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隻手音声(せきしゅおんじょう)、安般守意経(息を数えて心を整える)

1 数息(すそく:息をかぞえる)の効用。

お釈迦様が説かれた「数息」の効用について、詳しいことはさて置き、その真髄を考えてみましょう。まず、人の営み、生きること、は煎じ詰めれば 「恋、富、名誉」を求めて行動することだといえます。具体的には、子孫を殖やす、生命維持(衣食住を確保)、闘いに勝つ、ために頑張ることなどでしょうか? このような行動は機械としての人間の肉体機能の発揮です。機械を上手く動かすのは心、つまり制御装置によらねばなりません。ところが、心は自分でも一体なにを考えて体の動きを指令してくれているのかサッパリ判らない面があります。つまり心は意識の外、無意識に働くもののようです。
実際にはなるべく体の機能が健全に働くように、意識して行動するのが好ましいことは言うまでもありません。けれども矢張り、わが身を振り返って胸に手をあてるまでもなく、体に良くないと、少し考えれば当然のような行動に我々は執着しています。
そうです、執着、こだわり、がイケナイ、とこれはどんな精神科の教科書にも(?)、どんな宗教の聖典にも必ず書いてあります。 心を自由に、なんて、しかし説法されて自由になるくらいなら、宗教も医者も不要なのですが、そうは行かないのが人間の可愛いところでしょうか?
なんて、そのようなノンキなことをお釈迦様はおっしゃらずに、ちゃんと執着を解いて心と体を上手く結びつけるコツをお説き頂いたわけでした。それが「安般守意経」に書かれているのです。端的に言えば、自分で自分の呼吸を数えるのです。意識して息をする、と言ったほうがいいでしょうか。でも、ただ意識して息を・・・なんて言われても判りにくいので、お経には親切にやり方が書かれています。つまり、

「息を大きく吸って、イー、と頭で数え、その息をまたユックリはきながら、チー、と数える。つぎに同じく息を吸う時に、ニー、と数え、はくときに、イー、とやる。そして、サー・・、・・-ンという風にジュー・・、・・ウー、まで数えたら、またイーから始める。」

ま、大まかに言えば「安般守意経」に書かれている内容はこれでオシマイ、と言えるわけです。もとはサンスクリットかパーリ語のものをビッシリ漢字5ページに渡って訳されたお経を実際には読んでもワカランのが正直なところですが、おなじお釈迦様のお言葉(お経)に、何ごとにつけ「不如一要、いちようにしかず」とあるので、とりあえず「安般守意経」から、肝心かなめの、息の仕方で心を整えること「数息観」だけを学ぶことにしましょう。
とは言っても、何で息を数えたらエエんや?それがなんで効果あるんヤ・・・?という問いには断固答えが欲しい。その点は考えて見なければなりません。
先ほど書いた、人間の行動のうち、愛するとか、食べる飲む着る、けんかする、なんていうことは、我々無意識にはしない。つまりこれらは心の指令にしたがって体が動くわけです。ところが、息をする、について省みれば、我々は空気がおいしいからもっと吸いたい、なんて普段は思わずに、無意識に息をしている。先の戦争(応仁の乱ではなくて、太平洋戦争)の時、潜水艦乗りの兵隊だった方から、艦が浮上して外気を吸う時ほど空気の美味しさを有り難く思うことはないデス、と聞いたことがあります。そうです、空気を美味しく頂くことは、山海の珍味に舌鼓を打つのと同じ幸せを我々に与えてくれるのです。けれども、この楽しみが商品になってスーパーで売られたりしないのは、息があまりにも間断なく続けられるものなので、アレコレより好みしているいとまが無いためでしょう。さらに、最も大切なことは、呼吸は意識しても出来るし、無意識にも出来るように我々の体ができていることです。
そうです、息は人の行動の中で、無意識に行われる事と、意識して行われる事、の両方にまたがっているのです。この点にお釈迦様はお気づきになった・・・とそこまではお経には書いてありませんが、そうに違いありません。それをしなければ直ぐに死んでしまうほどの重要な行動であり、かつ無意識と意識の両方に縄張りを持つ行動である「息」は取りも直さず「心」と「からだ」を結びつける、その結びつきをマトモな方向に調整するための、唯一不二、肝心かなめ機能なのです。ちなみに禅ではこれを「数息観」と呼んで重視しているようですが、禅はもともとインドのヨーガの流れから発生したらしく、そのヨーガとはサンスクリットで「結び付ける」という意味だそうです。心とからだを結びつけるのが、ヨーガ、禅 で具体的にそれが「数息観」である、なんて、判りやすいですね。
具体的に数息を実行して見るのが一番てっとり早いと思えるので、大きな執着心はさて置いて小さなこだわりに悩む場合の例として、眠れない時に、妄想を頭から追い出して直ぐに眠れる方法にこれを利用して見ると良いかもしれません。禅の本に、一般には座禅を組んで「数息」を実行するのが良いけれども、臥禅、という方法もある、と書いてありました。つまり睡眠法として「数息」を試せるわけです。もうひとつ付け加えるなら、息はかならずしも、大きく吸ったり、はいたりする必要はないのですが、深呼吸はよくいわれるように緊張をほぐす効果があります。しかも深呼吸すると酸素過剰のためかどうか判りませんが、なんとなく頭がボーとなって寝付きには最適のようです。勿論深呼吸なんてあまり続けられることではないので、自然な息に自然に戻るのが良い、とこれはお経にも書いてあります。
というような事で極めて実際的な「数息」を説く安般守意経の話は一旦おいて、次に「数息観」を実践して、健康を取り戻し、深遠かつポピュラーな悟りの境地に達した江戸時代のお坊さん白隠さんの発案した禅の公案(禅問答)に話を移しましょう。

2 隻手音声 (せきしゅおんじょう)、 片手で拍手? 「絶対」とはコレだ!

白隠さん(1685-1768)は、バッハ、ヘンデル、スカルラッティとおなじ年に生まれた駿河の松蔭寺(臨済宗)のお坊さん。若い頃禅に懲りすぎてノイローゼになり、京都北白川の瓜生山(うりゅうやま)の奥に住んでた隠者、白幽老人のもとを尋ねて「内観法」という数息を採り入れた心と体の調整法を学び、健康を取り戻し、そのいきさつを「夜船閑話、やせんかんな」という本に書いている。とにかく、仏教も老荘(道教)も孔孟(儒教)も神道も煎じ詰めれば、同じ一つのこと、至善を説いている、というような、宗派、宗旨にとらわれない考えを多くの法話に書き残しています。
瓜生山と聞けば、そこは子ども時代からの遊び場、つまり小生の縄張りの内なので少なからず興味を覚えて、あれこれ著書を読んでいると、なんと、白隠さんこそ有名な禅の公案(禅問答)である「隻手音声」の発案者であり、そのタイトルの法語も著書として出ていることを知りました。そこで、若い時に聞いて、記憶にはあったけれども、あまり気にしなかったこの公案について、考えてみると、これこそ、昨年書いた冊子「非論理哲学論考:矛盾、無限、因果は一つの謎の三つの顔である」の一つの謎そのものではないか?と思い至ったわけでした。
片手の拍手、は手を打ち付ける相手がない、だから当然パンという音はしません、その音を聞こう、とうわけです。普通には聞けない音を聞こうとする、なんて変なことですが、対象とするものが無い孤立無援、そのものだけ、という事柄が宇宙にあるだろうか? と考えて見るきっかけをこの公案は与えてくれるのです。白隠さんは、この公案を思いついて説法を始めたら急に皆が興味を持って話を聞いてくれるようになった(皆が疑問の心をおこしてくれる)と書いています。そうです、聞く人が、鼻でフン、の態度でなくてハテナ、と思ってくれたら説法であれ講演であれ、エネカン通信であれ大成功なんです。
対象が無くそれだけある、とは「絶対」つまり「対」を「絶」する、ことに他なりません。エネカン3号にも書きましたが「哲学とは何か?」と考えて、いろいろ調べてみてつくづく感ずるのは、結局哲学とは宇宙の森羅万象の根源にある「絶対」的なものは何か? 果たして「絶対」といえる物、事柄、があるのか?が究極の問題なんだ、という事です。
物理学では宇宙のすべてのものにはプラスとマイナスのような対があるか、という問い、パリティ問題は対の無いものもある、という答えが出ていますが、哲学はそんな事をも超越して「絶対」とは何かを考えようとするものでしょう。矛盾とは、ある概念が、そうである、と同時にそうでないと言わねばならない事です。自然科学はそれは認めないという大前提に立って築かれているわけです。しかし何故矛盾がいけないのか? という問いに対しては、通常の科学的な経験に反するから、としか言いようがありません。これは大変根拠の薄弱な理屈づけなのです。
しかし人が矛盾について考え始めると、その時すでに「絶対」でなく、そうである、とそうでない、という相対的な思考に入っているわけですね。それと同じく有る、無い、の二つの概念も、有るが無ければ無いも無い、無いとは有るに対してのみ言える、と見ると、すでに絶対の概念を棄てているわけです。仏教で龍樹(ナーガルジューナAD150年頃の人、大乗仏教の基礎を作った?)が悩んで「有る、無い」を超越した「空」を苦し紛れに捻りだしたのも「絶対」に考え至ったためでしょう。
エネカン3号にこれに関したことは既に書いたので、ここで止めますが。白隠の「隻手音声」は、いとも簡単に、この「絶対」についての疑問(白隠は大疑団と書いている)を、そんな事を全く考えずにいる我々庶民に気づかせてくれる公案を考案しているわけです。白隠は60歳を過ぎてこの公案にたどり着いたようですが、その素晴らしさに感動するあまり(?)自分は500年間出の者である(滅多に出ない天才ダ、ということ)だと言ったそうです。

そんなことに気づいて、それがナンヤ?といわれても困りますが、白隠は兎専使稿(とせんしこう)という変な名前の別著に、人は日常生活上の倫理的なことだけで、その考察だけで、おわることをよしとするものでは決してない、人の道、を超えた原理にも興味(疑団?)を感ずる時に、悟りに入れる、と書いています。我々の住む世界、日常の生活、が宇宙のどんな「道」の中で営まれているのか? と疑団を持つことが、目前の事柄への執着を解き、我々の生き方に指針を与えてくれる、と解釈しましょう。 生きることに必ず付随する、執着心への対処法として「絶対」に関心を持つことは、目先の悩みに対して「深呼吸や数息」を実行するのと同じ効き目があるようです。

参考文献  
1.「仏説大安般守意経」(大正大蔵経、602)。
訳者は安世高という安息国(パルチア:イランあたりにBC3世紀からAD3世紀まで栄えた国)から来た人。漢訳はAD150年頃。仏典漢訳の草分け。
2.「気づきの経典、アナパーナサチ スッタ(Anapanasati Sutta)」
  中阿含経 10、118 巻の日本語訳。中阿含経の原典はマッジマニカーヤ(Majjimanikaya)と呼ばれる古いお経、サンスクリットより庶民的なインドの古い言語、パーリ語で書かれたもが現存。Pali(パーリ)語で、anapanaは呼吸、 sati は念、suttaは経。
3.「Mindfulness of Breathing」前記、中阿含経のパーリ語からの英訳を中心に、安般守意経に書かれている内容に近く、心を整え、涅槃(ねはん、ニルバーナ(サンスクリット)、ニッバーナ(パーリ語))に至る修練法が書かれている。ネットで調べると、いろんなバージョンの英訳、ドイツ語訳その他いっぱいヒットする。マインドフルネスは、意識すること、気づくこと。
安般守意経にある「数息」は英語ではモロに「counting」、数息の次に来る修行のステップ「相随」は「following」と言う風にナールホド、と判る訳がされている。8ステップの修練が書いてある。要するに、まじめに息をかぞえるのがヨロシイというステップから始まり、だんだんと息をしているのか、していないのか自分にもわからん微妙な感覚に上昇していく。ニッバーナに至れば完全な心の平和が得られる?
4.「夜船閑話(やせんかんな)」。白隠慧鶴(はくいんえかく、1685-1768)が若い時に禅に凝りすぎてノイローゼになり、京都白川の瓜生山の奥に住んでた白幽という隠者から、数息観を含む内観法という治療法を習ったいきさつが書かれた本。
5.「遠羅天釜(おらてがま)」白隠が頼まれて書いた法話が三題。法華宗の尼僧に宛てたもの(下巻)に、仏法には8万4千の法門があり、その内容は5千48巻の諸経典に書かれている、その内容は法華経6万4千3百60余字に集約され、その極意は、妙法蓮華経の5文字に集約され、それは妙法の二字に、そしてその二字は「心」の一字に尽きている。と書かれている。
6.「隻手音声(せきしゅおんじょう)」白隠がこの公案について書いた手紙(2通あり、あて先は二人別人だが、出だしの挨拶以外の内容はほぼ同じ)。自分の母の50回忌に際して、隻手音声の公案の意義を解説したもの。この公案を使いはじめたら説教の効果が抜群にあがり、それ以前のだた「無」という有名な趙州無字(じょうしゅうむじ)の公案を使っていた時と雲泥の差がある。と書いている。聞き手に疑問の気持ちを容易に起こさせることが出来る、という。
7.「隻手の音なき声(Die Lautlose Stimme der einen Hand:Lies Groening, 1983), 上田真而子訳、筑摩書房、2005年7月25日発行」1900年生まれのドイツ人女性が、1957年という高度成長以前の日本に来て、相国寺で禅の修業をした経験の記録。老師から「隻手音声」の公案をもらって、その回りをぐるぐる回って悩んだ様子が書かれている。

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Written by Shingu : 2005年08月27日 16:20

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