トップへ戻る

原発事故後の社会のあり方・「倹約と幸福」新書の紹介

 『倹約と幸福』 
―エネルギー・環境問題解への道― 
小学館新書(2010年2月出版)から抜萃
京都エネルギー環境研究協会(京都エネカン)新宮秀夫 


2011年3月11日に起こった福島原子力発電所の事故以来、多くの人が原発とは何かを始めて知り、また、事故の影響の大きさから脱原発が課題とされ始めています。

人の作った原子炉は必ず事故を起す。それが技術というものである事は自明ですが、では脱原発して、電気はどうするのか?という答え無しには如何なる論議も成り立ちません。
火力発電に頼れば、二酸化炭素を始めとする大気汚染が問題となり、これが原発以上の環境破壊を起こす可能性もあります。太陽エネルギーの量は十分にあるけれども、それを有効に電気エネルギーに変換する技術は普及していません。

そこで、改めて、元来我々人間社会の目的は何であったか、を問い直せば、電気が十分以上に供給される事自体が目的ではなくて、人間の幸福が目的のはずであった事に気がつきます。
世間では、技術の進歩のおかげで今、物質的な豊かさが実現しているかの如く言われていますが、とんでもない誤解であって、産業革命以来我々は本来使うべきでないエネルギーの掴みどりをする技を磨いて来たのです。技術がいくら進歩しても人は太陽のエネルギーを基本とした地球上での、つましい生活以上の利便性を見つける事は不可能なのです。

この厳しい条件は人類に対して自然が設定してくれた、生き続けることを可能にするための巧妙な工夫であることに我々は気づかねばなりません。もし、地球上に、エネルギーを始め、使いたい放題の資源があれば人類は幸福になるどころか、安易な生活の果てに退廃に陥り、すぐに滅びてしまうのです。

以上のような考えを世に問う目的で、2010年2月に出版した「倹約と幸福」でしたが、福島原発事故が起こり、エネルギー供給を中心とした社会の有り方が、問われる現在、改めて、多くの方々にご一読願いたいと思い、本書の一部を此処に抜萃して紹介いたします。

          *****************

はじめに―歴史は繰り返さない―

「大豆(まめ)一粒の光り堂」という小話が西鶴の日本永代蔵、巻の三、にある。かわばたの九介、という貧農が、節分の豆まきのあと、煎ってあるはずの豆一粒を、溝川の堤に埋めてみたら、思いもかけず収穫があり、それを十年繰り返して、八十八石の豆を手にいれた。これを元手に才覚を発揮して、中国から輸入された綿打ち機をひそかに改良して性能をアップ、大金持ちになった。せがれの九之助は、父親の倹約主義を浅ましいと思っていたので、自分の代になると気前よく遊んで人気を博したが、死後に後継ぎの九太郎、九二郎、九三郎に残したのは借金証文だけだった。

「大福新長者教」と副題のつけられたこの名著は、江戸消費文化の幕開けともいえる、元禄元年(貞享五年、1688年)に出版され、副題から分かるとおり、お金持ち(長者)になるには如何にすれば良いか、の教えの書(ノウハウ本?)を気どっている。しかし西鶴は、運と工夫と努力と倹約、が成功の鍵であり、浪費と怠けと無責任、は没落の道、という典型的なストーリーの中に、成功とか没落とか、そのことよりも「人間とは何か」、「人の幸せとは何か」、「自然の営み、掟はどんなものか」といった宗教、哲学や科学を、さりげなく盛り込み、読み手を飽きさせない。

今、我々は江戸時代よりはるかに贅沢な生活に浸って暮らしているが、限られた資源の中で如何に努力して社会を維持するのか、人間の生き方への問いかけは、西鶴の時代と全く同じである。しかし、お天道さま、つまり太陽の恵みだけが頼りであった西鶴の時代と大きく違う点は「エネルギー掴み取り」の現代では人間の社会活動による自然破壊の規模が限度を越えて拡大し、人間の生存そのものを危うくする心配をせねばならなくなった事である。今の時代は、昔のように、面白おかしく、楽しく嬉しく、苦しく悲しく、暮らして行ければそれが幸せだ、と言っていられない事態になりつつある。なんとしても、今の生活様式を大きく変える倹約の社会に変革しなければならない。

日本永代蔵の様式にならって、地球規模での繁栄を人類が求める今の時代における、人間の有るべきあり方と、それが幸せとマッチするのかどうか、という問いかけと、答えの試み、すなわち現代における、永代蔵(持続的な社会)を、小説ではないが同じく六巻三十話の小文にまとめて見たのが本書である。副題に書いた「エネルギー・環境問題解決への道」をこれらの話が示しているかどうかは、読者に判断して頂くとして、覚悟を決めて、倹約を実践する方向以外に人類が生き延びる道はない、という、あまり世間では表に出ない事実に気づいて頂ければと切望する次第である。

              *****************

第三話と第二十五話、とのミックス版 (ケチの反対は倹約+倹約は最大の資源)

 資源が無いはずの国が食料を三千万トン以上輸入して、その内の半分をゴミにして捨てている。日本の一年間のお米の生産量は九百万トン弱であると知れば驚くより外にない。つまり、お百姓さんが苦労して田んぼの世話をして収穫するお米の倍近い食糧が毎年捨てられているのである。「正気の沙汰ではない」行動を何故我々は平気で毎年繰り返していられるのであろうか? 

 電気エネルギーについて見ても、見た目にキレイであるということで、街をライトアップする、お寺までが五重の塔を照明して、それに加えて空中に強力な投光器で光を発して、仏様の有難さを見なさい、と「説法」する事態である。何故こんな「すさまじい」浪費の世であるのか、と問えば、答えは簡単明瞭で、倹約が儲からないからである。家庭用電気料金は一キロワット時(百ワットの電灯を十時間点けっぱなしにするエネルギー)が二十円程度である。テレビを居間に点けっぱなしにして、台所で料理、外で立ち話をしても十円少々しか費用が掛らない。いくら新聞が「もったいない」精神を宣伝しても、我々は自分のフトコロが「もったいない!」と叫ぶまでは全然気にしないのである。

  環境税が論議される時に、政府に諮問される経済学者の仕事は、どれほどの環境税をかけても、景気に影響がでないか、見積もりをすることである。有名な外国の経済学者の説を勉強し、コンピューターを「駆使」して学者は答えを出そうとする。その答えは、エネルギー料金を数%上昇させる。という程度のものである。

 環境税を、景気に影響しない限度で施行する、ということは、病人に、病気が治らない量だけ薬を与える、という事に等しい。税の目的は景気を押さえて、消費を減らし、環境を保全すること、である。問題は、何処までやるか?という覚悟である。

 全国に二百万台ほどもある、といわれる飲料の自動販売機を維持する電気は、百万キロワット以上必要と見られるが、それは火力、原子力の大型の発電設備一基分の電力である。ガシャンといつでも、飲料を買える便利さ、と引き換えに我々は、将来の世代に環境破壊の借金をしているのである

 乗用車が日本では、年に千万台ほども生産されて、それは景気を支える大きな柱である。しかし、本当に環境を考えるならば、大半は不要不急の贅沢品であって、その数も大幅に減らすことが出来る。 アメリカでも、以前に数年間、乗用車製造が禁止された事実がある。それは太平洋戦争が勃発して、アメリカが、戦時体制に入るに際して、ルーズベルト大統領がビッグスリーの社長を呼びつけて、乗用車製造の即時停止と、戦争協力を命令した時である。

 戦争、となれば、庶民は車が買えなくてボロ車に乗り、公共交通機関を使って、節約の生活をする事に、なんの不満も言わないのである。つまり元来人は目的が判然として、皆が協力して頑張ることには、仕合せ感をもつように出来ている。今の社会は、「環境戦争」を始めるべき事態にある。政府は、なりふり構わず倹約を第一優先順位においた政策を立てて、国民を導かねばならない。あれこれ、細かい施策をするよりも、エネルギー料金を大幅に上げることが、最も効果的である。

エネルギー料金が大幅に上がると、割をくらうのは、所得格差に苦しんでいる人達ではないか、という意見が必ず出る。しかし、国民一人あたり、電気料金なら普通の生活に最低必要な「月に五十キロワット時」程度までは現在の価格かそれ以下で使用する権利を持つことにして、更に倹約して「月に三十キロワット時」で暮せれば、残りを贅沢したい人に高額で譲れるようにすれば良い。一家五人で倹約すれば相当の収入になる。所得格差是正と倹約の一石二鳥も狙えるのである。皆が倹約を励行するにはケチが儲かる方策の利用が一番である。

千五百万トンを超える食料を捨てて、有り余る乗用車を使い、ペットボトル入りの飲み物が何時でも買えるために多量の電気をつかっている国は、見方を変えれば、そのような膨大な食料、材料、エネルギー資源を、「倹約」することが出来る余裕を持っている。つまり、その分を節約すれば、その量の資源を手に入れることとおなじだ、と言える。「倹約は最大の資源」であり、日本は資源大国なのである。

            *************

あとがき ―人は笑う―

なんのかの言っても、人は楽しいこと、心地よいこと、つまり快楽を求める生きものである。我々は、楽しみを求め、安全、安心を願って暮らし、それは社会の向かう目的とされている。

宇宙に地球という珍しい星が出来て何十億年、そこに人類という不思議な生きものが生まれて何十万年とか言われるけれども、人間と他の生物との違いはなんだろうか? 数年来やっている留学生の混ざった「ハピネス」の講義で学生に訊いたら「人は笑います」という答えが出て、また即座にヨーロッパからの女子学生が「マイ・キャット・ラーフス(ワタシの猫は笑うわよ)!」と反論を出したりして面白かった。

笑いは、かなり人間特有に近い感情表現のようだが、それではどんな時に人は笑うか?と考えてみると、これは結構難しい。人は嬉しい時に笑い、悲しい時に泣く、のだけれども「嬉し泣き」は誰でも経験している。そして「悲しい時に笑う」事を想像してみると、急に深刻な気持にならずにはいられない。人間はなかなか複雑な感情を持つ生きものであり、ただ生きて死ぬ、という以上の生き方をするものらしい。

学生に質問した魂胆はもちろん、ハッピネス、を考えたり求めたりするのは人間だけだ、という見方に誘導するつもりだったわけだけれども、幸福とは何か、を考えることも結構難しい。「喜ぶ者でさえ幸福なのだから、悲しむ者はもちろんだ・・・」と言われたら、そんなものかな?とも思えてくるかもしれない。

この本の目的はしかし、幸福とは何かを調べたり考えたりする、そのことではなくて、宇宙に我々だけであるかも知れない、嬉しい時に泣いたり、悲しい時に笑ったりする、人という生きものが、今までずっと生き続けて来られたように、これからも生き続けて行くためには、どんな行動をとるべきか、その行動は幸福と一致するのか、それを知る事である。

物質的に豊かな生活、ゴージャスな生活、安心安全な生活を求め、消費の活性化をして、お金がもうかる事すなわち成功、を目指して競争することが、本当に人の幸福につながるのであれば、人類はもうすぐ滅びる運命にあるといえる。

人は安易な生活ではなくて、限られた資源を再生可能な範囲で倹約しつつ使って生きていく時に、肉体的にも精神的にも安心でいられるように、そのように進化して来たからこそ、今地球上で繁栄出来ている。そのような社会こそ、人が生き続ける条件と一致するのであり、生き続けてこそ人は幸福を求めることも可能になると気づくことが大切であろう。

消費の活性化か、倹約か、どちらが人の幸福につながりそうか、日ごろ心に浮かんで面白いと感じてきた話題のいくつかを、そのような観点からここに書いたが、一部にでも共感して頂ければ幸いである。

         *********************

倹約と幸福 目次

はじめに ―歴史は繰り返さない―
巻の一「人の心理は不思議なもの」
第一話   良寛さんの教え(シカタガナイという哲学)
第二話   願望に根ざす判断は危ない(熊に出会っても釣りを続ける人)
第三話   ケチの反対は倹約である(アルパゴンと涼庭、ローソクを倹約)
第四話   忘却の忘却が恐ろしい(覚えている、忘れる、忘れたことを忘れる、0、1、∞)
第五話   言葉の値段(己の欲せざる所を、人に施すなかれ)
巻の二「常識は真理ではない」
第六話   ストレスは健康のもと(幸福の反対は安静)
第七話   朝三暮四の手法による政治(民主主義の危険性)
第八話   思慮分別は知識にまさる (生命をもてあそんではいけない)
第九話   倹約と幸福は同語反復(撞着語法「オクシモロン」と、同語反復「トートロジー」)
第十話   技術革新のパラドックス(ジェボンズのパラドックス) 
巻の三「神仏と環境問題」 
第十一話  パスカルの賭け(「神様問題」と「環境問題」)
第十二話  神さまに責任はない? (なぜ氷は水に浮くのか?)
第十三話  寝ずの番も空しい(作法の真髄は不染汚)
第十四話  不可思議解脱の法門(椅子を求めるのか、法を求めるのか)
第十五話  山が流れる?(賞味期限とデボラ数)
巻の四「文学はいろいろな体験をさせてくれる!」
第十六話  太平記の逸話(天下の利か、権利保護か、自然体か)
第十七話  風車場の秘密(すべてのことには終わりがある、か?)
第十八話  貧福論と銭神論(お金は羽がなくても飛び、足がなくても走る)
第十九話  ヒマは不善を呼ぶ(小人閑居為不善 無所不至)
第二十話  人生は筋の分からない劇(ドラーマ・悲劇は優れた人を、喜劇は劣った人を描く)
巻の五「お金の性質と人の性質」
第二十一話 賢者には一言で足りる(自然真営道 人間ひとりは百ワット)
第二十二話 まことの商人は先も立ち、我も立つことをおもう(先の先の・・・には我がいる)
第二十三話 最大多数の最大幸福(未来の人も数に入れるとどうなるか?)
第二十四話 生産は常に赤字である(形あるものは必ず壊れる)
第二十五話 倹約は最大の資源 (倹約が儲かるようにするべし)
巻の六「哲学は役に立たないけれど最も大切」
第二十六話 皆が正しい(判断を可能にするのは ひいきの気持ち)
第二十七話 はんたか の教え(ラジョ・ハラナン 塵を払う)
第二十八話 人は何で生きるか(自分の影を売った男の話)
第二十九話 火宅の教え(最初は一個の生命)
第三十話  感動は前進、満足は後退(自分は騙せても、自然の掟は誤魔化せない)
あとがき ―人は笑う―

Written by Shingu : 2011年08月24日 22:41

トップへ戻る