技術の進歩と人間の幸せ
教授 新宮 秀夫
1.はじめに:大それた話
孔子の弟子の子貢(しこう)という人がある時、畑仕事をしている老人に会った。深い井戸の底まで降りては甕一杯の水を抱えて出て来ると、その水を畑にかけているのだった。子貢は、「桿 (こう:はねつるべ)という装置を使えば一日に百畦(うね)も楽々と水をかけられますよ。」と話かけた。すると老人は、「そんな事は知っている。けれど、からくり(機械)を使う者は、必ず心にからくりを持つようになる。だから私は恥ずかしいので、そんなからくりは使いません。」と答えた。この"有機械者、必有機心"という有名な言葉が、今から2,300年ほど昔に書かれたとされる中国の古典『荘子(天地編)』に見える。
(はねつるべ)(出典)http://hakutsuru.topica.ne.jp/bunka/dogu10.html
我々技術、工学に携わる者達は、少しでも便利、少しでも経済的な"からくり"を考え出す事に精を出している日常なのだけれども、こんなやり方に二千年以上も昔にすでに疑問が投げかけられている事は、少し恐ろしい気がしないだろうか。世の中はどんどん便利になり豊かになって来ているけれども、果たして我々はその分、幸せになって来ているだろうか、と省みると、この荘子に見える話の重みが判ってくるようだ。
けれども、すごい勢いで発展する技術や経済活動を止め事ができるのだろうか?我々は日常はそんな事を考えないで目先の仕事に追われているけれども、誰しも心の奥ではこれで良いと思っているわけでもなさそうだ。しかも、二千年昔と今との大きな差は、そんな事を考えなくても、"何とかなる"時代は終わって、それを考えないと"どうしようもない"時代に入って来つつある事なのだ。具体的にそれは、人口の急増であり、環境問題の深刻化だ。
今の調子で人間社会の経済活動を発展し続ければ、環境問題は人類の存続をも危うくするであろうとは誰しも、身の回りのゴミの量を見ても、酸性雨で木々が枯れるのを見ても、南極上空のオゾンホールの拡大状況を写真で見ても、大気中のCO2濃度の経年変化の急上昇を知らされても、何となく推量できる。そこで、重要なキーポイントは、こんな環境問題を単に技術上の問題と捕えて、技術によってこれを克服できれば、今のままの経済活動の発展を続ける事が可能なのだろうか、という疑問だ。
どうしたら良いのか、考えようとするならば、物事の根本を一度考え直して見なければならないだろう。つまり、一体我々は誰で、この世は一体どこなのか、どこへ行こうとしているのか?(Who are we? Where are we? Where are we going?)と言った、とんでもない事を考えなければ、今後何千年と続く(ことを願っているとして)我々人類の行く末までの幸せを考える事はできない。
そんな事は誰か偉い哲学者なんかが考えてくれているだろう、と何となく我々は思ってきたわけだけれども、哲学者達の言葉は難しすぎて我々には判りにくいし、何よりも、工学的な具体策を示してくれるような話は聞かせてもらえない。そこで、少なからず稚拙ではあっても、工学的見地で、そんな"大それた"事も考えてみたくなるわけだ。
2. 万物は数、万物はエネルギー
まず、世の中すべての"あるもの"について見ると、それらは人の考えの中にだけあって形のないものと、手で触れたり、目で見たり、匂いを嗅いだり、音に聞いたりする事のできる形のあるものとに分けられる。考えの中だけにあるものは、形而上(けいじじょう)のもの、形のあるものは形而下(けいじか)のものと呼ばれる。最近の言葉を無理に使うならば、ソフトウェァとハードウェアと言えるだろう。つまり、コンピュータのプログラムは考えの中だけのもので、何も"実体"はないので形而上のものだけれど、そのプログラムに従って実際に動くパソコンそのものは、物体、すなわち形而下のものだ。
ところで、ギリシアの哲学者ピタゴラス(BC500年頃の人)は、"万物は数だ"という意味の事を主張したらしい。何だかとんでもない考えの飛躍で、とてもついて行けそうにないと思えるけれど、同じような思想が同時代、あるいはそれより古くに中国で発生している。それは、『易経(えききょう)』という古典に書かれている概念で、世の中のすべての事を陰と陽で示す事ができるという考えだ。陰は- -という記号、陽は―という記号で表わすのが易のやり方だ。当るも八卦当らぬも八卦と我々が日常使う八卦は、実はこの記号を3つ組み合わせて出来る8種類の基本記号の事を言っている。それらは、
で表わされているけれど、これらの一つ一つをまた同じように八卦に分けると、8×8=64卦が生ずる、という風に卦が増えて、その一つ一つに占(うらない)の辞(じ)が当てはめられてゆく。つまり、森羅万象はこの基本の八卦の積み重ね、交配で記述できる事になっている。
中国語は何を書くにも漢字ばかりで、何千、何万という漢字を使って文章を今でも書いている世界に類の無いすごい言語だけれども、その中国で、2、500年以上前に、たった2つの記号ですべてを表現しようという方式が生まれた事は驚きだ。ちなみに、ヨーロッパでは17世紀末に2進法、すなわち、すべての数を0と1とで表記する方法が、ライプニッツによって発明された。今、我々はコンピュータは、0と1(或いはオンとオフ)の2種の信号ですべてのプログラムを処理している事を知っている。形而上の事はすべて言葉で表せるすれば、ピタゴラスの言った事や、易に示された陰と陽ですべてを表記する、"万物は数である"という見方は納得できそうでもある。
すると、今度は形而下のものはどうだろう。我々の感ずる事のできるものは、光、音、熱、物体、すべてはエネルギーである事を物理学は教えている。それでは、一体エネルギーとは何なのだろう。何しろ我々の身体そのものもエネルギーなのであり、食べるごはんも、運動する事も、嬉しい!幸せ!と感ずる脳も、それが物質であるわけだから、エネルギーなのだという事になる。もちろん、そんなエネルギーが何なのかを説明するとなると、それは形而上の問題となるので、すぐに理解はできないけれども、我々はエネルギーの持つ性質、その変化の仕方のルールについて、エネルギー学(熱力学)の教える所を知っている。それらは、熱力学の3法則と呼ばれるもので、
①エネルギー保存
②エントロピー増大
③絶対零度でエントロピーは零
と要約して表現できる。少々判りにくい話だけれども、ざっと説明しよう。①は、エネルギーは、位置エネルギー(ダムに溜まった水)が、運動エネルギー(落下する水)に変わり、それが電気エネルギー(発電)になり、それが熱エネルギー(暖房)になるという変化をしてもその量に変化は無い事を示している。つまり、エネルギーは増えも減りもしないものなのだ。②は、我々が変化と呼ぶ世の中の事象はすべてエントロピーが増大したという現象である事を、そしてエントロピーはどんな場合にも増大(全体として)するだけで、減少する事は無い事を示している。これは又、一旦起こった事は元に戻れないという事、すべての事は一回こっきりで同じ事が二度起きる事は(似たような事はあっても)無いという宇宙における不可逆性のルールを示している。③は、少々専門的だけれども、通常我々がエネルギーやエントロピーが増えた、減ったと問題にしているのは、お金の貸し借りのようなもので、その時々のプラス、マイナスが問題で、全財産の多少は問題としない事に似ている。ところが、もちろん時によっては、エネルギー、エントロピーの総量が問題となる事もあって、その時の基準は、絶対温度零度(-273℃)の時の状態から計算する事が必要である。と、まず、こんな事を述べている法則と言える。
さて、これで形而上、形而下の万物が数(記号)とエネルギーだと判った事にして、次に進みたいけれども、少し引っ掛かるものが無いでは無い。それは、その他に人間の心、みたいな、言葉では言い表せないようなもの、とか、神様の事とかだろう。それも形而上の事だろうけれども、形而上という言葉そのものが実は先述の易の説明の中に“形而上者謂之道(形而上とは道の事だ)”とあって、道とは何なのか、すぐには説明できないようなものなのだ。大隕石が地球に衝突して人類が絶滅しても、形而下のエネルギーは厳然として宇宙に存在するだろう。また、1+1=2というルールは、物ではないという点で形而上の事だけれども、それは人類が居なくても宇宙に存在しそうだ。けれども、"星が美しい"というような概念は人類と共に滅びるのだろう。哲学的な論議に入り込んでは終わりが来そうにないので、ここでは、心や神様も形而上の万物に入れて(仮に)おいて、話を進める事にする。
3. 技術の危険性とその原因 忘却の忘却
形而上のものは数、形而下のものはエネルギーという事で納得した事にして、先ず、その形而下の物事を上手に利用する手段としての技術に潜む危険性について考えてみよう。なぜ、この文の冒頭にふれた『荘子』に書かれた話が何千年を隔てた現在にまで、語り継がれて来たのだろう。一言でそれを言うならば、それは技術の目的の忘却に対する戒め"だろう。1950年前後に、ドイツの哲学者ハイデッガーは“技術への問い”に関連する一連の講演を行っている。大哲学者の考えだから、その意味するところはもちろん、深遠で我々素人の勝手な解釈は少々はばかられるけれども、素直に言ってそれは先の『荘子』にある話と極めて近い内容のように思える。ハイデッガーは“有の忘却の忘却”が世界と人間とにとって最も危険な事だと言う。哲学者の辻村公一はこれを"治にいて乱を忘れる事"(易経、繋辞上伝)だと解説している。
技術の目的とは何かというと答は簡単で、それはより良い社会、より良い生活を達成する事に違いなかろう。我々人類は、より良い生活を求めて、車を作り、飛行機を作り、コンピュータを作り、抗生物質を作り、農薬を作って来た。そのおかげで、食物、衣服は豊かになり、病気になっても治るようになってきた。けれども、果たしてどれだけ我々は昔に比較して幸せになっただろうか?自然の美しい環境、人と人の繋がりなど失ってしまったものも多い。また、そんな豊かさ、便利さを享受している事は、正直に言って、"早い者勝ちの掴み取り" のような勝手な行動でもあるのだ。“アメリカやヨーロッパ、日本等の国々の人々が、過去に営々と働いたおかげで豊かに暮らしているのだ”という自慢ももちろんある意味では正しいけれども、エネルギー消費だけを考えてみても、世界中の人々が今のアメリカや日本のような生活を実行する事は、資源、環境の面から破滅的な結末をもたらす事は誰しも判っている事なのだ。
先述のエネルギー学の第2法則、エントロピー増大の原理の教える所は、エントロピーの小さい状態、すなわち、食料が豊かで、綺麗で、整ったコミュニティー、すなわち、"住み良い"社会を作るためには、その何倍ものエントロピー増大、すなわち、不便さ、汚さ、不足をどこかに作り出さなければならないという事を述べているのだ。
石油、石炭、原子力を使って便利な生活をしている代償として、CO2、放射性廃棄物が増えるけれども、その手当を考えるより先に、もっとエネルギーを作ろうという技術を優先したがるところが人間の本性のようだ。つまり、そのような困った事柄(エントロピーの増大)からは顔を背けて、まるでそれを無かった事にして、エネルギー利用の便利さだけを、享受できるかの如き錯覚を持ちたがっているような、人間とはそんな生き物であるように思える。
ハイデッガーの指摘は、とても厳しく、人間がそんな錯覚を“持ちたがっている間”すなわち、技術の危険性を一時の方便として意識して忘れようとしている間は、まだましだけれども、その次には方便として忘れようとした事をも忘れてしまう事態がすぐに起こるのだと言っている。つまり、人問の本性の中には“今は仮にこうしておきましょう”と言って行動を起こしても、ほんの少し時間が経つと、“仮に”という部分を忘れてあたかも“本来”その行動が正しいのだと(思ってしまう所があるのだ。これが“忘却の忘却”だろう。
技術を進歩させる事が、人間の幸せのためである事を忘れて、まるで目先の技術の進歩そのものが崇高な人間の努力目標であるかのように受け取って、その技術の長期的な安全性などに無関心で来たのが、今までの我々のやり方だったわけだ。技術についてのみならず、経済についても、人間の本性に潜む危険性は随所に現れて来ている。今のような社会システム、経済システムでは、常に景気の良い状態を持続するのは不可能な事は自明であるのに、その事には目を向けず(根本的問題を忘れて)、目先の"景気浮上"に走り回ろうとする事もやはり“忘却の忘却”ではなかろうか。もちろん、そこに潜む危険性は、技術の問題と同一なのだ。
結局あっさりと言うなら、技術にしろ、経済にしろ、何のためにやっているのかを忘れて、目先の利便性とか、目先の儲けとかを目指して、とにかく何の疑問もなく、やる事だけが大切になってしまっているという事のようだ。そうなると、先の易の卦の数が8×8×8…というように、幾らでも大きな数に増えた場合のように、止めどなく発展、拡大して、取り返しがつかなくなる危険性が生じてしまう。という事なのだ。
そうなるのは、人問の本性なのだから、止める事はできない、なるようにしかならないと諦めるしかないのかもしれない。けれども、"考える"という人間の能力を発揮して何とか抜け道を考えてみたい気もする。そのためには、まず“何のために”という事、すなわち、我々の求める幸福とは実はどんなものなのか、という形而上の問題を良く考えてみる事が必要となる。
4. 人と社会の目的としての幸福; 感動は前進、満足は後退
人の幸福感というものは千差万別で人間の数だけ異なった幸福感がある。と言われると、それは正しいように思える。けれどもそのような幸福感の共通の基本となるものを見出す
事は可能なはずだ。これは地球上に生きる50億人の人間は皆異なった人問だけれども、又、すべてが人という種としての共通点を持っている、という事と同じだ。今生きている人々の幸福感を調べるだけではなくて、歴史始まって以来の人々が様々な状況の中で感じてきた幸福感を調べる事も、人間共通の幸福感を知る上では大切な事だ。
幸福の四階建ての家、[参考文献8より]
そのようにして調べた結果によれば、人間の幸福は、豊か、ゆとり、安心そのもの、の中にあるのでは無さそうだ、というちょっと意外な、けれども少し考えると、なる程、と思う答が出てくる。そのような見方を端的に表す"感動は前進、満足は後退"という言葉がある。つまり人は、豊か、ゆとり、安心を得て"満足"する事を願って行動するけれども、果たして満足した状態が幸福なのかと考えると、そうだと断言できない気持になるだろう。何事によらず達成された状態というのは困った状態でもあるのだ。易経の始めにある「亢龍有悔(こうりゅうくいあり)」という交辞(こうじ)は、何事によらず、達成された時は反って良くないのだ、と解釈されるようだけれども、なる程という感覚は誰しも判るだろう。
幸福は目的を達した時ではなくて達成にむかって頑張っている状態の中にあるのでは無かろうか、という見方をもう一歩進めると、そんな努力の必要な状態、緊張の必要な状態、すなわち、精神的なストレスの大きい状態の時にむしろ幸福があるのだと見えてきそうだ。精神的なストレスが、幸福感には不可欠であるという見方は、肉体的なストレスの場合からも類推できる。我々はいつも立っているより座っている方が楽で、寝ていればもっと楽だ。つまり、少しでも筋肉に掛る力すなわちストレスが小さい状態、楽な姿勢を取りたい、といつでも願っている。けれども、常にそんなストレスの無くなった状態でいれば、すぐに体がナマってしまい、たいへん不健康なアンハッピーな状態になる事を我々は良く知っている。宇宙の無重力の中で宇宙飛行士が数ヶ月も暮らすと、とり返しのつかないダメージが筋肉や骨に現れるという事だ。
精神的ストレスの大きい状態はどんな時かと考えてみると、例えば、それは大きな感動を体験する時がそうだ。人はどのような時に感動するだろうか? 大きな喜び、願いがかなった時には、感動する。けれども、深い悲しみ、強い苦しみの中にも、実はより大きな感動がある事は少し考えてみると判るように思えないだろうか? 人聞誰しも進んで、悲しみ、苦しみを求めはしないけれども、我々は誰しも運命によって今の瞬間にもそのような状況に投げ込まれる可能性はある。“不運”にもそうなった人は果たして必ず“不幸”だろうか?
ここまで話が進むと、すぐには理解できそうにないけれども、古来書かれてきた数多くの書物には深い悲しみ、苦しみの中に幸福があると結論しているし、人間の真のすばらしさは、そのような、すぐには理解できない幸福感を持ち得る所にある。と、ぼんやりとでも思えれば何となく有難い気もする。
そのような見方をすると、冒頭にも述べた"はねつるべ"という機械(技術)を使わない幸せが何であるのかも少し判る気がしてくる。と言っても、"はねつるべ"があればそれを使わないでいる人は今の世の中にはいないだろう。しかし少なくとも、技術の目的は目先の利便性の改善、というものだけでは無いのだという事を"忘却"するべきでない事は判っていたい。
5. 我々はどこへ行くのか? 戦争をする覚悟が必要
人間の本性に立ち返って、人が幸福な社会を考えるとすると、孟子、旬子(じゅんし)の考えた性善説、性悪説を考え直してみなければならなくなる。これはもちろんどちらが正しいかという事ではなくて、性善か性悪かどちらの性質が世の中の動きに大きく作用するかという問題だ。歴史を振り返れば、世の動きは必ず、目先の利にこだわる人々(すなわち人の性悪面)の行動によって動かされてきている。その典型的な例が、アダム・スミスの自由放任(レッセフェール:laissez faire)の経済学だ。自分の利益のみを考えて行動する時に人は能力を十二分に発揮するのだから、皆にやりたい放題させなさい、そうすれば、その力の結集は"見えざる手"によって自ずと社会を良くする(富む)方向に向かいますよ。というのがその内容だけれども、確かに人が自分の利益のために行動する時のパワーはすごいものだ。それは、前述の人間の本能に根ざしているのだから止めようも無いと言えるのかも知れない。そういう時には人々は技術も経済も危険性など少しも考えずに、"忘却の忘却"の境地に人って平気でいる事になる。実は、それは人間の幸福に反する行動となってしまっているのだけれども、人間の動物的本能は大所高所(たいしょこうしょ)に立って幸福に合致した行動を取るようには仕組まれていないようだ。
そこで何とかする方法としては、人が自分の利益になると思って行動する、その行動が自然に、人の本当の幸福に繋がるように、社会の運営の方法を考え直す事が必要となる。車に乗らない事が利益になるならば、車に乗る人は減るに決まっている。ガソリンの値段が10倍になれば、車による無駄な移動はほとんど無くなるだろう。そうなればCO2の排出削減など容易な事だ。そんな夢のような非現実的な事を言ってどうなる、とほとんどの人は馬鹿にするかも知れない。けれども、車がもっと売れないといけない、景気はもっと良くしよう、という止まる所の無い“豊かさ”指向の行き着く先は破局(地球の自然環境のみならず、人心の荒廃も含めて)しかない事をよく考えれば、どちらの意見が夢で、非現実的なのかが判るだろう。
問題は、そのような物質的に“豊か”でない社会が“不幸”な社会なのか、という事だ。すでに考察したように、人間の幸福は“豊かで満足”という状態では無いのだから、何も恐れる事はないのだ。
そんな社会の運営の仕方に切り換える事は、もちろん容易な事では無い。それは、ほとんど戦争を始めるに等しい覚悟のいる事だ。CO2排出量6%削減などと、ほとんどゴマ化し程度の事を決めて、しかも、排出権を他の国から金で買うなどという、それこそ夢の中のおとぎ話のような話が現実にまかり通っているのは、いかにも目先の利益以外の事を考えない、人間の性悪面がムキ出しになっているとしか言いようが無い。けれども、その力はどうしようもない程に強いものなのだから、これに対抗するには、もっと大幅な削減が“儲かる”ように仕組むよりしかたが無い。たとえその時に今よりも物質的に豊かでなく、より不便な社会になったとしても、それだけ“不幸”になるのでは決してない事だと、はっきり言える。技術の真の進歩とは、そのような社会をいかにして支えていく事ができるのか、という問題にチャレンジする技術の事だろう。それは戦争なのだから、必死の努力が必要となろう。それこそ、皆にストレスを与え感動の幸福をもたらしてくれるはずだ。
世界を見渡すと、あちらでも、こちらでも戦争だらけだ。日本だけが安寧をむさぼっていられるだろうか? まだまだ使える貴重な品物も、建物もどんどん捨てなければならない社会を押し進めて、人心が荒廃しない事があるだろうか? ミサイルを撃ち合う戦争が始まる前に、そろそろエネルギー環境問題の根本的な解決を目指す戦争を始める覚悟をする時ではないだろうか?
1.「荘子」:荘子、金谷 治 訳注、岩波文庫
2.「形而上学(上)、(下)」:アリストテレス、出 隆 訳、岩波文庫
3.「易経(上)、(下)」:高田真治、後藤基巳 訳、岩波文庫
4.「新版 中国の思想」:竹内実、NHKブックス、851号、 (1999)
5.「周易基礎」:楊維増、何潔泳、花城出版(1996)
6.「技術へのハイデッガーの問い」:辻村公一、日本学士院紀要、第51巻 第1号、(1996)
7.「明日のエネルギーと環境」:シンビオ社会研究会編、 日本工業新聞社、(1998)
8.「幸福ということ」:新宮秀夫、NHKブックス、838号、(1998)
Written by Shingu : 2007年05月26日 17:05