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辻村公一先生と第一哲学

哲学者の辻村公一先生が去る5月28日に亡くなられた。一言、感慨をのべたい。他の分野同様に、哲学についても素人の厚かましさで、私はいつも書いたり言ったりしていながら実は、専門の先生の批判を恐れていた。         
そんな時に、ご高名の辻村先生のお宅が、エネカン会員で幼稚園から大学まで一緒の藤原信一君のお隣であることを知り、そのツテで、哲学とは何か、お話が聞きたい、と厚かましいお願いをしたところ、なんと、開設間もない北大路橋近くの以前のエネカン事務所までお出で下さって、延々3時間を越えて、ざっくばらんに、いろいろとご教示頂くことが出来た。忘れられないお教えの幾つかを、思いだすままに紹介し、更めて噛みしめて見たい。


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技術の危険性について。
どんな技術も必ず危険性を持つが、それを分かって、取りあえず利用している間はまだ良い。しかし、危険性への認識すなわち、“一旦横に置いた”事を忘れるのが人の常であり、それは“忘却の忘却”という事である。技術の危険性が牙をむくのはその時である。
この、ハイデガーが1950年はじめに行った連続講義「技術への問い」に書かれている“忘却の忘却”という言葉は先生に教わって以来何度も、折りに触れて書いたり、言ったりしている忘れられない一言である。


哲学はアリストテレスとカント。
 我々一般人でも、どちらも聞いたことはある名前だけれど、何を言ったか、書いたかを知っている人は稀である。他にも哲学者と言われてきた人は数多いから、素人が哲学について何かの印象を得るにはどうすれば良いだろうか、という、こちらの事情を察して言われたのだと思うが、ハッキリと先生は上記二人の名を言われた。
 これに発奮して、いろいろ読み始めてみると、特にアリストテレスという人が、私のような技術者から見てもすごい万能選手だったのだ、と心から驚いた次第である。
 アリストテレスの本は、200冊位もあったそうだが、その大半は何とか残っている。カバーする範囲が、文学、音楽、経済学、論理学、数学、物理学、哲学・・・そして幸福論の元祖でもある。そんな中で哲学に関して、先生がご指摘くださった、言葉を次にあげる。

第一哲学、が本来の哲学だ。
 我々は普段なにげなしに、人生哲学、とか処世の哲学、などと、哲学、という言葉を気軽に使う。先生はこれを否定はされなかったが、君、第一哲学、が本来の哲学でその他は、マア、哲学と呼びたければ、それも良いでしょう。とハッキリと言われた。
 となれば、当然、第一哲学、とはなんですか?と教えて欲しくなるが、それが実はアリストテレスの言葉で「形而上学:第六巻(1026a)アリストテレスのテキストは全てこのような記号で文章の位置が分かるようになっている」に書かれている。
 先生は、君、アリストテレスを読むならせめて英訳を読みたまえ、本来ならギリシャ語を読むと良いのだが・・・。とその時に言われた。どうも、日本語訳がお気に召していなかった様子だった。
 勿論、小生は先ず日本語の岩波文庫を読んで、なんと面白い文章だな、アリストテレスって親しみ易いなあ、と思えていたのだが、それ以来、エネカンの乏しいお金を投じたり、京都大学図書館を利用したりして、Loeb Classical Library、という英語・ギリシャ語の対訳本、を参照して、アリストテレスの真意(?)に近づこうとするはめになっている。
さて、第一哲学、だが、折角だから、形而上学:第六巻(1026a)に書かれている、その部分をここに写して、アリストテレスが横にいる気持ちになって味わってみよう。

: εἰ μὲν οὖν μὴ ἔστι τις ἑτέρα οὐσία παρὰ τὰς φύσει συνεστηκυίας, ἡ φυσικὴ ἂν εἴη πρώτη ἐπιστήμη: εἰ δ᾽ ἔστι τις οὐσία ἀκίνητος, αὕτη προτέρα καὶ φιλοσοφία πρώτη, καὶ καθόλου οὕτως ὅτι πρώτη: καὶ περὶ τοῦ ὄντος ᾗ ὂν ταύτης ἂν εἴη θεωρῆσαι, καὶ τί ἐστι καὶ τὰ ὑπάρχοντα ᾗ ὄν. (Aristotle, Metaphysics Book 6, 1026a)

Then if there is not some other substance besides those which are naturally composed, physics will be the primary science; but if there is a substance which is immutable, the science which studies this will be prior to physics, and will be primary philosophy, and universal in this sense, that it is primary. And it will be the province of this science to study Being qua Being; what it is, and what the attributes are which belong to it qua Being. 


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もし、自然の理に従って出来ているもの以外には何も無い、のであれば、物理学が第一の学問であろう。しかし、もし、全く不動の物事があるならば、それが先であり、それが第一哲学であり、第一であるからより一般的である。そして、それは、存在を存在として学ぶ事であり、それは何であるか、それに属するものは何か、を学ぶことである。
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和文は英文と、出隆(いでたかし、岩波文庫)の訳と(どちらを読んでも何かわかり難いので)を合わせて現代語風に解釈したものである。ギリシャ語を見る事が少しでも助けになると思った点は、ἀκίνητος (アキネトス)という単語が英語では、immutable、と訳されているが、アは反対を表す接頭語であり、キネトス、は英語のシネマ、などの語源であり“動く”という意味だと分かるので、動かない物事があれば、という意味を実感できた点でなどである。技術分野でも、動力学という単語はキネティックス、と訳されている。

いずれにせよ、世の中のことがすべて理詰めで解決するなら(自然科学であれ、社会科学であれ)哲学は不要である。それらの根本には人間が知ることのできない、絶対的な基準があるはずである、なんとなれば、すべての理屈は何か絶対的な基準が無ければ成り立たないことは明らかなのだから。そして、基準が何であるにせよ、その基準は何によって成り立つのか、を考えると、いくら考えても切りが無いことに気づく。辻村先生はあの時に、仏教の維摩経にある“維摩の沈黙、雷の如し”という言葉をチラリと話された。今、考えると、第一哲学の、お経による説明だったのだろうか?

絶対的基準は普段の論議には顔を出さないから、適当に理屈をつけて世をしのいで生きればよい。けれども、最も分からない事を考える人がいても良いではないか、そのような人は哲学者であり、つまり、第一哲学、を考える人なのであろう。

先生はエネカンでお話された時には、温顔で終始にこやかだった。しかし、聞くところによれば、哲学者の会では大変厳しくて、先生を恐れていた人も多かったらしい。“私は不肖の弟子でした”という哲学者にも何人か会ったことがある。不肖が少しも悪いとは思わないが、皆が恐れる存在は、第一哲学、というような、答えが決して得られない学問に関しては特に大切だったのだと想像できる。

謝礼も出せない貧乏エネカンの借部屋にご来駕たまわり、大先生が、長時間、素人相手に少しも馬鹿にせず、真髄を熱心に説いて下さったことは、やはり何か、不動のもの、が動いた結果だったような気が、今思い返すと感じられて来る。
なんの役にもたたないが最も高貴な学問である、第一哲学、を世の人がたまには意識して社会の動きを考えることを願って、辻村公一先生のご冥福を心より祈りたい。

Written by Shingu : 2010年09月25日 14:52

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