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銭神論(せんしんろん)

(NPO)京都エネルギー・環境研究協会 新宮秀夫

今春、京大の国語入試問題に上田秋成の藤蔞冊子(つづらぶみ)が出されているのを新聞で読んだ。これは秋成が書き溜めて“つづら”に収めていた文を晩年の1800年代の初めに刊行した、いわばエッセイ集みたいなものらしい。出題はその中の親孝行物語の一節なのだが、面白いのでこれに関連して調べたり考えたことを紹介したい。

鎌倉の何とかいう寺のお坊さんは大徳(とこ)と呼ばれるほど知識が深く名前が天下にとどろいていた。藩主の先祖を祭る寺で説教をするまでに出世したので、親孝行のつもりで故郷の伊予の海辺に住む老母に報告しようと帰ってきた。もともと大徳の家は貧しい漁師で母も海女だったのだが、大徳に会ったその老母は「思ってもみなさい、お前はもともと才能がありその上勉強をしたので、藩主に説教する身にまでなったようだが、まことの仏の道には一向にうといようだ。今までも手紙などくれる毎に黄金や白銀を包んで送ってくれたけれども、そのお金は世の人が仏様の供養に寄進したものであろう。それらは世のため道のためにこそ散財すべきものではないか。私のような海女がもらって使ってしまったらどんな仏罰を受けることになるか、お前は判らないのか、この親不孝者!」と言ってお金の包みを大徳に投げ返した。秋成は結びに「学ばでもかくたふとき人もありけらし(学問しないでもこんなに高貴な人もいるんだなあ)」と書いている。

この文に感動したので秋成の代表作、雨月物語、を借りて読んで見るとやはり面白い!今まで単なる怪奇小説だと思って読まずにいたのが残念だった。その第九話(最後の話)は「貧福論」と題され、武士にしては珍しくお金を大事にしまい込む男と、ある夜現れたお金の精である老人との会話が書かれている。お金の精の老人は、自分(お金)は神でも仏でも無いんだから、不徳であっても運の良い人の所には集まるし、有徳でも私に縁の無い人は多い。私は古来軽蔑される事が多かったが、お金持ちは尊敬されるし、貧しければ碌な事がないのは皆が知っていることです。など、など、お金の性質の根本問題が語られている。お金の大切さを無視できませんよと説いているようだが、結論に「百姓帰家」という漢文が書かれていて、拝金主義にも釘をさしている。江戸時代には他にも、西鶴の「日本永代蔵」や三浦梅園の「価原」など、お金について書かれた書物は多い、過熱が心配になるほど経済活動が盛んだったのだろう。西洋でも経済の市場原理のバイブル、スミスの「国富論」は1776年初版である。
 そこで、秋成がネタ本としたらしい中国晋代に書かれた(紀元300年頃)魯褒(ろほう)という人の「銭神論(せんしんろん)」を読んでみた。「お金は翼が無くとも飛び、足がなくても走る。お金がある者は前に出る、無い者は後に退る。お金は危険を安全にする。卑しい者を高貴にする・・・。」など、など、徹底的にお金の効用が説かれている。お金のことを「おアシ」と言う語源もここにあるらしいことが判った。銭神論の書かれている“晋書”の前文を読むと、魯褒は貧しく、学問を好んで知識が広かったが、当時、世の中の綱紀が大いに壊れている状態を悲しんでこれを書いた、とあった。
 
国語の入試問題に「藤蔞冊子(つづらぶみ)」が出されたことには何か意図があるのだろうか?昨今は国立大学が“民営化”されて、スミスの言う市場原理で“役に立つ研究”をすることが推進されているらしい。アリストテレレスが書いた「なんの役にも立たない“哲学”こそもっとも貴い学問である」という文章など顧みる人とてないのだろうか?「学ばでもかくたふとき人」に叱られないような“大徳”が大学にいて欲しいと思う。


(財)生産開発科学研究所 情報サービスニュース 2005年7号に掲載

Written by Shingu : 2005年07月19日 14:40

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