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エネルギー節約は最大の資源・幸福の基礎

Frugal Use of Energy is Imperative for the Happiness of Humankind

1.まえがき

 エネルギー学(熱力学)には三つの基本法則「エネルギー保存、エントロピー増大、絶対零度基準」があるが、これらには、何事につけ良いことばかりあって欲しい、という人間の願望を冷たく拒否する面がある。例えば、安価で環境を汚さないエネルギーが大量に供給される事を多くの人が望み、技術の力でそれが可能だと思っているが、エネルギー学創始者の一人でエントロピーという言葉を定義したクラウジウスは「人類は、科学が如何に進歩したとしても、新しいエネルギーを創出することは出来ないのだから、結局は太陽が放射し続けるエネルギーによって、何とかやっていくように運命づけられているのだ」と書いているのである1)。
今の社会を見ると、このエネルギー学の基本はほとんど無視されて、エネルギーの大量消費を前提にすべての活動が行われている。その結果として起こる廃棄物処理や環境問題には、経済発展を損なわない、という本末顛倒の条件でしか注意が払われない。これは人類の将来にとって憂慮すべき事態であり、一刻も早く我々は本来の、つましい社会に戻るべきなのだが、そのような声をあげる人は少ない上に、それは「非常識」であり、いまさら質素な生活は出来ない、として人はわざと顧みない。実はそれが出来なくても、そうしなければならないのであるが、人間の本性は目先の効用・功利に合致するならば非論理的な論理をも良しとしたい願望に基づく行動をとる面を持っているのである。
本稿は、人間の本性である欲が如何に破壊的な結果を生み得るか、また逆に同じ人間の欲の利用により如何にして持続的社会を実現することが可能なのかを示すことを試みる。その基礎として先ず、経済学でいわれる限界効用(marginal utility:余剰効用)の概念と、限界効用を逆に見た限界供給(marginal supply:余剰供給)の概念をエネルギーの、効用と供給、に適用して考察する。
そしてさらに、贅沢で満足な社会でなくて、エネルギーを人類の工夫と努力でつましく供給し、使っていく社会こそ幸福であり真に持続可能であるとの結論を示す。
原子説で名高いギリシャの哲人デモクリトスは人間をミクロコスモスと呼んだが2)、このミクロコスモス小宇宙がメガコスモス大宇宙から消え去らない為には今の時点で不退転の決意をもってほとんど戦争に臨む覚悟で節約にとり組むことが必要である。この「非常識」な小論を是非真剣にお受け取り頂きたいと願うものである。

2.人間のほんせい本性

2.1 性善説と性悪説、判断の基準は欲か慈か
 エネルギーの節約をするか、浪費を顧みないか、どちらかを選ぶとき人は何を基準にきめるのだろう?孟子の性善説によれば、人の本性は惻隠(そくいん、慈しみ、憐れみ)の情であるとしている3)。他方少し後輩のじゅんし荀子は性悪説をとなえており、自著4)に性悪篇という章まで設けて冒頭に「人の性は生まれながらにして利を好むこと有り、是に順う」と書いている。また、楊子という人は自分の利益にならなければ髪の毛一本も無駄にしない「我為説」で有名である5)。
 人は誰も人間が優しく、善良であって欲しいと希う気持ちからか、一般には性悪説より性善説に人気があるようである。個人の行動においては、自分を犠牲にしてまで他の人の窮状を助ける人が多いことが歴史的にも現代社会でも証明されている。しかし、いざ社会の動き全般を決めるような判断をする場合に果たして他人に対する慈しみとか憐れみの気持ちが最優先されたかと見ると、そのような例は稀であり、そのような感情に基づく社会的判断はいつも失敗に終わって来たのである。具体的にみると例えばアメリカにおける道徳的判断による禁酒法や、大きく見て共産主義革命なども私有財産を増す、という人間の欲の心を無視したために国民の労働意欲を衰えさせたという意味ではその例に入るだろう。
 今の自由主義経済の社会では、アダム・スミスの自由放任が経済の基本である。スミスは人が欲に駆られて自分の為だけを考えて必死に働く、その活力によって国全体は自ずから富むのだと述べているが、これは先述の荀子のいわゆる性悪説と同じことである6)。このように、社会を動かす基礎となる人間の本性は欲である、ということを先ず前提にすべきだと見れば、エネルギー学的な必然性からくる社会的な節約も、欲の活力を利用する方向に活路をみいだす他にないことがわかる。
具体策を考える準備のために、そのような欲がどんな具体的な人間の感覚に結びついて、社会を動かすのかを次に考えよう。

2.2 感覚の実験、ウエーバー・フェヒナーの法則
 生理学者のウエーバー(1795-1878)は、人が外界から受ける刺激(音、におい、味、重さの感覚など)の大きさが変化した時に、変化を識別できる変化の大きさ、つまり、弁別閾値(しきいち)を丁寧に測定した。その結果は、閾値は刺激変化の絶対値によらず、測定する時に既に受けている刺激の大きさの何割新しく刺激が増えるか、によること、その割合が刺激の種類による一定値であることを見出した。心理学者のフェヒナー(1801-1887)はこの結果をまとめて、心理物理学(psychophysics)という本を表した7,8)。
このウエーバー・フェヒナーの法則によると、弁別できる刺激の増加量はその時受けている刺激の強さに逆比例することになるが、この関係を使うと(積分により)、刺激の強さを感ずる「感覚:U」と刺激の「実際の強さ:S」の物理的増加量との関係、
          U=klogS + h        (1)
が得られる(kとhは定数)。この式は1738年にすでに、空気や水などの流速が増すと圧力が減る、ベルヌーイの法則で名高い、ダニエル・ベルヌーイ(1700-1782)によって導かれている。彼は、式(1)のSを賭け事における儲けの数学的期待値に、儲けに対する人の感覚をUと置いたのである(セントペテルスグルグ問題として知られている)9,10)。
 この関係は、人間の感覚が、例えば刺激を2倍強く感ずるためには刺激の実際の強さは4倍になることが必要であり、4倍強く感ずるためには16倍の実際の増加が要るというような、倍々ゲームのような刺激の増加を望むという原理を示しているのである。
 人間の欲との関連で、「感覚」と「物理量」との関係は大変重大な結果を招く。たとえば、麻薬の常習者が摂取量の倍々ゲーム的増加を望んで、身体を破壊するところまで至るのも、人間の感覚の機能が基本的にはウエーバー・フェヒナーの法則に支配されていることを示す例であろう。人は利を好む、という本性とこの法則との関連を次に調べることになるが、その前に利を好むという本性を正面切って表明する、いわゆる功利主義について、少し調べておかねばならない。

2.3 功利主義
 功利主義とはJ.ベンサム(1748-1832)やJ.S.ミル(1806-1873)等によって19世紀始めに提唱された思想で、最大多数の最大幸福、を社会の目的に置いている11,12)。功利主義の英語はutilitarianism で、役に立つことを大切に見る主義である。そのユーティリティーが日本語では、功利、と訳されているのだが、後述する、限界効用、という言葉に使われる、効用、も同じユーティリティーの訳語である。
 さて、ベンサムが何をもって功利・効用(utility)、と考えたかというと、人にとって最も役に立つことは「快」であるとしたわけである。楽しい、嬉しい、快適、など今の英語でいえば、well-being、だろうか。この快適さの「量」を最大多数の人が最大量エンジョイできる社会を目指す。というのが功利主義である。
 今の社会を改めて眺めてみると、快適さを求めることが基本、目的のようであり、しかも快適さはお金で買えると皆がほとんど暗黙に納得している。端的にいえば、役に立つこと、すなわちお金が儲かること、という指標がすべての社会活動(大学にいたるまで)の基準に置かれている。この情勢は一言でいえば功利主義全盛の世である。役に立つ、とは何かを成し遂げるための良い手段、という意味であるから、現在の功利主義は手段であるはずのお金を最終目的に見ている事になる。
 ユーティリティーの訳語として、功利、効用、の意味を理解したので、限界効用、限界供給の概念の説明と、それから導かれる節約社会実現の必然性との関係の検討に移ろう。

3.限界効用(余剰効用)と限界供給(余剰供給)

3.1 効用関数と供給関数
 式(1)で示されるベルヌーイの式は、物品やサービスの物理量(充足率)の増加と、人の感ずる功利・効用の増加には違いがあるという概念に対する先駆的な解析であるが、この概念は経済学においては、19世紀半ばに、ようやく「効用関数」として取り上げられるようになった。「効用関数」として式(1)、をみる時はUが効用に、Sが物資の供給(充足率)に対応する。効用関数として見た式(1)を図1に示す。
 さて、「効用関数」はSを独立変数に、Uを従属変数にとっている。すなわち、効用Uの変化を見ることを目的として、式(1)のように、Uを Sについて解く形式をとっている。従来の経済学はこの見方に従うのが習慣であるが、本稿では供給Sの変化をUの変化について見る、効用関数の逆関数としての「供給関数」というものを合わせて考える。

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 図1 ベルヌーイによる効用関数。単なる対数関数のグラフであるが、物品やサービスの「供給:Supply」の充足率増加に対して、人の感ずる有り難い気持ち「効用・功利:Utility」の増え方のグラフとして見ると意味が深い。

逆関数とは独立変数と従属変数とを逆転した関数であり、それを得るにはSをUについて解けばよい。その結果は簡単で、S はUの指数関数となのである。すなわち、式(1)に対応する「供給関数」は次式で表せる。
     S = exp(U)     (2)
この式は預金の福利計算法と同じで、Sが元利合計に、Uが福利計算回数にあたる。この供給関数を図2に示す。

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図2 ベルヌーイの式の逆関数としての供給関数。
単なる指数関数のグラフであるが、人の感ずる有り難い気持ち「効用・功利:Utility」を増すために、物品やサービスの「供給:Supply」が指数関数的(倍々ゲーム的)に増加せねばならないという見方を理解しやすい。

3.2 絶対的基準、ゼロと無限の意味
 物理学的な事柄も思想的な事柄も、目の前の現象だけを上手く理解するのに便利な見方と、物事全体を理解するのにも便利な方法とがある。たとえば、エネルギー学では、実測はできなくても、任意性のない、絶対温度を使ってエネルギー、エントロピーの絶対量が表せるのである。
効用関数として対数関数を用いると良いのは、同じ式が、供給Sがゼロの時も、Sが1近傍(生活に必要十分な時をS=1としている)の時も、さらにSが無限に大きい時もそれが人間の振る舞いに当てはまるからである。
Sが零の時にUがマイナスの無限大になるのは、何も供給されない時の人の不満は計り知れない、という気持ちを上手く示しているし、Sが1の時にUが零ということは、もらえるのが当たり前の物をもらっても人は嬉しがらない、と見られる。Sが無限大の時にはUも無限大であるが、実はUとSとの増えかたの比、ΔU/ΔS、はゼロになり、供給が大きくなればなるほど有難さが減少して、遂には供給の大きさに較べると有難さの大きさが無視できると理解できる。
教科書などを見ると、効用関数として2次関数(放物線)などを用いて説明されることが多いようであるが、Uの値の、零、1、無限大、の範囲をカバー出来ない任意性のある関数を使うことは、温度目盛に絶対温度でなく℃を使うのに似て、便利であっても、人間のふる舞いを全体として把握するには不適当である。
勿論、対数関数がすべてのUとSの範囲で人間のふる舞いを厳密に表現しないのは当然であるが、これは人間の感覚のメカニズムに根ざす一般性のある関係式なのである。
しかし、実はこの見方に大反対した人々もいる。社会学の創始者の一人、マックス・ウェーバー(1864-1920)はウエーバー・フェヒナーの法則を、経済学とくに効用関数の心理的基礎と見ることに対して感情的反発の文章を書いている13)。また、経済学者のフォン・ミーゼス(1881-1973)も、人間の心は数式で処理できるような単純なものではない、として同様の頑固な反対意見を述べている14)。しかしながら、心の動きや幸福感を考えるのに数式を使うと、その神秘性や意外性を損なうと論ずるのはおかしい。人間が対数的な感覚機能を持っていること自体が驚きでなくて何であろうか?

3.3 限界(余剰)効用のていげん逓減、限界(余剰)供給のていぞう逓増
 限界効用という語ほど意味の判りにくい翻訳例は少ない。
限界という語はドイツ語のGrenznutzen から来ているが、効用関数の傾きの限界、すなわち微分係数の意味であろ15)。英語はその点、マージナル(marginal)であるから、商売のマージンとか書類の余白など、そのもの本来の有難さ、効用、に余分に付け足された効用、という意味がよくわかる。本稿でも限界という言葉の理解を助ける意味で余剰効用、という呼び方をカッコ書きを数ヶ所につけた。 
さて、限界効用の説明のためには先ず、「効用係数」を定義せねばならない。Sが1単位増加した時にUがそれに応じてどれだけ増加するかは、効用関数の「傾き」すなわち微分係数(dU/dS)で表される。これを「効用係数」と呼ぶと、効用係数が1である時は供給された物品やサービスが本来の価値で取引される状況を示している。
これに対して、「限界効用(余剰効用):マージナル・ユーティリティー」は、効用係数の値から1を差し引いたもの(したがって余剰な部分)である。この関係を図3に示す。

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図3 限界効用(余剰効用)の説明。Sが1の時には(dU/dS)も1であり、従って余分の有り難さ、限界効用(余剰効用)は零である。限界(余剰)効用はSと共に減る(限界効用逓減:物資の有難さの減少)。

次に、「限界供給(余剰供給)・マージナル・サプライ」は式(2)のUについての微分係数「供給係数(dS/dU)」から1を引いたもである。すなわち、1単位の効用Uの増加の

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図4 限界供給(余剰供給)の説明。供給係数:(dS/dU)と、効用:Uとは元の供給関数と同じ指数関数である。効用(有り難さの感覚)を増すためには、物資の供給が倍々ゲーム的に増えねばならない(限界供給逓増:非効率の増大)。

ために1単位の供給が必要である場合に、供給係数は1であり、限界供給は零となる。この関係を図4に示す。

4.限界分析から判る、不足維持と非効率化の必然性

 先ず、「限界効用」の面からみると、図3に示されるとおり、人は物資の供給が充足すなわち1に近づき不足がなくなると、供給Sの有り難さUを感じ難くなる(マージナル限界効用ていげん逓減の法則)。しかし自由主義経済、端的に資本主義経済は物資の消費が活性でなければ維持出来ない。従って、不足維持が経済の活性を保つための大前提となる。新製品、付加価値、などという言葉は不足の創出による新たな限界効用の人工的作り出しのことである。そのようにして消費が活性化されることは、エネルギー学的にみれば、冒頭に述べたクラウジウスの言った人類が生き続けるための境界条件から加速度的に逸脱していく事になるのである。
 他方、「限界供給」の面からみると、人は物が不足していた時には、わずかの供給で大きな喜び(効用)を得て来たので、物資が豊かになっても、引き続いて同じ喜びを得たいと願う。しかし、図4に示されるように、物資が豊かになればなるほど、同じ喜びを得るために必要となる物資の量(従ってそれを作り供給するためのエネルギー消費)は指数関数的(倍々ゲーム的)に増大して止まらないのである(マージナル限界供給ていぞう逓増の法則)。端的にいえば、贅沢になるほど、それ以上の贅沢をするためには倍々ゲーム的に大きな、つまり非効率なエネルギー消費が必要になるのである。これは先述のウエーバー・フェヒナーの法則による麻薬の摂取量の増加と同じ人間の持つ感覚の破滅的な面を示しているのである。

5.欲を利用したエネルギーの節約

以上の考察を踏まえて、真に持続的な社会の実現のために、資本主義社会の基礎にある、人為的な不足の創出と、非効率なエネルギー浪費のメカニズム、とを如何にして乗り越えて、本来のつましいエネルギー消費社会にもどせるかを考えなければならない。人の持つ善の心は人間の最も素晴らしい性質に違いない。しかし、先ず社会を持続させ、人類が生き続けることの出来る節約社会の実現には、人の最もいやしい、しかし活力のある利を好む面を利用しなければ実効があがらないのである。
端的に、考え得る最も簡便かつ実行可能な方法は、税金を利用してエネルギー料金を大幅に上げることである。今の料金の5倍、10倍のエネルギー料金であれば、人々は節約が儲かるのだから、誰に言われなくても自分の利益を考えて節約に走るであろう。ボーモル・オーツの理論に習って、節約が浸透するところまで料金を試行錯誤で上げるのである16)。
このような提言は必ず、非現実であり、非常識だ、との批判をうける。しかし、生活の最低の利便性を保持するための低料金枠など、割を喰らう可能性のある人への対策はいくらでも考え得る。経済が沈滞する、国際的競争に勝てない、などの意見もでる。しかし、わが国が努力して生きていく道を見つけずに、今のまま、ほんの一時の方便として使っているはずの、本来使うべきでないエネルギーを使い続ければ、その後始末を課せられた後世から(後世がどれだけ続き得るかが問題なのだが)我々が未必の故意(dolus eventualis)の罪を犯したと歴史に刻まれることが必定である。
我々は我々の世代で始末のできる経済勘定の上だけで活動するのが基本であり、今の世の贅沢の付けを将来世代に持ち越すとか、今の利得を何十、何百年も先にツケを回して、しかもその手形を割り引いて勘定することは、世代間を越えた倫理(マクロ倫理)の立場から許される事ではない17,18)。

6.節約と幸福

6.1 満足と幸福は相反的である
以上で欲の心が、エネルギー浪費社会を必然的に求めるメカニズムを検討し、その欲の本性を利用して、エネルギー節約による真の持続的社会を実現してゆく工夫を述べた。
最後に問題となるのは、節約社会が果たして、今より不幸なのか、今より幸福なのか、を調べることである。結局、人間がなにを幸福と感じるのか、人間の幸福とは何かを考えることがエネルギー問題の根幹にあるのである19)。
 限界効用の概念は物やサービスを獲得した時の感動の大きさを行動目的と置く考え方である。獲得したものが世の中に、そして自分自身に対して得難いまれ稀なものであるほど感動は大きい。獲得するものとして、物やサービスに限らず、あらゆる知識や経験までを含めると、感動は喜びや悲しみを含めて人の心の大きな動きであるから、それを感ずることの出来る生物としての人間に特有の性質であり、従って端的に限界効用は幸福とみなせる。
限界効用を感動の幸福と見るとき、その値が大きい時には図3に見られる通り、供給Sすなわち充足の程度は少ない。そして、図1から判るように、Sが1より小さい時には大きな不満を人は持っているのである。つまり、幸福は満足の側に小さくて、不満足の側に大きいのである20)。
改めて考えてみると、何かすることがある、仕事があるというストレスが幸福には不可欠であり、満足して弛緩した状態は肉体的にも精神的にも幸福ではないのである。ショーペンハウエルは幸福の敵は苦痛と退屈であり、一方から遠ざかると他方に近づく21)、と述べているが、これは限界効用の哲学的表現であり「幸福と満足の相反性」を示す言葉と受け取ることができる。「感動は前進、満足は後退」なのである。
 物が不足している時代に人々は、働かねばならない苦しさの中にこそ幸福が存在できるのだと見通すことが出来た。しかし、エネルギー掴み取りの始まった産業革命以後となると先述の功利主義的な発想が当然となり、well-being すなわち満足、快適がすなわち幸福と考えられるようになったのである。アメリカでは伝統的に幸福の研究にはアンケート調査を行ない、高い満足度は幸福を示すとしている。満足は上述のように、決して幸福を与えないと見ると、そのような研究法は納得できるものではない。

6.2 幸福の自己相関性、欲の自己発散性
 幸福についての考察をもう一歩進めてみよう。前節で限界効用を幸福と置くと、満足と相反的になる、と述べたが、式の上で見れば、完全な相反性は図3に見られるように、効用係数(dU/dS)と供給(充足率)Sとの間に成り立っている。効用係数は感動の大きさの指標であるから、これを幸福と見てHで表記すると、供給(充足率)Sとの相反性はH=1/S、あるいは、HS=1、という式で表される。この関係は感動の幸せと充足の幸せが相反している事を示している。
 これを改めて見直すと、完全に相反的なもの同士はお互いに置き換え得る、という哲学的な原理に思い当る。すなわち、幸福Hと充足Sとが完全に相反していれば、お互いにどちらがどちらか、という区別は出来ないのである。すべては1というパルメニデス風22)、反対の一致というクザーヌス流23)、あるいは反観合一という三浦梅園的24)な哲学がそこにある。
 そこで図3の縦軸も横軸も、どちらも幸福Hと置いてみよう、式で書けば、H=1/H、あるいは、H2=1、である。これは幸福になったらどうする?幸福になったら幸福か?という問いの答えである。つまり、幸福になったら幸福でない、幸福でなければ幸福である、という最終目的に固有の自己相関性の原理である。図5に幸福の自己相関性を示す。

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図5 幸福の自己相関性。幸福であれば幸福でない、幸福でなければ幸福である。という最終目的に固有の自己相関性が幸福の一つの定義をあたえる。
 他方、図4の供給係数(dS/dU)は、一単位の効用を得るために必要な供給(充足率)の変化を示すのだが、それを欲Gと置いても、G=exp(U)となり、GとUとは相反的にならない。つまり、欲に従って、より多く獲得することを最終目的にし始めると、限度のない欲の増大が必要になる事を示している。これは最終目的の別の特徴である発散性の原理を示している。
 以上のように、同じベルヌーイの式から出発しても、最終目的すなわち、従属変数を幸福と置いて自己相関的な幸福に収束するか、それを欲と置いて破滅的に発散するかの違いに至るのである。
欲を堂々と目的に置く社会が持続不可能であり、発散的なのは当然のことなのであり、持続可能な社会は、自己相関的な幸福を目標とすることによって達成できるのである。つまり、欲は目的でなくて、幸福を達成する手段として見るべきであり、そのために利用すべきものなのである。

7.むすび 
 
エントロピーとか、限界効用とか、難しい屁理屈を理解しなくても、持続的社会を実現するには「良いものは高価であるが、長い目でみれば経済的である」という知恵の一言で実は十分なのであり、それを実行するのが先述のエネルギー料金の大幅値上げである。
エネルギーが手に入り難く、大切に使わねばならない事は人間が幸福に生き続けていくために自然が課した素晴らしい条件である。もしエネルギーが使いたい放題であるならば、人類はより幸福になるどころか仕事を失い、頽廃の中に、せっかく人間に与えられた幸せを得る可能性を捨て去り、ついには生き続けることさえ危うくするのだと理解しなければならない。
端的に言えば楽しい事ばかりの世の中が一番不幸なのである。節約を最大の資源と見て、エネルギーをつましく使い、仕事の苦しさに耐えて生き続ける社会こそ人間の本性に沿っており、自己相関性に基づく持続可能で幸福な社会なのである。

参考文献
1) 「自然界のエネルギー貯蔵とそれを人類の利益のために利用すること」R.Clausius (1896), 河宮信郎訳「中京大学教養論叢」第29巻、第3号 (1988) 197。
2) 「自然学」アリストテレス全集3、出隆訳、岩波書店、302、原著252b。「ソクラテス以前の哲学者」広川洋一、講談社文庫(1997)319。
3) 「孟子(上)」小林勝人訳、岩波文庫(1968) 139.
4) 「荀子(下)」金谷治訳、岩波文庫(1962)189.
5) 「列子(下)楊朱七・十一」小林勝人訳、岩波文庫、134。
6) 「An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations」Adam Smith (1776):「国富論」杉山忠平訳、岩波文庫(2000)303-304。
7) 「人間生活とエネルギー」押田勇雄、岩波新書(1985)188-190。
8) 「Elements of Psychophysics vol.1」G.Fechner, Translated by H.E.Adler, Henry Holt Edition in Psychology (1966) 197。
9) 「Exposition of a New Theory on the Measurement of Risk : Specimen Theoriae Novae de Mensura Sortis」Daniel Bernoulli, translated by L.Sommer, ECOMOMETRICA, vol.22, No.1(1954) 22-36。
10) 「数学的限界効用説の基礎理論」北川時治、西谷敬文堂(1955):文献9)の訳と解説。
11) 「Utilitarianism」John Stuart Mill, G.Routledge and Sons (1863) Chapter 2, 13。
12) 「最大多数の最大幸福」新宮秀夫、開発技術、第8号(2002)67-73。
13) 「Essay in Economic Sociology」Max Weber, edited by R.Swedberg, Princeton Univ. Press (1999) 249-260。
14) 「Human Action: A Treatise on Economics」L.von Mises,Part1,Chapt. 7, www.mises.org/humanaction.asp。
15) 「限界効用学説史」ア・アモン、楠井隆三訳。日本評論社(1932)。
16) 「環境税とは何か」石 弘光、岩波新書(1999)80-83。
17) 「Reasons and Persons」Derek Parfit, Clarendon Oxford (1984) 480-486.。「理由と人格」森村進訳、勁草書房(1998)648-658。
18) 「黄金律と技術の倫理」新宮秀夫、開発技術学会叢書(2001)84-90。
19) 「幸福ということ」新宮秀夫、NHKブックス(1998)。
20) 「節約は最大の資源である」新宮秀夫、日本学術会議主催、第43回原子力総合シンポジウム講演論文集(2005)71-76。電気評論(2006)3号 掲載予定。.
21) 「幸福について-人生論」ショーペンハウエル、橋本文夫訳、新潮社(1958)29。
22) 「パルメニデス」プラトン全集4、田中美知太郎訳、岩波書店(1975)84-85。
23) 「神を観ることについて」ニコラウス・クザーヌス、八巻和彦訳、岩波文庫(2001)56-60。
24) 「玄語」三浦梅園:日本思想大系41、島田虔次校註、岩波書店(1982)19。「三浦梅園自然哲学論集」尾形純男、島田虔次、編注訳、岩波文庫(1998)30。

エネルギー・資源(エネルギー・資源学会誌) 2006年 3月号(第2号) 掲載


Written by Shingu : 2006年01月21日 11:57

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