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非論理哲学論考・矛盾、無限、因果(1)

非論理哲学論考
「矛盾、無限、因果」とエネルギー・環境問題

TRACTATUS ILLOGICO PHILOSOPHICUS
 
新宮秀夫

目次
1.はじめに
2.アリストテレスが偉い、アリストテレスは怪しからん
2.1 矛盾
2.2 無限
2.3 因果
2.4 アリストテレスの総括
3.誰が何を「矛盾、無限、因果」について述べたか
3.1 ギリシャ哲学者
 3.1.1 ヘラクレートス
 3.1.2 パルメニデスの流れ、新プラトン主義
3.2 中国思想と「謎」
3.3 アラビアのアリストテレス
3.4 仏教と「矛盾、無限、因果」
 3.4.1 般若心経、維摩経に見る「矛盾」
 3.4.2 観無量寿経、ナムアミダブツ
 3.4.3 始まりの始まり、父母未生以前
3.5 キリスト教と「矛盾、無限、因果」
 3.5.1 バカバカしいから信ずる
 3.5.2 神の全能性と人の自由意志
 3.5.3 「神の存在証明」の元祖
 3.5.4 「オッカムの剃刀」、「ブリダンのロバ」、「反対の一致」
 3.5.5  ニセの本に書かれた本当の話
3.6 哲学者達の「謎」との対決
 3.6.1 カントのコペルニクス的転回
 3.6.2 みんな悩みはおなじ
  3.6.2.1 決定派、あたりまえの事は疑わない人々
  3.6.2.2 偶然派、あたりまえの事を、あたりまえと思えない人々
3.7 論理学者、数学者のする「証明」とは何か 
   3.7.1 無限は本当にあるか
 3.7.2 ゲーデルの不完全性定理
4. 工学的視点
4.1 工学的無限、デボラ数、緩和時間
4.2 工学的因果、カオス、千里の差
5.考察
5.1 三つの道
 5.1.1 宗教
 5.1.2 哲学
 5.1.3 論理学
5.2. 非論理学
6. 総括、 論理的にも非論理的にもエネルギーの節約以外に道は無い

1.はじめに

「矛盾と無限と因果は、一つの謎の三つの顔である」 パンタルゴス。

哲学、というと我々一般人には難しくて縁のないもの。どうぞ学者さんたち、勝手にやって下さい。といった感想をもつ事柄である。しかし、例えば物理学は人間でなくてもどこかの宇宙人も、この宇宙にいる限り我々のと同じ物理学を作っているだろうが、哲学は宇宙人のそれは我々のと違うのではないか? と考えると、哲学は人間の学であることになる。それなら、できるだけ多くの人間つまり我々素人にも判らない事には、それがある理由がないように思える。
日本学術会議という日本の学問の元締めみたいな組織があるが、そこの主催で環境に関して、様々な工学の分野からの講演会が開かれたことがある。何となく統一的な筋が無くて、バラバラの発表のように感じられたが、その時に会場から、工学の分野に哲学が無いのではありませんか、との質問がなされて皆が虚をつかれた雰囲気があった。
工学だけでなくて、経済も政治もどの分野も昨今は一生懸命がんばってるようではあっても一体何をしようとしているのかハッキリしない。役に立つ、とかベネフィット、とか効率とかいう言葉がメディアにしつこく現れる。大学でさえ民営化して競争原理で、優れた、とか一流の、とかいえる研究を目指せと、端的に言えば脅しみたいな駆り立てを喰らって、その結果皆が同じテーマを取上げてワイワイやらないと不安であるような雰囲気が見える。どの分野にも哲学が足りないらしい。
哲学が社会から不足してしまっているのは、哲学者の責任ではないだろうか。あまりにも専門家ばかりいて、君達にはカントは判らんよとか、今は現象学だよ、とか言われてしまって、その日の稼ぎに忙しい庶民はハイ左様でございますか、と恥ずかしい思いをする他ない。勇気を出して哲学辞典(恐れ多くもケンブリッジ大学出版のもの)を開いて例えば現象学を調べると「様々な見方あり、主張する学者により解釈がさまざま」とあったりする。

素人は頭もヒマも無いので、あれこれ言われる事なく、哲学が何を考えるもので、それが普通人の生き方にどう関係するのかを一言か、せいぜい二言、多くても三言で教えて貰いたい。そこで、あれこれ読みあさり、読み荒らしてみた所、ありました、冒頭にあげた格言にある三つの問題が哲学者たちのアタックして来たことであって、現在も(幸せなことに?)全くなにも判ってないらしいことが判ってきた。
上記の三つの言葉がなぜ哲学、すなわち「私は誰、ここは何処」を考える時に肝心かなめの問題なのか、人はそれを何処まで考えてきたのか、それを考えることが、毎日の生活とどう関係があるのかを、工学的、すなわち誰にも使える(物を考えるときに)ように紹介することを試みるのがこの文章である。文中に、聞いた事の無い人の名前や格言など、時には式などが出て来ても、そんなものは菜の花を見て楽しんでる時にひらひら舞う蝶々だとおもって見流して花(謎)を楽しんで頂きたいと思う。勿論、哲学などしらない人間の書くことだから、間違いだらけの云いたい放題であるに違いない。けれども、こんな方向に考えを向けて見ることこそ、今誰もしようとしない、そして今それが大切なことなのだと信じている。

2.アリストテレスが偉い、アリストテレスは怪しからん。

西洋のあらゆる学問の元祖がアリストテレスであることは衆目の認める所だろう。あらゆる学問とは、なんともすごい。ざっと挙げてみても、論理学、形而上学(哲学?)、自然学(物理学、生物学)、心理学、倫理学、政治学、経済学、文学(劇、詩)などをカバーしている。しかも、それらが本になって残ってるのだから怖い。アリストテレスはどの分野の学問も徹底的に論じて、ハッキリした結論をつけようとしているので、必然的に矛盾と無限と因果の謎に行き当たっている。アリストテレスは物事をおそれずに直視するという科学的態度を始めた、といえるのだろう。まずアリストテレスの矛盾、無限と因果についての考え方を調べて、この三つの事柄がなるほど一つの謎として深く繋がっているらしいという感覚を掴むことから始めてみよう。

2.1 矛盾
さて先ず、アリストテレスは謎の第一番目の矛盾にどのように行き当たったのだろうか?それは、論理学の創始者として、三段論法を考案(すごい!と思いませんか)するにあたって、避けられない課題だった。論理学って何、と知らない中学生でも、三段論法という言葉は知っている。それは例えば、(A)我輩は猫である、(B)猫は引っ掻く、(C)我輩は引っ掻く、という風に、A、B、二つの前提から一つの結論 C を導く、理屈付けの形式である。
三段論法を含むアリストテレス流の理屈づけの仕方(論理学)は19世紀までに整備され、基本的には完成されてる、と見なされていた。ところが19世紀後半から20世紀にかけてフレーゲやラッセルの功績で大飛躍して、記号を使って理屈を式にする述語論理学という方式が完成された。そして、アリストテレス流は伝統的論理学とか呼ばれて、あまり教えられ無くなった。と、これは、今回集めて読んだ論理学入門書4,5冊のどれにも書かれていた。論理数学(logical mathematics)とか数学的論理学(mathematical logic)などという本にはアリストテレスの名前さえ出ていない。それらの本の一冊の緒言に「この本の述べる論理数学を勉強しても、思考する(think) 方法の助けにはなりません、この本は、考えてみると面白い課題、を紹介しようとしているのです」と書いてあって大いに参考になった。

それでは論理学はアリストテレス以来すっかり変って、三段論法など全くの時代遅れなのかなとおもって、一生懸命に入門書をめくってみて得た結論は、論理学のよって立つ、根本の根本である一枚岩は、昔の通りに「矛盾」を避ける。と言う一言に変わりは無いことが判った。
なんだそんなことか、と言う無かれ、論理学というものは「誰が聞いても当たり前、明々白々な事」を前提に、そこから、ありとあらゆる、眞なのか偽なのか判り難い複雑な事柄の(眞か偽か)を証明する学問なのだから。
アリストテレスは、ハッキリと、論理学(syllogism, これは英語では三段論法のことを指すが、アリストテレスのギリシャ語では、単に推論のことらしい)は推論の眞、偽を、明白な原理(公理、axiom )に照らして証明する方法である。と書いて、その後に「だから、推論が結局行き着く、公理、そのものは、証明しようが無い」と書いている。
とことん元を辿っていけば、それ以上辿ることの出来ない、始まりの始まり、があるはずだという難問を直視できた所にアリストテレスの偉さがある。元を辿って、難問に至る、と言うパターンは、次に述べていく、無限、因果、についても全く同じことが起こる。そして、それらの難問(謎)が結局一つの問題の現われかたの違いに過ぎないのではないか、というのが、これから考えていく道筋である。そして、それ(難問)を抱えて人はどう生きていくか、の方便を考えようとするのが、結論として求めるところである。

さて、アリストテレスは、公理となる「誰が聞いても当たり前、明々白々な事」は証明のし様が無い、といっているが、それで放ったらかしにはしない。彼は公理の一番肝心なものは、矛盾律であるとハッキリと認識している。確認の為に書くと矛盾律とは、「何事も、そうである、と、そうでない、が同時にどちらも眞、ではあり得ない」というルールである。べつの表現は、排中律と呼ばれるが、それは「何事も、ある、か、ない、のどちらかである」というルールである。ウィスキーがボトルに半分あります、というのは勿論「ある」と見なければならない。ある、でも無く、ない、でも無い、という生煮えの返事を禁止しよう、というのが排中律、だと言える。
アリストテレスは、矛盾は認めない、という公理が受け入れられなければ、論理学(推論)は不可能である。と認識して、その肝心かなめの「矛盾は認められない」ことが証明は出来ないけれど如何にして受け入れ可能であるかを、長々と論じている(形而上学、第4巻第3,4章)。勿論アリストテレスも明解な結論に到達できないのは当然だが、彼が書いている「言い訳」はおもしろい。まず、公理は何かから導かれるものでは無いから、論証することはできない、つまり証拠を示すことは出来ないことを、認識するべきである。と述べて、公理にたいしてまで論証を求めようとする輩は「教養を欠いているとしか言い様がない」。とふてくされた発言をしている。しかし、直ぐ後に気を取り直して、論証は出来ないが、弁駁(べんばく)は出来る。としていろいろと論じている。

その弁駁の中で大変鋭い指摘があるのは次の事である。例えば「人間である」と「人間でない」とが同時に成り立つとすると、これらの二つのことは同じ一つのことであると認めることになる。そうしてしまうと、結局何ものも、何事も、一つの事であることになり、「白である」と「白でない」とが同じであると言わねばならない、と同時に、「白である」と「人間である」も同じ事になり、万物はみな同じものとなってしまう。と言う論法である。この結論は現代の論理学の中にも生きているどころか、変わらない基礎として論理学が "しがみついて" いる原理である。端的に言えば、論理学とは普通「二値論理学」を指し、二値とは、イエスかノー、0か1、オンかオフ、あるかないか、などの二つのチョイスの内、必ずどちらかをとる、というルールを指している。両方が同時に成り立つという、矛盾を認めれば論理学では全ての命題(提起された問題)を証明できてしまうので、収拾がつかなくなり、論理学は成り立たなくなる、と必ずどの本にも書かれている。これはアリストテレスの指摘と全く同じことである。ちなみに、多値論理学というのもあるらしいけれども、これは、0と1との中間の値も論議に入れようという様なことらしくて、これもアリストテレスの論議の範囲から少しも出ていない。

2.2 無限

自然学第3巻、第4-8章にアリストテレスは「自然の研究を事とする者のまさにすべき仕事は、無限なものについて、果たしてそれが存在するか否かを、また、もしそれが存在するとすればそのなにであるかを研究することであろう」と先ず述べて、丁寧に考察を記している。いろいろ書かれているが「無限なものについての研究は、それの存在を肯定する人々にもそれを否定する人々にも多くの不可能な結論がでてくる」という文章がアリストテレスの悩みを端的に示しているし、彼も我々一般人となんら変わらぬ素朴な疑問から抜けられないのだな、と納得できる。肯定しても、否定しても、どちらも説明不可能な結論が出る、とは正に、前節に取上げた「矛盾」が、「無限」に付随していることを示している。
具体的には五つの無限の存在理由が挙げられている。それらは、1.時間について、2.大きさのあるものの分割、3.生成と消滅、4.ものを限ることについて、5.数が無限であると思われるように、考えで汲み尽くせない事柄、である。

これらはどれを考えてみてもなるほど、無限であると言っても、無限で無いといっても具合わるい事になりそうな感覚は直ぐに分かり、矛盾と無限との親戚関係はなるほど明らかだと感ずることができる。アリストテレスは結局、無限は実在する物についてはあり得ないけれども、それを考えることは出来ると結論している。面白いのは、無限にも方向性みたいなものを考えたことである。例えばある物を小さく分割して行くのはキリがないので無限性があるけれども、それを大きくして行くためには何処かから付け加える物を探してこなければならないので、勝手に無限を思考することは出来ない。などと考えたようである。これについては、ある解説書に、ヴィトゲンシュタインが、πの値が大きい方は、3、で終りなのに小さい桁は、1415926・・・・、と続くのが片側無限の例だと言った伝説を使って説明されていた。

2.3 因果

アリストテレスは、人は生まれつき知ることを欲する。と形而上学の冒頭に書いて、その第1巻第3章に、我々が知ると言いうるのは、その事の原因を認識していると信じるときのことである。と述べている。そのあとに有名な4種類の原因についての解説を書いている。この4種類の原因は何度読んでも解り難く、同様の説明の書かれている自然学第2巻第8章を読んでもまだ解り難い。しかし、有名な説なので、名称だけでも先ず書いておこう。それらは、1.形相因(formal cause)、2.質料因(material cause)、3.始動因(efficient cause)、4.目的因(final cause)。の4つである。
矛盾や無限の場合と違って因果についてアリストテレスは、物事の原因を知ることの重要性を指摘していながら、それを、原因の原因の又その原因というように無限に遡ることはしない。そして、物事は始まりと終りがあって、終りのものは他の何ものかの原因ではない、と見ている(形而上学第2巻第2章)。アリストテレスは特に目的因という原因を信じていたようで、何事が起こるのも「なにかのために」という目的があるからこそ起こるのだと見ている。よく参照されるのは、雨が降るのは、穀物を生育させる為である、という自然学第2巻第8章の記述である。

ここに、ふつう因果を考える時に必ず出る論議を示して見よう。誰しも「何事も原因なしには起こらないか?」と尋ねられれば即座に ”そう思います”と答えてしまいそうになる。しかし、そう答えると「では原因にもそれが起こる原因があるのですね」と念を押されて、それに、ハイ、と答えざる得ないようになり、次には「では原因の原因の原因・・・を辿って始めの原因に行き着いたら、その始めの原因の原因は何ですか?」と問い詰められて答えに窮することになる。
アリストテレスはこれを恐れて、賢くも「原因」の替わりに「目的因」というものを考案して、「何事も原因なしには起こらない」を「何事も目的なしには起こらない」と置きかえて、「原因の無い結果があり得る」という、因果を考える時に必ず問題となる偶発性の事を考えないで済む事にした。しかも、始まりの始まり、という究極の原因への無限の遡上をもすり抜けようとした、といえる。
結局「ではその目的は誰が設定するのですか」という問いが生ずるはずなのだが、アリストテレスはそれに触れずじまいでいる。おそらくソクラテスが判断の正邪をダイモン(神様?)の声に頼ったと同じく、因果については神頼みであったと見てよいのだろう。

2.4 アリストテレスの総括

矛盾、無限、因果についてのアリストテレスの処理法をまとめてみよう。

1.矛盾を認めたら「何でもあり」になる、それは困る。だから矛盾は認めないという公理のもとに、三段論法による、論理学を築いた。
2.無限を認めると、全体と部分とが同じである事になる。これはおかしいから、無限は実際には無くて、考えの中だけの物とする。
3.因果を無限に辿ると、全ての始まりの原因は何かという解決不可能の難問に至る。これを避ける方法として、物事は全て目的に向かって進むものだとする。

このような整理をアリストテレス流と呼ぶことにすると、この方式は現実的のようにも見えプラグマティックであろうが、「現実」にはそんな発想では理解できない事柄、事象も身の回りに沢山あるようにも思える。例えば「矛盾を認めざるを得ないことがある」、「無限と言える量もある」、「因果によらない現象もある」などである。これから、そこを一つ考えて見ようとしている訳だが。それは後回しにして、もう少し最初の格言「一つの謎の三つの顔」についての色々な見方、考え方をレビューして見よう。

 →非論理哲学論考・矛盾、無限、因果(2) 

Written by Shingu : 2003年06月14日 11:38

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