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エネルギー利用の作法:Discretion in Energy Utilization

エネルギーフォーラム誌 2007年12月号134頁 掲載

はじめに

ご飯粒を足で踏んだら‘罰があたる’という社会通念が一昔まえにはあった。今は‘賞味期限’が厳格になってコンビニでもファーストフード店でも、売れ残りは‘処分’すなわち廃棄しなければならない。日本国では約3000万トンの食糧を輸入していながら1500万トン以上を廃棄する事態になっているらしいが、その多さを実感するために日本全国の米の収量を調べると、今年はほぼ平年並みで873万トンと予想されている。つまり、お百姓さんが一年間に作るお米の倍近くの食料をゴミにしているのがわが国の現状である。こんな‘罰あたり’なことをしてどうなるのだろうか?‘もったいない’という言葉がポピュラーになりつつあるがこれは‘罰が当たる’と対だから、後の方を心得ずに使われると今一つパンチに乏しい印象である。
‘もったいない’を忘れた今の贅沢な浪費社会を維持することは、エネルギーが安価に大量に供給されなければ、不可能である。エネルギーの大量消費に支えられた産業革命以来の物質文明の発達は、人類の英知による科学技術の輝かしい成果であると我々は思って来た。しかし‘何ごとも良いことばかりあるわけには行かない’という自然の法則はエネルギーの利用について特にはっきりと認識しなければならない。
科学技術による便利で物質的に豊かな社会の構築はそれに付随して、従来考えなくて済んだ大気汚染や廃棄物処理その他の環境問題などの対策の必然性を生むのである。その対策もまた科学技術の利用でしのごう、という考えが現在の社会の動きであるが、これは原理的に言ってオレオレ詐欺と同じ事で、不具合解消のための技術もまた不具合を生じ、その手当てのための技術もまた・・・となるのである。
 罰が当たるという感覚に頼って、人類は今まで何万年という長い歴史を、生活に必ず付随する環境への悪影響を少しでも減らしながら生き延びて来た。それに代わって、理性、端的に科学信仰に、今後何万年にわたる頼り甲斐を見出そうとするのは本来あやまりなのであるが、切り替えを我々は急いであくせく暮らしている。人々はすこしでも豊かで便利な生活こそ幸福であると、メディアの扇動に惑わされてしまって、本当は、人は不足において活気が出て生き甲斐も生じ、満足において元気が衰えて不幸になるのだ、という一昔前には常識であった感覚を失いかけているのである。
本稿は、エネルギー利用法についての我々が守るべき基本を今一度考え直して見ようとするものである。すなわち、芸術でも技術でも本来あるべき姿というもの、言い替えれば作法に適ったやり方があると見て、それではエネルギーの利用の仕方にも作法というべきやり方があるのではないか?ということ、その作法とはどんな事かを考えるのである。


1.地球のエネルギー事情

1.1 太陽エネルギーの量と人類の使うエネルギーの量

作法を考える前に先ず、人間にとっての地球のエネルギー事情の概要を把握することが大切であるので、概算を数字で示すと。




100,000,000,000,000 (百兆)kW :(太陽から地表に常時貰うエネルギー)
10,000,000, 000 (百億)kW : (人類が常時消費しているエネルギー)
1,000,000 (百万)kW :(大型発電所の発電量)

kW : 毎秒1キロジュールのエネルギーの流れ
1kWのエネルギーを一年間使うと、石油1トンの消費にほぼ相当する

端的に言って、太陽から地球に来るエネルギーの一万分の一程度の量を化石燃料と原子力を使って人類は消費している。一万分の一といえば少ないように聞こえるが、それは太陽エネルギーの下で太古から形成されてきた地球環境に余分な負荷をかけるという意味では決して少ない量ではないのである。

1.2 太陽エネルギー収集量、お米と太陽電池

1㎡当たりの米の収量は年間約530グラム、米の持つエネルギーはグラム当たり4キロカロリー(17キロジュール)、として、約9000kJの太陽エネルギーを米は取り込む。これを一年間の秒数で割ると、一年平均のエネルギー収量として約0.3ワット/㎡が得られる。太陽光の量は約1kW/㎡であるから、米は太陽エネルギーの約0.03%を一年を通じて固定するとことが分る。一方太陽電池は、効率13%、一日平均日照時間4時間として、おなじ太陽光から、約20ワット/㎡を固定する。
この試算では太陽電池は米を作るよりおよそ60-70倍ほど効率よく太陽エネルギーを取り込むことになる。もちろん米は大切な食糧であるから効率云々するべきものではないけれども、最近たとえばトウモロコシなどや場合によっては米もバイオ燃料の原料にしようという動きがある。これはエネルギー収量だけの視点からは大変効率の悪い技術であることがわかる。
それでは太陽電池で火力あるいは原子力発電設備一基分、百万キロワットの出力を出そうとするとどれだけの面積が要るだろうか?一平米あたり20ワットという上記の値を使うと、一平方キロ(百万平米)で2万キロワットとして、約50平方キロとなる。ゴルフ場は18ホール1か所でおよそ一平方キロなので、ざっとゴルフ場50か所に太陽電池を敷き詰めれば百万キロワットとなる。ちなみに日本全国にゴルフ場は約2400か所あるらしいので、これ全部に相当する広さの太陽光発電設備を作れば、なんとか現在の日本の原子炉(50基)の発電量に近い電気を供給できる。
太陽エネルギーの量とそれをメジャーなエネルギー源として使うことの困難さと可能性を概観したので、次に化石燃料と原子力とによるエネルギーの浪費に依存する現在の社会あり方を改める工夫の一つとして環境税について考えてみよう。

2.環境税とエネルギー利用権取引

2.1 環境税の必要性

環境税は温暖化ガスの排出に関しておもに化石燃料の使用に関連して取り上げられている。では、原子力エネルギーは温暖化ガスを出さないので環境に絶対にやさしいか、というとそうではなくて、さし迫って使用済み燃料あるいは高レベル放射性廃棄物の処分場(保管場所と表現するのが適当だが、通称に従った)の問題を避けて通れない、これも確かに環境問題である。
余呉町や東洋町の記事を新聞で読むのはいかにもつらい。政府がお金を出して地方自治体が手を上げるのを待つという方式はどう見ても‘美しく’ない。お金で堂々と大人を釣る話は子供に説明できないのである。一方手を上げる町長も手を上げる限りは、地質調査の結果がOKと出たら処分場を引き受ける覚悟でなければおかしい。調査だけです、などと言うのは、お金だけ貰おうというずるい態度であって、これもまた子供に話せることではない。さらに、反対派の町長の態度もおかしい、廃棄物引き受け拒否を明言するなら、その哲学を明示しなければ反対の大義名分は立たない。自分の町には嫌だけれども他に行くなら結構、原子力発電した電気はバッチリ使わせて貰います。という話もやっぱり子供に話すことは出来ない。
公募に変えて「申し入れ」方式もこれから採用されるらしいが、申し入れ、という軟弱な態度でなく、原子力を国策とした限りは、命令でなければならない。国民がなにを選択するのか、という時点において、そこまで論議がなされているべきであったのだが、踏み切った限りは堂々と子供に説明できる筋を通すべきである。日本全国、東京都心を含めて、命令の可能性を了承したからこそ、原子力が国策となったのではないか?その政策を決めた国民(投票で政府を選んだ)には命令に服従する義務があるのである。
そして、原子炉の廃棄物の管理や炉そのものの閉鎖に伴う後処理などを子々孫々にまで文句を言われないように実行するには、莫大な費用が必要となるのだから、環境税はこれらに対しても温暖化ガス対策と同時に国民に対して課されるべきなのである。

2.2 世論調査の結果を考える

環境税についての興味ある意識調査結果を先日新聞で見た。地球温暖化などが具体化しつつある現状から、環境税に賛成する人が反対する人を上回ったというのである。くわしくみると、しかし、ひと月に千円以上負担が増えるのは困る、という内容である。要するに一般人は、千円程度月に払って、冷房、暖房は今まで通りエンジョイできると考えているのである。温暖化対策を真剣にやるなら、化石燃料の使用量はまず半分(1970年頃の使用量)に、次に又その半分というような決定的な決断が必要なのである。今の10分の1位にまで下げてようやく、自然の循環になんとかあわせて行けると見るのが、遠慮勝ちな見積りである。それを実現するには節約が儲かるように、環境税は今のエネルギー料金が10倍になるくらいに設定する覚悟が大切なのである。始めに書いたように、人は不足において活気がでて生き甲斐も生じ、満足において元気が衰えて不幸になるのだ、という原理によればそのような少ない(といっても公共の交通機関や最低限の暖房などは十分にまかなえる)エネルギー使用量にまで切り詰めることに問題はなにもない。メディアの取り上げ方一つである。
温暖化対策として原子力エネルギーを選ぶ人は5.5%しかいないが、その他の94.5%人たちは温暖化も嫌、原子力も嫌なら、エネルギー使用量を今の10分の1に切り詰めて、本物の不足の幸せをエンジョイする覚悟がなければならないのである。それも嫌なのであれば、自然エネルギーに徹底的に切り替える決断が必要になる。ダムはムダ、などと格好をつけている暇はないのであって、水力を可能な限り利用、風力も景観に目をつぶって山という山に風車、太陽光発電のパネルは全国のゴルフ場を潰して敷き詰める。ことをしなければならない。
ちなみに概算すると全国のゴルフ場の広さに太陽電池を敷きつめる費用はおよそ300兆円かかる。同じ量の電気は原子炉50基で作れるから、こちらは、1基5000億円として25兆円である。廃棄物最終処分場を押し付けられるのが嫌なら、それだけの金額を負担する覚悟がいるのである。日本国には公式の借金が既に800兆円以上あるそうだが、こうなったら毒を食らはば皿まで、と居直ってあと300兆円払うのも良いかもしれない。これなら子供に堂々と説明出来そうではないか?

2.3 戦争に臨む覚悟と、民間でのエネルギー利用権取引

要するに化石燃料にしろ、原子力にせよ、自然エネルギーにしがみつくにせよ、エネルギーの節約は必須である。贅沢することが幸せではなくて、不足において元気がでる人間の本性をよくわきまえて
「節約は最大の資源」という標語をまず頭に入れて大切にエネルギーを使う習慣を改めて社会通念にしなければならない。エネルギー・環境の問題は、サマータイムとかグリーン購入とか、免罪符のような小手先の工夫では抜本的な解決を望めない。それは上記の地球のエネルギー事情の概算からも明白である。今年5月に来日したアメリカの環境専門家、レスターブラウンの言葉を借りれば、環境対策は戦争に臨む覚悟を必要とするのである。「環境戦争」を戦う時の敵は我々自身であり戦うのも我々自身である(ブラウンの計算ではガソリンの値段は政府の補助や環境対策を計算に入れると実質現在の5倍以上して当然らしい)。
 節約を皆が競って実行するためにはエネルギー料金を10倍にするべきだ、とある会合で話したら、貧乏人は生活出来なくなるではないか、と質問された。これこそ待っていた質問である。電気料金を例にとると、全国民に一か月一人あたり50kWhまでは現在の20円/kWhくらいの低料金の権利を認めるのである。すると、節約して仮に月に10kWhしか消費しない人は、残りの40kWhをもっと電気の使いたい人に売れることになる。50kWhを超える料金を仮に1000円にしておけば、500円で売ったとして2万円の収入を得る可能性が出る。すなわち、エネルギー利用権取引である。これはホームレスの人に炊き出しをするより効果的な貧困対策ではないだろうか?取引を民間に任せれば、それで商売する人も出るはずである。

3.正法眼蔵にみる作法の真髄

曹洞宗の開祖道元(1200-1253)の著作「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう、仏の正しい教えの真髄)」には「洗浄」の巻、というセクションがある。その本文冒頭に、「仏祖の護持し来たれる修証(真実実践)あり。いはゆる、不染汚なり。」とある。それにつづいて、作法これ宗旨なり、という語句が書かれている。「不染汚(ふぜんわ、ふぜんな):汚さない」ことこそ仏祖すなわちお釈迦さま以来仏教が守ってきた作法すなわち宗旨であるとは、これを読んだ時の驚きは忘れられない。洗浄の巻には、そのあと続けて、便所(厠)の建て方、その使用法、身を拭う方法にいたるまでが事細かに指示されている。最後には、寺院を建立するに際しては第一に厠の位置から決めるべきであり厠がきちんと建てられなければ、いくら寺院を立派に作っても仏心を広めるには不適当である、とまで述べられている。
仏教では他にも、般若心経には宇宙のすべて(諸法)は、不生不滅、不汚不浄、不増不減、というように、汚れるということに対する鋭敏な感覚が根本問題として取り上げられているのである。
 お経だから信じるのではなく、世の中の自然の原理を注意深く観察した結果、エネルギーを利用するには‘汚すことが無ければ、浄化することもいらない’と見切っていると解する事ができるのではないだろうか?エネルギーの正しい使い方の根本(エネルギーの正法眼蔵:つまり作法)は、環境汚染を避けることである、とお経から学びたい。

Written by Shingu : 2007年12月25日 15:39

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