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新釈:日本永代蔵(じぞくてきはってん) 2

エネルギー学会、エネルギー学部会講演会 「エネルギー学の深化」
於:東京都渋谷区、電力館、2008年6月27日

京都エネルギー環境研究協会 新宮秀夫

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5:エコロジー環境とおかね経済のパラドックス
京都エネルギー環境研究協会冊子、エネカン5号に掲載(2007年7月)

1.はじめに

俳優のモリシゲさんが誰かの告別式のテレビで「何故私がいつまでも生きていて、たくさんの良い友人を見送るのだろう、代わってあげたいといつも思う」と昔、話していたことがある。これを聞いて、やや不謹慎ながら、なるほど、早い者勝ち、なんだなと思った。命長ければ辱多し、と荘子にあるが確かに我々凡人はあまり長生きし過ぎて、死んでも誰も惜しんでくれなくなるより、多くの人が悲しんでくれる内に死ぬのが、得、かも知れない。

かといって、あまり早死にしても、良い友人も出来ないし、生きた甲斐がないだろう。ほどほど、中庸が一番良い、などと本には書いてあっても、皆がほどほどである、などという事態は決して起らないことは断言できる。長命を願うのは皆同じだが、それを得たから幸せ、というものでもない。願いは願う事が大切でそれを達成してしまってはダメなのである。目的は目的であるために目的であるのであって、達成してはならない、ということが上記の話しで述べたかったわけだが、これはいわゆる自己矛盾:パラドックス、といわれる事態である。目的は達成するためにあるのに、それを達成しては目的に外れるのである。

さて、この文章の目的はエネルギー・環境問題の解決とは何か、我々は何をすべきか、についての根本的な考え方を考える事であるが、そこにも当然、いろいろなパラドックスが現れる。パラドックスが如何に一般的であるかを見きわめ、パラドックスは解決しないからこそパラドックスである点を踏まえて、解決出来ないけれどもそれをしのぐ方便を考える。つまり人類にとって最重要の問題であるエネルギー・環境問題に有効な対処法を考えようとするのである。

結局、倹約・節約が社会通念になって実行されるようにならなければ環境問題は決して解決しない、という冷静に考えれば当たり前のことを言いたいのであるが、エコマークの商品を買ってそれを免罪符にして、持続的経済発展を望むのはパラドキシカルな行動でありながら、社会の大勢がそちらに向いている。本稿では如何にして冷静になってこのパラドックスをしのぐことが出来るのかを考察したい。

2.矛盾の世界、パラドクシア・エピデミカ

自己矛盾・パラドックスについて書かれた書物は多いが、ロザリー・コリーの本、パラドクシア・エピデミカ(Rosalie L. Colie, Paradoxia Epidemica, Princeton Univ. Press, 1966)が読み物としては抜群に面白い。他の本は多くが数学者や論理学者あるいは哲学者と称する人達によるもので、参考にはなっても、何となく自信なく書かれていて(その理由はパラドックスが本質的なものであり、パラドックスが解決したらそれは人間が神様になることである、つまりそれは不可能なのだと、認識出来ていないためである)面白味に欠けている。コリーの本の中味は読んでいただくとして、そのタイトル、エピデミカが良い。

エピデミックという言葉はご存知の通り、ハシカなどの流行病のことである。それの元は、一般的に何処にもある、気になるものごとを意味している。だから、パラドックスも少なくともハシカ程度にはあちこち顔を出して、我々がそれを迷惑がるようなものである、という風にこのタイトルを見ることが出来る。

パラドックスの本質は、オレオレ詐欺の原理なのであって、自分の説明を自分がする、いわゆる「自己言及」にある。最初にふれた、目的の目的、もこれに入るから、目的の目的は目的であり・・・、と始末がつかない事になり目的を設定する事自体にパラドックスの要素が存在している。

こういう事を論ずるのは論理学だから、論理学とは何か、を知ろうとして殆ど棚一杯になるほど論理学の解説書を仕入れて、一言でわかる論理学、を探し求めて見た。そこでようやく分ったことは、論理学を根本まで追究した所には、何とパラドックスがデンと構えている事である。

例えば、論理学的に「真理とはなにか」を表現しようとすると「ここに書かれているこの文章はウソである」という文が正しいのか偽なのか証明できない、というパラドックスをしのぐことが出来ないのである。いろいろ方便を弄して、どの本にも分ったような、分らないような解説がされているが、そんなにクダクダ書かずにズバット書けないの?という質問はしてはいけない雰囲気である。驚くべき事に、タルスキーという20世紀始めの天才数学者にして論理学、特に真理論(真理とは何かを説明する学問?)の大家の解説(A.Tarski: Scientific American vol.220, No.6, 1969, pp.63-77,Truth and Proof)には、真理を証明する過程にパラドックスが現れるのは病気のようなもので、いつかは治療法が見つかるであろうというようなことが書かれていた。パラドックスは論理学の中の特異点であるらしいことは判るが、特異点こそ、その本質を示す物だ、との発想に至らないのだろうか?

さて、パラドックスの普遍性の一端を覗けたので、本題である環境と経済についてのパラドックスについて考えて見よう。

3. 持続的発展-経済も環境も

真理論といういわば学問の中の学問においてさえパラドックスが発生すると、それを病的だと断定して、治療しようとしたり、見て見ぬ振りをして枝葉の部分を詳しく、細かく論ずることをもって真理論(学?)としたりする、という趨勢(すうせい、むずかしいけど、感じのわかる言葉ですね)が見える。身近な環境問題やお金、すなわち経済の問題となると矛盾を当然視するのは「当然」なのかもしれない。先ず、なにが環境と経済に関して矛盾なのかを振り返ろう。

持続的発展(Sustainable Development)という言葉が、地球サミットといわれた国連のリオ会議(1992年)で採択された。発展が持続するとは何か、かねてより疑問に思っていたが、この会議の議長を務めたインド人のデサイ(Nitin Desai)氏に昨年ある機会に直接この言葉について意味をたずねたら、実は最初自分の提案した言葉は責任ある発展(Responsible Development)だったと話してくれた。しかし、いったんリオ会議で採択された言葉は、政治家も経済人もそして学者までもが、あたかもそれが人類の幸福達成(?)のための聖なるキーワードのように崇め奉って(あがめたてまつって)来ている。

デベロプメントは発展でなくて開発と訳すべきだ、開発とは世界の2/3以上の人口を占める貧困国の人々を救うことだ・・・。など説明がなされたりするが、その理由は、発展を経済発展と解釈してどんどん資源を開発して物質的豊かさを先進国(早い者勝ちで、商業、工業を発達させた国々)が維持しようとすることへの後ろめたさがあるからだろう。貧困とはドルで計算した収入の多少で決まるものではないはずであり、経済発展が貧困を撲滅する、などという考えはまさにパラドキシカルである。自然の恵みに応じた生活を出来ればそれ以上の生活は余分な贅沢であり、贅沢は、始めたら止まらない習慣となるから、贅沢できない事を貧困と感ずることになる。

資本主義経済は人が物を欲しがらなくなると破綻、不況になる基本的構造を持っている。だから、地球環境に悪いことは判っていても、消費の活性化維持こそ、その命脈を保つカナメなのである。消費を活性化しつつ省エネも進めることが可能であると信じることの出来る人が大勢いるのは不思議な気がしないだろうか?付加価値、新製品、などという言葉はすべて、余分の贅沢感を維持するための、目くらましの扇動なのだが、扇動に容易に惑わされるのが人間の本性だと、胸に手を当ててみるとよくわかる。
日本全国にある自動販売機を24時間雨の日も風の日も稼動させておく電気使用量が200万キ
ロワット程になる。これは原子炉や火力発電設備2基分のエネルギーである。消費の活性化とはこのような事実を言うのである。一体、そのために放出される二酸化炭素や放射性廃棄物は誰が始末するのであろうか、とジュースをガシャンと買う時に考えれば、環境も経済も、という両立はパラドックスなのだと分かるであろう。

環境と経済発展の両立を目的としよう、ウィン-ウィン(win-win、敗者なし)方針が良い、などという甘い言葉を信じてはいけない。昔から、ウィン-ウィンは虻蜂取らずになる、とされているのである。エネルギーを掴み取りして一時的にウィン-ウィンらしき結果を捻り出せば、必ずそのツケが将来世代に回って行くのだ。

虫のいい話しはない、孝ならんと欲すれば忠ならず、というパラドックスに会えば、孝か忠か優先順位を決めねばならないのである。経済発展がなくても人類は滅びない。環境が破壊すれば滅びる。となると、孝か忠か優先順位は自明であろう(パスカルの賭け)。ネルギー大量消費による贅沢な生活をやめる、つまりいわゆる生活レベルを下げるしかないのである。

借金のツケが回ってくるのは、ずっと先の話だろうと思っているのは勝手かもしれないが、夕張市は今破綻して市長の給料も大幅ダウンと聞く、それでも市長をやろうという人がいるのだから、全国的に、少なくとも少しでも借金のある自治体は夕張並みの給与にすべきではないのか?エネルギー大量消費による環境破壊のツケの問題もこれと同じなのである。今すぐ、給与ダウンに相当する、エネルギー消費のダウンを実行すべきなのである。

4.環境戦争、戦争だから乗用車製造禁止!

エネルギー浪費はケシカラン、といってもそれではどのようにして、それを止めることが出来るのであろうか? 省エネ活動というのが最近特に政府お声がかりで喧伝されている。しかしクールビズとか言ってネクタイを外してそれで免罪符を買った気分に国民をさせる。という程度の覚悟で環境が保持できるだろうか?二酸化炭素排出量の半減を声高に唱える人々の、提案、シナリオ、なるものを見ると、二酸化炭素排出量を例えば2030年頃までは上昇することを、仕方ない、として、それ以後に、省エネと技術革新を進めて2050年頃に今の排出量の半分にする、というようなものである。今すぐに二酸化炭素の排出量を低下させる断固たる行動をなぜ取るよう提言しないのか、と問うと、そんなことをしたら経済が混乱して景気が悪くなる、それは「非現実的」であるとの答えが返ってくる。薬を効かない程度の量だけ服用することが「現実的」なのであろうか? 今すぐに出来ないことを20年後に出来ると思える人にタタリ無きことを祈るのみである。

先日、アメリカの環境問題の研究と政策提言で著名な、レスター・ブラウン氏の講演を聞き、そのあとのパネル討論で話す機会があった。ブラウン氏が近著、プランB2.0に書いていることで、当日も講演した話の中で注目すべきだと思ったのは、環境問題解決には戦争に臨むほどの覚悟が大切である。という点である。彼はその例として、太平洋戦争にアメリカが参戦したときにルーズベルト大統領は即刻、GMとフォードとクライスラーの社長を呼びつけて、今後自家用車の製造を一切禁止する、その代わりに、戦車を作れ!と厳命した例をあげた。戦争とはそれだけの覚悟が無いと勝てないのである。この話しを今に当てはめれば、安倍総理がトヨタと日産とホンダの社長に、乗用車製造一切禁止、その代わりに発電用風車を作れ!というような事である。ブラウン氏の著書での自然エネルギーに対する評価にはかなり甘い面が見られはするが、本気で環境を考えるなら「環境戦争」とでも呼ぶべき戦争を始める覚悟が要る、という意見には賛成するしかない。

プランB2.0の中で、更に具体案として注目すべきなのは、例えばガソリン代がアメリカで今、2ドル(1ガロン)だが、実際に、石油産業への補助金や、二酸化炭素の増加にともなう環境破壊対策まで費用を計算にいれると、11ドルくらいが適正な価格であろう。という見積もりである。これはピグーというイギリスの経済学者が、厚生経済学、という本に書いた、外部費用の内部化、という考えに沿ったものである(A.C. Pigou, The Economics of Welfare, 1920)。つまり、製品の価格は、環境対策費から廃棄の費用など社会に及ぼす影響の全ての処置費用を、製造販売に掛かる費用に上乗せして決めて、消費者が払うようにする、とする考え方である。実際には二酸化炭素の環境への影響とその対策費など見積もる事は困難であろうし、二酸化炭素を全量回収、処理するならとても11ドルではすまないであろう。しかし、仮に11ドルでガソリンが売られるようになれば、風力とか、太陽電池などの自然エネルギーの価格競争力は大きくなる上に、個人も企業も競ってエネルギー消費の抑制に走るはずである。環境戦争の始まりはそのようなエネルギー価格の上昇から始めるのが実効のあがる戦術であろう。

環境戦争というものは戦争であるが、戦争する相手は実は自分自身なのである。ブラウン氏の著書の最後に、環境を守る行動をするのは、You and Me、と書かれているのはこの意味であろう。自分自身が身の回りの省エネルギーを始めよう、などと言っているのではなくて、肝心カナメのことは、エネルギー料金が10倍になる事を受け入れる、という覚悟を説く政治家をサポートすることが最も大切なのである。口に苦くても、良薬はこれしかないのである。

5.パラドックスをしのぐ方法、目的は何か?

持続的経済成長は破綻への道である事は明らかなのに、何故、世をあげて成長、発展がもてはやされるのであろうか?先述のブラウン氏も、著書の前書きに我々の目的は経済発展の維持である(our goal is to sustain economic progress)、と書いている。その理由は人間の本性として、発展、成長は肉体的、精神的な安定、安心感をもたらすからである。自転車は速度を増そうと頑張って漕いでいる時に安定で、惰性で進む時や、いわんや静止しているときには極めて不安定であるのが良い例である。しかし自転車を漕ぎ続けて無限に速度を増すことが出来ないのは、経済発展に限度があるのと全く同じ原理である。発展しないと幸福でない、発展は持続できない、これは最初に述べたパラドクシア・エピデミカの好例である。

なんとか、パラドックスをしのがないと人類の未来はない。という大変な事態になっているのだと我々は気づかねばならない、環境戦争、ということを言うのはそのためである。ドンバチやって人を殺す戦争も環境戦争も戦争は戦争だから腹をくくって覚悟してかからなければ、勝てない、この戦争は必勝を期さなければならないのである。

先述の通り、この戦争は我々自身が戦うのであり、また敵も我々自身なのである。しかも大変な覚悟と努力が戦いには要求される。具体的には、エネルギー節約を自主的にだけでなく価格の面から経済的に強制され、それを社会的には技術や政策で、個人的には生活の工夫でしのがねばならない。一般的にこのような事態が予測されると必ず、そのような生活は不仕合せを招く事に同じだ、との結論が出されて、やはりそれは実現困難で「非現実的」だと言われる。

しかしそのような結論が出されるのは、仕合せとか幸福とかについて、よく考えられていない為である。幸福についてアンケート調査などがよくなされるが、その時には必ず、あなたは満足していますか、という問がなされ、満足とか生活のゆとりが幸福と同等視される。もしこんな幸福の見方が正しいならば、人類の先には持続的経済発展による破滅しかない。

しかし幸いな事に、そのような幸福に対する見方は実は大間違いなのである。それは改めてここで説明するまでもなく、我々の祖先はとっくにそれに気づいて多くの言葉を残している。満足は後退、感動は前進なのである。何故そうなのか?という問の答えは簡単で、先の自転車の例えがそれである。満足とか、ゆとりは、自転車が目的地に着いて止まった状態であり、そうなると降りるか倒れるかである。その先どうする?となると一挙に人は不安になる。まさに、目的は目的である間は目的なので、達成されたら目的でなくなり、目的がない人は不幸のどん底に入るのである。

結論に入ろう、環境戦争はこれ以上タフな戦いがないほど大変な人類の努力を必要としている、つまりおそらく予測できる未来において、この戦争に最終的な勝利を得る見込みはない、けれども全力で戦いつづけねばならない戦争である。目的が目的でなくなる恐れもなければ、経済発展のように持続が破綻につながるものでも勿論ない、持続こそ最も要求される事であり、それは人間の本性に基づく幸福を我々に将来にわたって約束してくれるのである。

6.結言

パラドックスは実際には解消できないからこそパラドックスなのだが、自己矛盾が表面に出て破壊的な結果をもたらす方向から逃れる方便は取ることが出来る。環境問題と人間の本性の合致もパラドキシカルな問題であるが、それが合致した方向でなければ、効果ある対策は取れない。持続的経済成長の方向は破滅であり、環境戦争の方向は苦しくても仕合せの内に長続きするのである。


6:はんたかの奇跡 NPO法人たんなん夢レディオメールマガジンに掲載(2008、vol.8)

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おしゃかさまに、はんたか、という でしが いました。
はんたかは ものおぼえがわるく、そのうえ、
ものがよくいえませんでした。
おしゃかさまは、どうかしてはんたかを りっぱな人に
してやりたいと おおもいになりました。
そこでまいにち、かしこい でしを ひとりずつ、
はんたかのところへやって、
いろいろと、ものをおしえることにしました。
一年たちました。けれどもおぼえません。
二年すぎました。まだなにもおぼえません。
三年になりました。やはりかしこくなりません。
おしゃかさまは、
「では、わたしがはなしをしてみよう。」
とおっしゃって、 はんたかを およびになりました。
「はんたか、おまえは たくさんのことを 
おぼえなくてもよろしい。
ただ、ひとことを しっかりと おぼえなさい。」
はんたかは目をかがやかせて、
おしゃかさまのかおを みつめました。
「そのひとこと、というのは、きたないことばを
つかわない、ということだよ。わかったかい。」
はんたかは、このひとことを、
心の中にしまいました。
そのうち、きたないことばは、きたない心から 
うまれてくるものだ、ということがわかりました。
きれいなことばは、きれいな心から 
うまれてくるものだ、ということも わかりました。
「おしゃかさまの おしえてくださったことは、
きれいな心になれ ということにちがいない。」
とさとりました。
ある日、おしゃかさまは 王さまのおまねきに あずかりました。
おしゃかさまは たくさんの でしを つれて、
王さまのごてんにまいりました。
はんたかも、おしゃかさまの、 はち、をもって 
でしの 中にまじっていました。
ごてんの、いり口まできますと 門ばんが はんたかをみて、
「おまえさんのような おろかものは 
ここをとおすことはできない。」
といって、とおしてくれません。
しかたがありませんから、はんたかは門のそとに のこりました。
ごてんでは、おしゃかさまが せきに おつきになりました。
でしたちは そのわきにならびました。
そのときです。ふしぎなことに はちをもった手が 
するすると おしゃかさまの目のまえにのびてきました。
それをみた、ごてんの人々は、びっくりしてしまいました。
王さまは、
「これはふしぎだ。だれの手だろう。」
とおっしゃいました。
おしゃかさまは、
「これは はんたかの手でございます。あれは門のそとにいますので、
このはちを わたくしにとどけようとして 手をここまでのばしたのです。」
とおっしゃいました。
王さまはすぐ はんたかをおよびになりました。
はんたかは しずかにあがってまいりました。
はんたかのからだから きれいな光がさしていました。

昭和二十二年(一九四七年)文部省著作国語教科書、こくご3、第2学年用、11頁
はんたか(半託迦、しゅりはんどく、周利(梨)般(槃)特)。この教科書は、法句譬喩経述千品第十六という古いお経によっています。ほかのお経にも、いろんな逸話が書かれています。方丈記など日本の古典には、はんたか、がよく引用されています。‘みょうが’を食べると、もの覚えがわるくなる、という迷信も、はんたか、に由来しています。 このお経の‘決め’の文句「偈(げ)」には「解一法句 行可得道 (一つでも大切な法句を理解すれば、それを実行して道がえられる)」とあります。大切なひとことを理解したら、それでOK。いろいろ知識を自慢してもだめ、肝心のことをよく理解しなさい、という教えでしょうか?

エネルギー・環境の問題は人類がかって経験したことのない重大な危機であり、すべては我々人類自身が引き起こした事件です。その解決に “うまい方法” は無い。はんたか、の愚直な行いに学び,節約こそ最大の、唯一の方法だと知らねばなりません。最後に、天道もの言わずして国土に恵み深いことを実感できる装置を紹介しましょう。


太陽熱調理器 はんたか(愛称)

太陽光を薄型大面積レンズ(フレネルレンズ)で集めて、熱源に利用する操作簡便な器具、愛称“はんたか”
(1)太陽エネルギーの威力!! たった障子一枚の広さの日射熱だけで、立ちどころにポットで湯が沸く。
(2)太陽光閉じ込めの新工夫!! 受光加熱器具による加熱効率の大幅アップを実現。
(3)操作は至極簡単!! 片手で太陽位置を追尾できる、伝統的な自在鉤の原理を応用したメカニズム。
(4)調理鍋を手もとに置ける!! 透過光を集めるフレネルレンズ方式。
(5)持ち運び容易。丈夫で長持ち。安価!! 世界中の自動車の数(10億台?)より多く普及を!
(6)さらなる大型化も可能 !! 3.3メートル四方の大型装置を実証済み。世界に誇る実用的、焦点位置不動のレンズ式太陽光加熱器!!(注:太陽光エネルギーは1平米で約1キロワット)。

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世界の自動車(10億台?)より多く『はんたか』の普及を!

Written by Shingu : 2008年06月27日 11:47

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