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宗教・哲学・科学および人間本性から見た地球環境保全

“開発技術”Vol.12、2006年 7月発行

宗教・哲学・科学および人間本性から見た地球環境保全
―政府・地方自治体・民間人の行動に要請されること―

新宮秀夫*、  バーバラ・サンベルグ・ブドー**

要約(本文は英語です。Englishのページに掲載してあります。)
今は丁度田植えの時期である。ほんの一昔前であれば苗が植えられ、水の張られた田んぼの横を通れば蛙の大合唱でうるさくて困ったはずであった。農薬を使って省力化が進んでいる現在の田んぼには、小魚も蛙もほとんどいない、用水路の底にいやほどいたタニシも探しても見つからない。静まり返った田んぼは昔を知る者にとっては薄気味悪い気さえする。
IPCC(気候変動に関する政府間パネル)という国際的な組織が作られて、人間の社会活動が果たしてどれほど地球環境に影響を与えているのか、いないのか科学的に検討がなされ、その結果を各国の政府が各種の環境変化防止の基準として用いようとしている。しかしデータの蓄積は大変重要ではあるが、気象変化の原因が果たして何に起因するのかは、データの解釈の仕方により因果関係を明確に示すことは大変難しくて、今まで通りの社会活動を続けることの言い訳をデータの中に見つけることは容易である。データの細かい数字を見て水掛け論で争うよりも、先ず我々にとっては、田んぼに蛙が戻ってくることが安心に思える。
田んぼから蛙を追い出しておいて、わずかの水溜りを人工的に作り、水くさを植えて魚を放し、ビオトープなどど称して子どもたちに見せる社会が、生物の一種類としての人間にとって、果たして種の保存(つまり将来世代の幸せ)にとって健全といえるだろうか?
地球環境保存、という目的に対して書かれる多くの文章は、エネルギー大量消費にともなう地球環境の悪化を技術によって防止する方策であったり、政治的な規制を“経済活動を損なわない” 条件の下でいかに実施するかの提案であったりする。
人類の将来にかかわる大切な問題を考えるには、しかし、人類が今まで如何に生きて、文化を築いて来たのかを振り返り、我々の祖先が生きるために大切にしてきた、人間が人間として活動する精神的、物質的な場である、宗教・哲学・科学、について、それがおのおのどのような役割りをもって、如何なる理由で人類の生き方に今も深くかかわるべきなのかを振り返ることが先ず重要である。

本稿の目的は、そのような与えられた舞台設定の下で実際に活動する人間の本性を理解した上で、社会を動かす、政府、地方行政、民間団体や個人、にとって最重要とすべき行動の指針を考えようとするものである。本文は4部からなっており、それらの内容は次の通りである。

第1部:宗教、哲学、科学
宗教について。森羅万象の創造、あるいは存在の第一原因、であるのが神様である、というのが宗教というものであろう。しかし、神様はすべてのものの運命を司るけれども、人間の運・不運、幸・不幸の“責任”は人間の側にあって神様に責任はない、というのが宗教の宗教たるところでもある。つまり、環境問題についても神頼みをせず我々が行動をしなければならない。
哲学について。哲学は自然の原理はこうである、という前提なしに、自然とは、世界とは、を考えるもの。つまり我々が“当たり前”でないことは認めない、という前提で普段暮らしている所で“当たり前”とは何の事でしょうか?と問うのが哲学というものだろう。しかし、前提なしに考えるという、そのことが既に前提なので、哲学は自己矛盾的(パラドックスに満ちた)学問である。アリストテレスに言わせると“そのような元の元の元・・・を考える学問は“何の役にも立たないが、すべての学問の中で最も高貴である”そうである。つまり、発展、利益、効率、というような言葉つまり“役に立つ”ことが、現在の社会では最も大切な事柄のように扱われているのは本末顛倒であり、それよりも、キリのない元の元を考えたりする“人類”という広い宇宙を探しても滅多に見つからない(ひょっとすると此処にしかいない?)生き物の生き方を何よりも優先すべきだと哲学は主張しているのかも知れない。
科学について。科学は経験に基づいて、“当たり前”の事を受け入れて、それを前提にいろいろ“役に立つ”事どもを築きあげ、科学を応用した技術により、人間が楽に暮らせるようにそれを利用するものである。人類が出来るだけ長く生き延びるためにはどうしたら良いか?という具体的、身近な問題に対して極めて的確な答えを科学は示してくれる。
我々の生活、生存はすべてエネルギーの利用によっているのだから、エネルギーの基本的性質は何かを科学の教えるところによって理解しておくことが従って最重要の事柄である。端的に言えばそれは、エネルギーは科学がいかに進歩しても、人間が作り出すことは不可能であり、エネルギーを利用すれば世の中に必ず元に戻れない変化を生み出す、というエネルギーの本質基づく行動指針、すなわち、エネルギー節約は最大の資源であり、節約、倹約が人間が末永く生きるための基本である、ということである。

結局、人間は生きていく上で、なにか“絶対”といえる拠りどころがないと不安になる。しかし絶対といえるものを見つけるのは本来不可能であるからこそ、それは絶対なのである。この難問をしのぐために三つの方策を人間はひねり出した、とみれば判りやすそうである。つまり、宗教はそれを神様にゲタをあずけてしまう、哲学はそれは何かを考え続けることで人間らしさを味わって誤魔化す、科学は適当なところにそれを設定して(絶対空間、絶対温度、相対論など) 実験で確かめたなどど称して、その範囲で生きる方便をいろいろ工夫する、ということなのである。

イブン・トウファイルというアラビアの哲学者の書いた、生きる者ハイイ・息子イブン・目覚めたる者のヤクザーンという物語に引用されている、トレドの詩人アル・ワカーシ(11世紀ころ)の詩の一節は、昔からこれらのことを人間が見通していたことを示している、

わたしは悩んでいるんです、なぜって人に判ってることは
たった二つ、それしか無いのですから・・・
真理はそれを手に入れることができない、
虚偽はそれを手にいれてもなんにもならない・・・


第2部:人間の本性
今の贅沢な浪費社会は、人類が出来るだけ長く生き延びる条件に反しているだけでなく、現在の社会そのものも退廃に向かい、人が幸福を求める目的にも反している。しかしながら、目先の利益を求める人間の“欲”の心は、中国の荀子の“人は生まれながらにして利を好むことあり、これに従う”という名文句に端的に示されている。もちろん、孟子のいうように、人の心は善である、という考えも正しいし、身を捨てて世のため人のために尽くす人は決して少なくない。けれども、一旦、社会の動きを決定する行動となるとそれを決めるのは“欲”である事は歴史上、繰り返し証明済みである。環境問題を論ずるに当って、我々はこの点を直視して、人の善意に基づく行動はそれを尊重はしても、決してそれに頼らず、人も最もいやしい、しかし活力ある本性である“欲”を利用して、好ましい結果に向かい方策を考えるべきである。

第3部:政府、地方行政、個人の行動に求められる最優先課題
政府の最優先課題。選挙で選ばれるためには、国民の目先の利益に迎合するのが近道であるから、国家百年の計、をいかに国民の目先の利益と合致させるかを考えることを基本戦略にすべきである。
節約が儲かる、というほどのエネルギー料金の大幅値上げを断行できるような、下地を作らなければならない。今の贅沢な消費社会の存続よりも、節約は最大の資源である、という規範が貴ばれる風潮はむしろ多くの国民が望んでいることでもある。
地方行政の最優先課題。日本全体が東京、大阪になって、同じファッション、同じアミューズメントを求める、という流れを止めるのが良いのではないか?地方の環境、文化は一旦失われれば、元に戻ることは不可能である。だからといって、保存会、などで保存するのではなくて実際の生活の中にこれば存続しなければ意味がない。現在のような安価なエネルギー供給が何時までも続くという前提に立った地方社会の構築には用心が肝要である。
個人行動の優先課題。海外旅行に年間一千万人以上行く、ということは異常事態である。それほど身近に楽しみの少ないことはむしろ悲劇ではないか?楽しい事ばかりがあることが幸福であるかのごときニュースメディアの煽動に惑わされて、安易な贅沢をフォアグラのように呑み込まされる自分を反省しなければならない。苦しみの無い所に楽しみは無いという格言を実感すれば、エネルギー料金が安くて浪費が続くことを見て、将来世代のことを考えて居ても立ってもいられない気分になるはずである。石油が一滴も取れない国でガゾリンが水より安いことが果たしてどんな結果を招くのか考えてみるのもいいかも知れない。

第4部:太陽エネルギーの大規模利用
我々は現在、化石燃料や原子力のエネルギーを大量に利用している。これらのエネルギー源は無限にあるもので無いことは当然たが、それよりも何れも地球環境に負担なしには利用できないのである。より負担の少ない利用法や、効率の良いエネルギー利用法を考えることも大切であるが、第一優先して考えるべきことは、太陽エネルギーの大幅利用である。太陽エネルギーは、地球上に注がれる光によって我々の手にはいるのであり、人間が現在利用しているエネルギーを十分まかなうに足る量があるけれども、広い範囲に光が濃度の薄い状態で注がれるので、集めるのが大変で実用にならない、というのが一般的常識になっている。
しかしながら、エネルギー料金が今の数倍になれば忽ち、事情は逆転する。実用にどれだけ近いかは端的に身近なモデルで考えてみることが出来る。
太陽エネルギーの量は一平方キロメートル(ほぼゴルフ場一箇所の広さ)当り、百万キロワット程度であり、これは大型の火力や原子力発電設備一基にほぼ相当する。日照時間を1日8時間、一年の半分は曇りで光が来ないとして、効率13%の太陽電池を使うとすると元の太陽エネルギーの約2%しか実用に供せないことになる。つまり従来の発電設備と同じ程度の電気を得るためには、ゴルフ場50箇所相当の広さに太陽電池を敷き詰めた設備を必要とする。
今日本には約2400箇所のゴルフ場があることがインターネットで検索すると判るが、そうなるともし同じ広さに太陽電池を敷けば、従来の発電所約50基に相当する電力が得られる。この数はほぼ現在稼動中の原子炉の数に等しい。ゴルフ場は国の政策でも何でもなくて民間の趣向に駆動されて自ずからこれほどの数出来たことを考えると、太陽電池による発電施設も国のエネルギー供給のメインの部分を占める程度に作ることが不可能ではないことが判る。地球環境問題を本当に真剣に取り上げて戦争に望むほどの覚悟をすれば、出来ることである。
さらに実感を得るために、太陽電池を一平方キロメートルの広さに敷き詰めれば、燃料を全く使わずに1日10万トン真水を海水淡水化により作れて、その太陽電池施設の償却が一バレル50ドルというレートの石油価格で、約10年という概念図を示した。

おわりに:
我々は最近は、発展、利益、効率というような言葉をいつも聞かされて、あたかもそれらが人間社会を幸福に導く規範となる有益なものだというコンセンサスがあるかのように耳を慣らされている。大学でさえ“役に立つ”研究が推奨されていて、しかも役に立つとはお金が儲かることだと堂々と認められている。発展にはかならず破壊がその裏にあり、誰かの利益は他の誰かの損失であり、効率とは何を目的に設定するかによりそれが大きくも小さくもなる。人類が将来も人間らしく長続きして生き延びるということを第一優先と見たときには、このような言葉が発せられる背景を読んで、それらを聞かされたら、中国の伝説上の人物、許由のように、川の流れで耳を洗うことが必要であろう。

Written by Shingu : 2006年05月15日 17:43

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