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節約は最大の資源である(2)

節約は最大の資源である
Frugality is the biggest natural resource

(財)若狭湾エネルギー研究センター 新宮秀夫
P. Hideo Shingu

中国、インド、が日本並みにエネルギーを消費すると・・・
江戸時代の後期に京都で漢・蘭方の医業を行っていた新宮涼庭(りょうてい)という人が、当時経済的な破綻に瀕していた某藩の家老の相談を受けて「破レ家ノツヅクリ話」という本を著している(1828年)。そこで涼庭は「倹約ノ二字ニテ経済ハ尽キタル事ニ心ツカズ」いるのが根本問題である、と述べている。今、世界的に破綻に瀕しているのは人間が健全に子々孫々まで安心して暮らして行ける自然環境である。環境問題の生ずる原因は言うまでも無くエネルギーの大量消費であるが、この困った状況を打開するためにエネルギー使用の倹約・節約に励もうという国は皆無に等しい。
世界の一次エネルギー使用状況を調べると石油換算で一年間に約95億トンなので、世界人口65億人で割れば、平均一人あたり約石油1.5トン相当のエネルギーを消費している事になる。国別に見るとアメリカ、カナダは約8トン、日本、韓国、ヨーロッパの国々が約4トン、中国が0.7トン、インドが0.3トンなどとなっている。人は誰も自分で選んで、日本だアメリカだ、と生まれる場所を決めたわけではない。だから、自分がエネルギーを他国の人の何倍も使う権利があるとも思えないが、国の間の公平性をさておくとしても、もし中国、インドの25億近い人々が日本並みのエネルギー使用量になったら、それだけで世界のエネルギー消費量は倍増する事になる。

人間の欲望は世界共通
中国の人々はこの問題をどう見ているのだろうか?外務省の支援で立命館大学周教授の企画により昨秋と今春開かれた日中エネルギーシンポジウムに出て、中国のエネルギー専門家達の話を聞くことが出来たが、総じて、節約は大切だが中国では現在総力を挙げてエネルギー供給の増大に励んでいる、という事であった。中国側の意見は、当然ながら、自分達も日本人と同じように自動車に乗り、クーラーの利いた部屋でオリンピックをテレビ観戦したい。この気持ちを持つのは当然ではないか、人の欲望は世界共通だ、という事である。ハイデラバードの国立材料研究所長である旧友のインド人教授は、インドでは人口制限をしていないので、若年人口比率が大きい、数十年後はインドが世界的な活動中心になれるだろうと言っている。
要するに人間の「欲」は抑え難いものなのである。人類始まって以来、いや、生物発生以来、我々は可能な場合はいつでもエネルギーの“つかみ取り”を実行する事によって生き延びて来た。それを思うと、今まで何とかなって来たのだから、現在も世界中が競ってエネルギーを探し求めて、あれば使う、無ければ工夫して手に入れるのは当然に思えるかもしれない。しかし、人類の一次エネルギー使用量(前述の石油換算95億トン相当)は地球に降り注ぐ太陽エネルギーの約100ppm(一万分の一)に相当する。それは地球環境全体に大きな影響を及ぼすに十分な大きさであり、我々は運悪く(?)歴史上かつて無い状況に直面しているのである。端的にいえば「何とかなるサ」と言えない事態についに立ち至っていることに気が付かないといけない。

純国産エネルギー資源:節約
今年(平成17年)4月に出された日本学術会議の声明には日本が目指すべき国家ビジョンとして「環境と経済の両立」がうたわれている。少し意地悪な見方で読むと、環境も大切にしながら「欲」も満たしたい、ということらしい。人間の「欲」は、学者の集まりである学術会議さえ無視が不可能なほど強いものと受け取らねばならない。しかし、人類の生存は自然環境に懸っているのだから、最優先すべきは環境問題であることは論を待たない。となると唯一の解決法は「欲」に従った行動によって、自ずと環境問題が解決されていく、そんなシナリオを求める、それ以外に無いことになる。これはアダム・スミスの提唱した、欲の野放しにより“見えざる手に導かれて”国が富む、という自由主義経済学の基本的戦略と同じ原理だといえる。
石油約4トン相当という日本のエネルギー使用量はすべて外国に依存せずには手に入らないものである。これを約2トンにまで減らす事が出来れば、それは2トンのエネルギー資源を見つけた事に等しい。中国の人々から、お前達がエネルギー大量消費をしておいて、俺達に節約を言えるか、と言われる先に我々が節約を示すことが出来なければならないのである。そうなると、節約という“純国産のエネルギー資源”を如何に「欲」に根ざした活力を利用して掘り起こせるかの工夫が求められる。端的に結論を述べれば、それは、節約が儲かるようにする以外にはないのである。

「節約、我慢が儲かる」社会に
「節約が儲かる」とはなにか、それはエネルギーの料金を高くすることである。ごく大まかに言うと、現在のエネルギー料金は石油、ガス、電気、いずれもほぼ同じで、それが極端に安価である。欲に駆られて皆が節約に走るためには、これらは現在の何倍も高価であるべきなのである。居間のテレビを点けたまま台所で一時間主婦がすごしても、数円の負担では節約のし甲斐が殆どない。数十円、百円の始末ができるならば、誰に言われなくても省エネに皆が走るであろう。エネルギー価格をそんなに大幅に上げたら大変と思うのは間違いで、本当に必要なものの価格に対する人間のコンプライアンス(順応性)は極めて大きいことが戦争中、戦後の社会の中で証明ずみである。
節約経済を実現するために多くの規制や、教育、指導などに手を掛けても実効は期待できない。肝心かなめの人間の幸福を求める行動、すなわち欲の野放しを、出来るだけ少ない規制の下で行うことを考えることが大切である。節約、我慢、が儲かるようにするのである。節約の生活は景気を停滞させ、社会を不幸にすると恐れる必要は全くない。その逆で、エネルギー使用量の節約により、本来人間生活に必要な、衣食住の限界価値が高まり、労働の価値も上がり、生活上の人間の尊厳も回復するであろう。物質的な持続的発展は不可能だが、持続的発展の望まれる理由である欲に根ざした活力ある社会は、エネルギー大量消費に依存しなくても実現できる。我慢や努力や人の労働力が必要な社会こそ人間の本性にもとづく幸福な社会であり、それは発展的に持続可能なのである。
エネルギー料金を何倍にもすると貧乏人が困るだけだとか、集まったお金の使い道などを気にする人もあろう。それらは細かい問題であり工夫により容易にしのげる。環境問題、エネルギー問題の根本的解決はやはり“倹約・節約ノ二字ニテ尽キル”のである

「月刊エネルギー」2005年7月号26頁に掲載。

Written by Shingu : 2005年07月20日 14:49

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