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摂取門(せっしゅもん)か 抑止門(おくしもん)か?

(丹南FM ラジマガ vol.8-2 原稿)

不思議なことは世の中に多いのですが、法事などでお坊様の読経を聴く時、拝聴している参列者は(実はお坊様も?)お経が何を説いているのか判っている人は、まずいません。何も分らん読経を聴くためになぜ人は集まるのでしょうね?コレ不思議です。けれども、また不思議なことにお経は聴くたびに有り難い気持ちになるので、それはそれで良いことだとは思いますが、技術者という因果な商売を長年やっていると、それで中味はなんやネン、という詮索(せんさく)をして見たくなるわけです。

阿弥陀如来の説かれた大切なお経のひとつに、観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)というのがあり、その中に、読経のときに省かれずに必ず唱えられる文句のひとつとして「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨 (こうみょうへんじょう じっぽうせかい ねんぶつしゅじょう せっしゅふしゃ)」という語句があります。

ようするに(技術者はいつも、要するに、と簡単にくくることをやっておりますので悪しからず)これは「阿弥陀如来の慈悲の光は世界をあまねく照らします、仏を念ずる(念仏を唱える)人々を如来は、たれもかれもみーんな受け入れ(摂取して)、一人もお見捨てになりません」という有り難い言葉であるわけでした。つまり浄土教では下品下生(げほんげしょう)の極悪人といえども、念仏を唱える者はすべて救われ浄土に入れてあげます。と説かれているのです。

しかし、これではいくらなんでも悪人に甘すぎる?ということで、人殺しなどする極悪人だけは念仏しても極楽に行けません、つまり極楽往生することを抑止するのだ、という一派が浄土教にもいて、この一派は抑止門(おくしもん)、と呼ばれているらしい。それに対抗する言葉として全員OKの、本来のお経をそのまま解釈する一派は摂取門(せっしゅもん)と呼ばれるらしいです。

いかにもありそうな話ではありませんか?悪い奴は許さん!という気持ちは仏教に帰依する人たちや、お坊様にもあって当然の気がするけれども、じゃあ摂取と抑止の境目をどこに置くのか、となると、これは当今の裁判所の判決が、アアだったりコウだったり、頼りない事態であるのと似た状況に容易に落ちこむであろうことは、これもごく容易に想像できます。

仏教の持つ印象としては、我々一般人からすると、キリスト教などのような事細かな戒律とか「味方でないものは敵である」というように厳しく細かく、信者と非信者を峻別したりはせず、まーエエわ、信じるなら信じなはい・・・といった、おおらかさが売り物のような気がします。となると、全員、過去を問わず救済!の、摂取門、でないと仏教らしくないようです。

親鸞上人のお言葉であるとされる悪人正機(あくにんしょうき)の説「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや:歎異抄 第三章」は何度聞いてもすごい言葉だと感服させられます。善人でさえ救われるのだから、悪人が救われないわけがないです。とは何と意表をつく言葉ではありませんか?これにはいろんな解釈がされているようですが、仏教の、おおらかさ、をよいことにして勝手な解釈をしても、まさか親鸞上人の意に逆らうことも、ましてやお釈迦様に叱られる心配もないでしょうから、ここで勝手な拡大解釈と応用とをしてみましょう。

まず、歎異抄の言葉を幸福について書き替えてみると「喜ぶ者さえ仕合せなのだから、悲しむ者はもちろん仕合せ」となります。つまり悪人正機説の仕合せ版です。しかしここにも、すべての悲しむ者が仕合せか?という当然の問いがすぐに出てきます。つまり救われる悲しみ、と、救われない悲しみ、があるか?ということになり、それは摂取門か抑止門か?という問題とおんなじではありませんか?

救われる悲しみ、とは、許すことの出来る悪に似て、本来の悲しみではない。お釈迦様ともあろうお方が、わざわざ小さな悪、小さな悲しみを、どうこうするために身を捨てて教えを広めようとされた、ということはありえないのであって、仏教が何千年も受けつがれて来たのは、悲しみの真髄、悪の根本を“なんとかできる”雰囲気があったからに違いありません。やはり仏教本来の教えとしてはここでも、摂取門すなわち、どんな悲しみもそれが仕合せであるはずです。なぜそうなのか、もう一歩すすんで考えて見ましょう。

ロバート・マルサスという人は「人口論」という有名な著書の最後に「悪がこの世にあるのは我々を失望させるためではなくて、活気づけるためである。あらゆる悪をなくすために、全力を注ぐことは我々の好む所であり、また義務でもある。」と書いています。一読すると、なにか矛盾しているように感じますが、少し考えればしごく当然のことを言っていることが分ります。

もし、世の中が善人ばかりで、悪人がいなければそれは“世の中”ではありません。そのような世界では皆がいつもニコニコして全員いつも仕合せだろうか?と想像してみれば、そうでないことはすぐに分かります。相撲でも野球でも、どんなスポーツも相手がいなければいつも優勝ですが、それはいつも最下位でもあります。これでは、スポーツのやり甲斐がないでしょう。

“世の中”とは正義を保つために身をささげる人を政治家にし、正義を守る人々が賞賛を集めながら動いて行くものですから、正義だけあって悪がない、ということはあり得ないわけです。プラスという概念はマイナスという概念なしには存在しないという原理と、これは同じことのようです。

おなじように、喜びだけあって、悲しみなし。という事態も“世の中”が世の中であるためには決してないわけです。その“世の中”は歴史を少し調べれば、結局、悪よりは善の方が勝っている、悪い事をする人は目立つけれども、殆どは善人であることが分ります。そして、悲しみにうちくれる人は皆の目にとまるけれども、総じて言えば喜ぶ人の方が多いようになっています。しかし、世の中はそのどちらもがあってこそ世の中なのではないでしょうか?

悪人であるよりは善人である方が、悲しいよりは喜んでいられる方が、ラッキーですがそれは単にラッキーであって、どちらが仕合せか?とは別のことのようです。人は自分の行動は自分の意思で決めている気でいるし、そうでなければ毎日頑張って生きていられないでしょう。けれども悪にそまるか、悲しみに見舞われるか、は、ほとんど運命で決まっているようです。

悲しみか喜びか、その一方にいることを仕合せだと感じることは勝手だけれども、本当は、仕合せはそのどちらにもあり、じつは、そうあることをより強く意識する悲しみの中に、喜びの中にはない仕合せがあるはずなのです(悲しみは深い、喜びは大きくてもしょせん、浅き夢みし酔ひもせす・・・ん?)。おなじように、運わるく悪におちいらねばならない人はおそらく、より強く救いを必要とするでしょう。

もう一度、摂取門と抑止門について考えてみましょう。すべての悪人を救う摂取門の言わんとするところは、勿論念仏を唱えさえすればOKで即救済するのだけれども、犯した罪をチャラにするのだとは親鸞上人もおっしゃっていないのです。摂取する、浄土に迎え入れる、往生する、というのは、本人の心が救われる、そして周りの人も救われるのだけれども、犯した罪は消えないからこそ、誰もそれを忘れないからこそ、救いも有効なのでしょう。だから人を殺した人は、もちろん自分の命を捨てないといけない。死刑廃止論というものがあり、罪を憎んで人を憎まず、と言われることがありますが、罪を犯さねばならない事情に不運にも陥った人は、自らも死をもって償う以外に救われる道はないのです。死刑廃止論はその、せっかくの救いの道を閉ざすわけですから、摂取門の間違った解釈をしているようです。

悲しみにくれる人は、救われない悲しみの中にあり他人がなぐさめることは出来ないのです。だからこそ、誰もが近寄れない崇高な人間性を示すことが出来るのであり、喜びの中にはない仕合せを得ることができるのではないでしょうか?旧約聖書、コヘレトの言葉「悲しみは笑いにまさる、なぜなら、悲しい顔は良い心をつくるからである」は、このことを表しているようです?

結局(?)摂取門は抑止門であり、抑止門は摂取門だったようです、なにが言いたかったのか分っていただけたでしょうか・・・・・??????

Written by Shingu : 2008年03月03日 12:49

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