより」岩波文庫、原作(1873)。挿絵:「赤い鳥」20巻3号(1929)、深澤省三画。深澤龍一氏の好意による。

2. 満足は幸福ではない、ストレスの大切さ。
 人間の本性は過去何十、何百万年の間に我々が人間として生き残るに都合の良いように作られて来たとみなせよう。もし我々が恋、富、名誉を得ようとして、限りない欲望に駆られて全力を尽くして来なかったならば、種としての人類はとっくに滅んでいたであろう。その様な行動に何故全力を尽くすのかと考えれば我々は、欲に沿って行動すること、つまり恋(殖み増やす)、富(生きる)、名誉(闘いに勝つ)に向けた行動の中に幸福感を得るように本性が出来ているからである。
 しかし、すこし慎重に考えてみると、我々の幸福感はそれらの目的を達して満足した時に大きいのではないことに気が付くであろう。人は欲に駆られて上記した種の保存の目的に精を出すが、実はその頑張っている状態において精神的、肉体的に幸福でいられるのである。即ち頑張ってストレスの大きいことこそ幸いなのである。このことは先賢がすでに様々な表現で説いている。
 先ず、我々の肉体について考えても、立っているより座っている方が、それより寝ている方が楽であり、筋肉へのストレスは小さい。しかし、ほんの数日間寝ていると筋肉はすっかり弱って健康な(肉体的に幸福な)状態ではなくなる。中国の古典「大学」に「小人閑居して不善をなす、至らざる所なし」とあるのは、まさに精神的に同様のことを教えてくれている。この言葉はアダム・スミスの国富論にある「一般人はたった一週間でも暇でいると、とんでも無い悪事に走って一生を台なしにすることがある」という文章と同じ見方である。満足した状態は不幸である、という発想は更に古くには易の解説にも見える。

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図2 「こうりょうくいあり」。易の八卦における陰陽64組の中で最初に置かれる全て陽の卦(天地乾)。この卦は解説(象伝)によれば、盈(みつ)れば欠ける、すなわち天に昇りつめた龍は行き場が無いのでかえって悔いがある、と説かれている。感動は前進、満足は後退、という思想に合致している。易経、岩波文庫、上下。

 このような、満足は幸福でない、という発想を奇異に感じる人も多いだろう。つまり満足した時には、実は満足でない事になるのであり、仮に満足が幸福であるとすれば、幸福になったら幸福でない、という事態を認めざるを得ないことになるのである。この一見パラドキシカルな発想はじつは経済学ではスミスの古典派の後で19世紀になって発展した新古典派経済学の根幹にある限界効用(marginal utility)の意味するところでもある。つまり品物は欠乏している時にはそれ本来の価値以上の(マージナルな、つまり余分の)価値を持つが、豊かに必要なだけ供給されると限界価値はゼロになり、更に過剰に供給されたら、そのもの本来の価値以下にまで市場価値がさがるわけである。これは満足して悔いが生ずる現象と同じ原理ではないだろうか。
 欲に従う行動によって得られる幸福感が満足そのものによらず、行動の中にこそある、と理解できれば、限度の無い経済成長が起らず、しかも欲に従う行動を実行して人が幸せに暮らして行ける方策があるかも知れない。それを考える前に、簡略に現在の世界におけるエネルギーの使用状況を振り返っておくことにしよう。
3. エネルギーの利用状況、世代間公平性
 エントロピーを定義したクラウジウスは「科学がいかに進歩してもエネルギーは創出することは出来ない。だから人類は太陽から来るエネルギーで生活するように運命づけられている」と書いている(4)。太陽から地上に降り注ぐエネルギーに対して人類が現在利用している、化石燃料、原子力による一次エネルギーの量は約100ppmである。太陽エネルギーは地球上の雨も雪も風も含めた気象を司っていることを考えると100ppmという数字は決して小さいものではない。半導体は不純物濃度を1ppmよりはるかに下げないと機能しないし、鉄鋼材料でも目的によっては数ppm以下に不純物濃度を制御しないと重大な強度低下が起る。我々が気象の微妙なバランスを前提に生活していることを考えると、余分なエネルギーの大気中への放出は極力避けるべきなのである。
 一年間に世界で使用されている一次エネルギーの量は石油換算で約95億トンである。世界人口は現在約64億人とされているので、今のエネルギー使用量の公平な分配を考えると、年間一人当たり約1.5トンとなる。世界各国の使用状況は、アメリカで約8トン、日本、韓国、ヨーロッパ各国で約4トン、中国で約0.7トン、インドで約0.3トンなどの数値が出ている。
 エネルギーをたくさん使えばそれだけ幸福であるのか、という論議をさておくとすると、厳密な倫理的観点に立てば、日本人だからとかアメリカ人だから、という理由で世界の平均に数倍するエネルギー使用の権利があるとはとても言えないはずである。それではどうしたらいいのか、という論議も後にまわして、先ず今の世界平均値である1.5トンの使用量がどんな生活に相当するのかを日本国の過去を振り返って調べると、それは1967年当時の実績である。当時すでに東海道新幹線、名神高速道路は出来ていたし、自家用車もそこそこ走っていた、海外旅行者数も年間50万人程度には達していた。多くの人に、当時と今とでどれ程幸福になったか質問してみると大多数は「変わらない」という回答である。我々は約三倍近くエネルギー消費量を増して、便利で豊かになり満足の生活になったけれども、それだけ幸福感が増えたわけでもなさそうである。それと引き換えに種々の廃棄物とか酸性雨とか砂漠化など、ご先祖様から引き継いだ地球環境を現世代の我々が好き放題につかみ取りしてしまい、公平に分かち合うべき将来世代に渡すべきもの(美しい環境)を渡さないという、倫理的な責めを感じる事態になっている訳である。つまり現代の国家間の公平性のみならず、世代間の公平性について、より大きい、より多くの反省すべき問題を、エネルギー大量消費の社会は含んでいるわけである。

4. 節約は最大の資源である。
 第2節の話題、欲に駆られた行動をする幸せを味わいつつ、限界のない物質的な経済発展とそれに伴うエネルギー大量消費を避ける方法があるのかを考えてみよう。実は、特段に上手い方法はなく、端的には徹底的な節約社会に移行する以外にないのである。なにか上手い方法など無いからこそ人間は幸せに生きられるのであって、我慢や困難がなくて楽しい事ばかりある社会は決して楽しくないはずである。ここに今の社会の目的とされている豊かさイコール幸せ、という観念の問題点がある。先述の経済学における限界効用が、満ち足りるにしたがって減少するのと同じ概念である。
 問題は、しかし、概念がどうであれ徹底的な節約社会をどうして実現するか、という現実的な方法である。倫理的な説得、教育も必要であるが頭で考えて行動するのではなく、欲に駆られて誰もかれもがこぞって節約の生活を実行するようなシステムを考え出さねばならない。具体的に述べるならば、節約する事が儲かるような社会にすれば誰もが進んで節約するであろう、という発想に立つことである。
 電気料金に例をとってみると、現在家庭の電気料は1kWhが25円である。これはいかにも安価であり我慢して電気の使用量を半分に抑えても高々月に数千円儲かるに過ぎない。主婦が居間のテレビを消さずに台所に行き一時間過ごしても高々数円の出費であれば平気であろう。人間はモリエールの劇にある「守銭奴」的な性格を皆が内在しているようだが、それも節約があまりに儲からなければ、ケチのし甲斐がないわけである。節約が儲かるようにするには、覚悟を決めて、あえて電気、ガス、ガソリンなどエネルギーの料金を現在の10倍以上に値上げするべきである。勇気をもってこのような「現実的」解決の道を選ぶことこそ、世代間倫理に基づく我々現世代の人間のとるべき行動である。
 このような提案をすると必ず、貧乏な人が割りを喰らって困るだけだ、という意見がでる。また、税金でエネルギーの値段を上げて集まるお金を何に使うのかが問題である、との指摘も受ける。先ず貧しい人の件は簡単で、先述のエネルギー使用権の公平性に立脚すれば、例えば電気料なら、国民一人当たり50kWh までの低料金使用権(券?)を配布すれば良い。5人家族で例えば月に200kWhで過ごしたら、残った50kWhの使用権(券?)を贅沢したい人に売れば、節約する人は殆ど電気料タダで暮らすことも可能かもしれない。税金で集まったお金の使用法であるが、お金は集まったら使う、という発想がすでに成長経済の思考であり問題があることに気づかねばならない。日本国の抱える借金は公式発表分だけですでに700兆円を超えている。ゴキブリは台所で一匹見えたら見えないところに100匹いる、1-100の法則というのが昆虫学にあるが、借金の場合は仮に、ひいき目に見て1-2の法則で済むとして、毎年50兆円の税金が集まっても、数十年間は借金を返す他に使い道を考える必要は全くないのである。
スミスは、人々の欲にもとづく、いわゆる私悪の心による積極的な行動が国の栄え、すなわち公益に(見えざる手に導かれて)最も大きく貢献することを発見した。エネルギーの節約に関しても、同じく人間の本性にもとづく方法をとるのが最も有効なはずである。ただし今回は欲の全くの野放しではなくて、税金という一つの方法を利用した制約の中での、欲の野放しである。この点は、20世紀の始めに、スミスの方法で行きづまり、恐慌で破綻した自由主義経済がケインズのマクロ経済理論により利息のコントロールという資本家の投資欲一つを基本として救われたのと同様の発想といえる。

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図3 老子48章の言葉「為す無くして、為されざる無し」。何もしないで全てが為される、という発想は肝心かなめの点を押さえることの重要性を示しているのではないか?


5. 結語
節約経済を実現するために多くの規制や、教育、指導などに手を掛けても実効は期待できない。肝心かなめの人間の幸福を求める行動、すなわち欲の野放しを、出来るだけ少ない規制の下で行うことを考えることが大切である。節約、我慢、が儲かるようにするのである。節約の生活は景気を停滞させ、社会を不幸にすると恐れる必要は全くない。その逆で、エネルギー使用量の節約により本来人間生活に必要な、衣食住の限界価値が高まり、労働の価値も上がり、生活上の人間の尊厳も回復するであろう。物質的な持続的発展は不可能だが、持続的発展の望まれる理由である欲に根ざした活力ある社会は、エネルギー大量消費に依存しなくても実現できる。我慢や努力や人の労働力が必要な社会こそ人間の本性にもとづく幸福な社会であり、それは発展的に持続可能なのである(5)。
繰り返して述べるが、節約は最大の資源であり、感動は前進、満足は後退である。



1. 京都五山の送り火{妙}の字と{法}の字と京都議定書(COP3)が作られた{京都国際会議場}とは、ほぼ正三角形の各頂点にある。南無妙法蓮華経の因縁にあやかれるか?
2. Adam Smith: The Wealth of Nations (1776)、アダム・スミス、「国富論」岩波文庫。.
3. 「文明の主役:エネルギーと人間の物語」森本哲郎、新潮社(2000)35頁。「黄金律と技術の倫理」新宮秀夫、開発技術学会叢書(2001)6頁
4. R.Clausius : Ueber die Energievorraethe der Natur und Ihre Verwertnung zum Nutzen der Menschheit. Verlag von Max Cohen & Sohn, (1896).「自然界のエネルギー貯蔵とそれを人類の利益のために利用すること」中京大学教養論叢、第29巻、第3号、197頁(1988)。
5. 新宮秀夫、「幸福ということ」, NHK ブックス, (1998).

この論文は、第二回日中エネルギー戦略学術シンポジウム、立命館大学草津キャンパス、2005年1月。及び、ISA(International Studies Association)Annual Meeting, Honolulu, Hawaii USA、2005年3月。 に於いて発表した内容に基づいている。

Written by Shingu : 2005年07月20日 10:38

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