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千年後の世界

エネルギー社会工学・幸福論 講義サマリー(結論の部分です)
1996. 7.10. 京都大学 大学院エネルギー科学研究科
 エネルギー社会・環境科学教室    新宮秀夫

桜がり、雨は降り来ぬおなじくは、濡るとも花の蔭に宿らむ

 平安時代の貴族、左近衛中将、藤原実方はある年の春、東山に花見に出掛けて、にわか雨に会い、花の下に立って詠んだこの歌が評判となり得意になっていた。天皇(一条)にまでその噂が伝わったが、藤原行成(能書家、三跡のひとり)に、「歌は良いが、わざと雨に濡れるなど感心しない」と告げ口された。これを恨んだ実方は殿上で行成と喧嘩して、行成の冠をたたき落とし、庭に投げ捨てた。行成が慌てずに人を呼んで冠をとらせ、平然と去って行ったのを運悪く天皇に見られていて、行成は蔵人に抜擢、実方は「歌枕を勉強してこい」といって陸奥の地へ左遷された。赴任先の宮城県で、人の諌めを聞かず道祖神の前を馬に乗ったまま通ろうとして、実方は落馬して死んでしまった。実方の死んだのが998年ということだから、このストーリーは今からちょうど千年前頃に起こったドラマという訳である。

 話の真否はとにかく、千年昔の人間ドラマを我々は今もって生々しく実感できることは確かである。例えば、我々研究者と呼ばれる大学等にいる者は、人の評判になるような“良い”論文を書くことにこだわっているが“良い”論文と思っていたのにケチを付けられた、ということは有りそうな話だ。そのために普段はおとなしい先生がカーツとなるということも容易に想像できる。似たような状況は世間のどんな分野にもあるであろう。 我々は今、自動車、飛行機、冷暖房、コンピューターを使い、衣服も食事も千年昔には全く想像も出来なかった生活をしている。その上、千年前にはおよそ想像も出来なかったであろう恐るべき多くの知識、ビッグバン、ゲノム、カオス、エントロピー、などになじんでいる。ところがこんなに大きな身の回りの変化も、人間の感情の動きの基本的なところには、何も変化をもたらしていないことが歴史を読むと判ってくる。我々は皆、千年という年月はすごく長い期間であると思っている。したがって今から千年後の世界を想像せよといわれても誰しも直ぐには頭がめぐらないであろう。しかし上に述べたように、千年昔と今を較べて見ると、それはほんの昨日のようにも感ずることができる。つまり、千年後の世界は、今の我々の世界とそんなに掛け離れたものでは無いのである。

 ところで、千年昔といえば、25年を1世代として約40世代である。自分の親は2人、祖父母は4人、曽祖父母は8人、・・・・・・というように40世代さかのぼると我々は誰も例外なく、2の40乗≒1兆人の祖先がいることになる。平安時代の日本の人口はおそらく多く見ても数百万人位だろうから、その頃の人々は皆んな、つまり、実方も行成も、それから恐れ多くも一条天皇も含めて何重にも我々の親戚であることには疑いの余地が無い。 その頃に、喜んだり悲しんだり、幸せであったり、不幸であった人々がみな我々ひとりひとりの共通の祖先であるとは愉快なことではなかろうか。我々は身の回りの人々の幸せを自分の幸せと感じ、悲しみもまた自分の悲しみと感ずることは皆同じである。千年昔の実方の憤慨も、行成の、したり顔、も我々は自分の親戚として分ち合う気になることが出来る。こう考えると今の自分の幸せや不幸せも時の流れの中のひとコマに過ぎないことが実感されよう。数え切れない過去の幸せや不幸せの結果として今の我々の幸せや不幸せがあり、今の我々の幸せや不幸せが自分と少しでも係った総ての同世代の人々を通して未来の数え切れない幸せや不幸せの原因となるという訳である。

 衣、食、住の最低レベルは充足されないと何といおうと不幸であることは、間違いなく動物としての人間の本性である。戦後の食糧難を知る者にとって、空腹で幸せなことは絶対にないと断言できる。断食をして修行する人ももちろんいるが、いつでも食べられるという事が判っていれば断食を楽しむことは容易である。本当に食べ物が乏しい時に断食する人はいない。この最低レベルが満たされた後の幸せが何かを考えることは、ほとんど人間とは何かというのと等しい難問である。人は様々な異なる感覚をもって幸福を感じ、不幸を感ずる。ある人の幸福は別の人の不幸かも知れないとは良くいわれることである。人は生まれ持った性格(脳の機能の違いであろうか)によって小さなことで幸せになれる人もあり、いつも不幸な人もいる。また何かと運の良い人もいるし、いつも不運な人もいる。一生かかって段々と幸せになる人もいるし、それほどでもないのに一生を振り返ると結構幸せだった人もいる。また一生、いつもみじめであったのに、一瞬の輝きで最高の幸せを得る人もいるであろう。

 いずれにしても人間の体に100兆個もの同じ基本的構造の細胞がそれぞれ異なる機能で働いているのと同様に、1個人は同世代だけでなく過去と未来の数え切れない人間のうちの1人にしか過ぎない。それらの人間は皆同一の基本構造を持ちながら、ひとりひとりが皆異なる性質を持って異なる機能で動いている。自分の幸せ不幸せは今生きている我々が作ったものであると同時に我々の先祖が作ったものでもある。千年昔の文化を我々が今味わうことが出来ると同じく、千年後の世界に生きる人々に今の我々の文化をエンジョイしてもらえることを望まぬ人はいないと思う。つまり、人間の幸福は時間を含めた考えによって決まってゆくもので、定常的、不変の幸福というものは無い。つまり、幸福は達成されてめでたし、めでたし、というものではない。ささやかな幸運も、それを守ろうとした途端に“不幸せパターン”に陥っていることになる。いつでも身を捨てる気持ちでいないと“幸せパターン”に乗れないのが人間の宿命であろう。過去、現在、未来全部考えに入れて、今を生きることは、どんなことかを考えて見ることのできるのが人間の特性であり、我々はこれを意識して生きることにより誰しもがどんな状況でも幸福でいられる。

 次の和歌を一偈(ゲ)(しめくくり)と受け取って、この歌を生きて実感できるように今の生活を頑張ること、頑張ることの出来ることをもって幸福と考えたい。

   ながらえば、またこのごろやしのばれむ、憂しと見し世ぞ今は恋しき。 (新古今集、藤原清輔)
(長生きすれば、惨めでツマラン今の暮らしが懐かしく思えるんだろうナ~、ヤダと思って過ごした昔が今は恋しいのだから~~)。


Written by Shingu : 2019年10月17日 16:18

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