トップへ戻る

宗教・科学・哲学 Part1 (考えの及ばないこと---- 不可思議)

全国日本学士会誌:アカデミア148号 (2104年10月発行)に掲載

はじめに 

 人間とはまったく不可思議な生きものである、といえば皆がそう思うだろう。不可思議、不思議、という言葉は“理解できない”ということだと“理解”しているからである。この言葉のルーツはインドの言葉サンスクリットの、アチントヤ(acintya、英語のunthinkable)で、これは仏教用語のひとつらしい。

 理解する、理解しない、ということは人間の“考える”という機能の働きの結果を示しているのだから、一体なにが理解できて、理解できないことには何があるか?を考えて見ると人間とは何かが少しは分かってくるかも知れない。

 人間は過去3千年くらいの間に、自分を取り巻く世界、宇宙、が何で、人間はその中で何をする生きものかを理解しようとして、宗教、哲学、自然科学、を営々と築いてきている。その営みの一端を振り返って見る、という“ムダ”な行動をして、目先の利害にかまけて“役に立つこと”しか眼中にない当世の奔流に逆らってみるのも、アカデミア、すなわち知を尊ぶ人の集まり、に対しては意味があるだろう。

1 知ること

1.1 「人は知ることを好む」

 およそ2千5百年ほど昔に中国、ギリシャ、で人間、社会を概観して、一体我々は何をする生きものか?という考えを纏めて書物にする、という試みがほぼ同時になされ始めた。孔子の言行録「論語」とアリストテレスの「形而上学(けいじじょうがく)」をそれらのシンボルと見て、内容をサッと見ることから始めてみよう。

 論語の最初の文章は有名で「学びて時に之を習ふ(ならう)、また説(よろこ)ばしからずや」とある。要するに、物事を学び知って、時に応じてこれを振り返って味わう、それは何とスバラシイことではないか!という感想である。

 論語の中心的思想は「自分がされたら嫌なことを人にするな(己の欲せざる所を人に施すなかれ)」だから、丁度この時代になって、社会の規模や機能が発達して、自分だけのことに専念していても社会が動かないので、旨く社会を機能させるポイントとして、自分と他人との立場を逆転して、自分の行動が適切かどうかを判断する技術を孔子は一言で述べたのであろう。それにしても、いろんなことを学び知らなければ、なにをするべきかさえ判断出来ないですよ。という説教が論語の冒頭だと見れば良い。

 アリストテレスの形而上学の出だしには「人はみな、生まれつき、知ることを欲する・・・」とあり、それに続いて、フィロソフィー(哲学)という言葉が「知識(ソフォス)を好む(フィロ)」という意味であると説明されている。それにしても、形而上学という訳語が難解で、哲学者の専門用語的雰囲気があるので敬遠されるけれども、アリストテレスの本はいずれも大変平易で分かりやすい(訳本を読む限りではなく英訳もギリシャ語の原典も難しいという気配は全く無い)。形而上とは要するに、水とか空気とか石など目で見る、触れる、道具に使える、すなわち形のある“物”ではない、その上の、考えの中だけにある事柄だと言えば、小学生に分かる概念である。

 そもそもギリシャ語のメタ(上の)フィジックス(物)が形而上学と訳されている理由は、中国の古典「易経(えききょう、陰陽道すなわち八卦の原典)」の解説文として孔子が書いたとも言わる部分に「形而上とは道のこと、形而下とは器(うつわ)を指す」とあることによっている。道とはジャリ道、アスファルト道、という形而下の道ではなく、人のあるべき道、などという場合の抽象的な道であり、器は具体的に道を支える生活必需品、などを指している、として、この解説(繋辞上伝)が書かれたと想像すると面白い。

→続き PDFで全文を読む


Written by Shingu : 2014年12月27日 14:24

トップへ戻る