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新釈:日本永代蔵(じぞくてきはってん) 1

エネルギー学会、エネルギー学部会講演会 「エネルギー学の深化」
於:東京都渋谷区、電力館、2008年6月27日

京都エネルギー環境研究協会 新宮秀夫

「天道もの言わずして国土に恵み深し、人は実あって偽り多し・・・」

西鶴の日本永代蔵が世に出たのは1688年:貞享5年すなわち元禄元年だった。元禄という年号は江戸の文化、いや日本の文化、いや世界の文化の一つの絶頂期といった印象を我々に与える。その頃はヨーロッパでも産業革命の前で、フランスのアビニオン地方の丘という丘の上に風車が回って小麦粉が挽かれ、風車を中心に村人たちが集まり、歌い踊って楽しんだ時代。その後、石炭エネルギーの利用が進み、ドーデーの小説によれば‘パリのいやな奴ら’が街道沿いに蒸気製粉所をつくり、村の活気が一気になくなって、ただ風が空しく吹くだけ・・・?となる直前、昔ながらの社会が最後にきらめいた時代だった。

天道、すなわちお日様は、つましく暮らせば十分の光エネルギーを恵んで下さっているのに、人々は不都合な真実が分っていながら、目先の欲にかられて、消費の活性化と環境保全の両立を空しく願望しながら、しかも経済の持続的発展、すなわち、もっとお金を、もっと豊かに、なれば幸福になるという妄想にとりつかれて、実は破滅へとまっしぐらに進んでいるんですよ・・・。 というのが日本永代蔵の冒頭の文章・・・? 西鶴は持続的発展が不可能であることなど百も承知で、世間の成功談、失敗例のドラマを展開してくれている。
今の社会はどうも元禄のころと同じく、いやもっと、もっと大きな、歴史的な大転換にさしかかっているのではないか? もし人類が生きのびるか、死に絶えるか、の境目にいるのだとしたら、黙ってはいられない。いかにして奇跡を起こせるか?考えてみよう。


目次
1:中学生にわかる、エネルギーとは何か?
  エネルギーの科学的理解:熱力学の3法則の知識なしにエネルギーを論ずることはできない。エネルギー、エントロピー、絶対温度、についての実験的感覚を示す。
2:幸福論の総括。
  幸福はすべての個人、社会の目的であるはず。幸福ということ、の総括なしに自然と社会との関係の根本を学ぼうとする、エネルギー学、は始まらない。幸福についての古今の記述を簡潔にサマライズして掲げる。
3:エネルギー利用の作法。
  人間社会の活動の場、としての地球のエネルギー事情の端的な提示。未来世代への責任を全うできるエネルギー利用のあり方、すなわち、エネルギー利用の作法を知る。
4:最大多数の最大幸福。
  功利主義は19世紀の遺物ではなく、現代社会の動きを支配する思想である。しかも現代では、単なる功利(効用;utility)でなく、限界功利主義(marginal utilitarianism)に陥っている。つまり、成長率維持の経済は限界効用維持と同等であり、破綻を前提としている。幸福の観点からも、最大多数の計算に未来世代をカウントすれば、この状態は維持不可能である。
5:環境と経済のパラドックス。
  環境(エコロジー)も経済(お金)も欲しい、それが出来る、というのは単なる願望であって、エネルギーの本質に立ち戻って考えるとその両立はパラドキシカルである。孝ならんと欲すれば忠ならず、という時には必ず優先順位を決めねばならない。経済が破綻しても人類は滅びない、環境が破綻すれば滅びる、となればどちらを優先するべきか自明である。これは、パスカルの賭け、すなわち期待値の応用であり、損失が無限の方に賭けるのは愚かである。
6:はんたかの奇跡。
 エネルギー・環境に関しては百の論議より実行あるのみ。今年、今から温暖化ガス排出を減少に向かわせることが出来ないで、2050年に半減できるか?環境問題には戦争と同じ覚悟が必要である。未来世代の為に身を捨てる覚悟で初めて奇蹟がおこせる。愚直に、節約は最大の資源である、という教えを守ることを、仏弟子、はんたか、に学ぶ必要がある。もっとも身近に太陽光エネルギーの能力を実感、利用できる装置を紹介する。


1:中学生にわかる、エネルギーとは何か?

京都府宇治市立木幡中学校体験学習資料(2005年)

○我々のいる宇宙の中にあるすべてのもの、万物、について考えてみましょう。すると、それらは、形がなくて考えの中だけにあるものと、形のあるものとに分けられます。(形而上と形而下)。
○熱、光、音、電気、仕事などは形が無いように感ずるけれども、量を計ることが出来るから、やはり形のあるものに分類できます。
○科学的にわかっていることは、形のあるすべてのものはエネルギーである、ということです。
○「エネルギーがすべて」ですから、その基本的な性質を知ることは人間の生活上とても大切なことです。3つの重要なエネルギーの性質があり、それらは次のように示されています。
1.エネルギーは、熱、光、音、電気、仕事など様々に変化しても、その量は変化しない(エネルギー保存の法則)。
2.エントロピーという、熱エネルギーを温度で割ったものを考えると、エントロピーは、どんな変化が宇宙の中で起こっても必ず増える(エントロピー増大の法則)。
3.エネルギーやエントロピーの量を測るには絶対温度零度を基準にしなければならない。
○これらのエネルギーの性質を理解するための実験モデルを考えてみましょう。
image004.gif図Aに示すように、80℃と20℃の同じ量の水があるとして、これらを混ぜ合わせれば、図Bのように50℃の水となります。今度は、図Aの80℃側の水から熱エネルギーを少しずつ20℃側の水に移動させ、理想熱機関を働かせて熱エネルギーを最大限度仕事のエネルギーに変換してやると、80℃側の水は冷めて行き、20℃側の水は温かくなって、最終的には同じ温度となります。その温度は48.6℃と計算できます。
エネルギー保存の法則によって、A, BおよびCの状態のエネルギーの量はおなじです。けれども、BからAには戻れない(エントロピー増大)けれども、CからAには戻れる(エントロピー不変)。この実験モデルは、世の中のすべての変化は、厳密には、元に戻れない事を教えてくれています。(AからBへの変化は、(80+20)/2 = 50、である。AからCへの変化の計算には、絶対温度を使う必要があり、  = 48.6+273です)。
○ エネルギーを“使う”と言うことは、太陽からくる温度の高いエネルギー(エントロピー小)を地球上で温度の低いエネルギー(エントロピー大)にして宇宙に返すことです。
○ その他に、石炭、石油、天然ガスなど、何億年も前に太陽から来た温度の高いエネルギーがそのまま地下にたまったものを、掘り出して温度の低いエネルギーに変えることもエネルギーを“使う”ことです。又、地球が出来る以前に生まれた、ウラニュウムなどの元素を破壊して、温度の高いエネルギーを取り出して“使う”事もされています。
○ 自然にはバランス(平衡)というものが成り立っていないと、人間の住む環境が変化して、大変住みにくくなります。それが環境破壊と呼ばれる問題です。太陽から毎年来る温度の高いエネルギーを地上で“使う”というサイクルの中で人間は太古から生きて来たのですから、それはバランスが自然に保たれるシステムだったわけです。
○ 石炭、石油、天然ガス、原子力のエネルギーは大変便利でありがたいものですが、自然のバランスを大きく乱すものです。将来も人間が住み易い環境に生きるためには、従って、なるべく我慢して、少しでも太陽から毎年来るエネルギーだけで生活するように心がけねばなりません。それは将来生まれて来る人々に対する礼儀です。我慢や節約の生活が困る、と思うのは間違いで、人間は本来使うべきでないエネルギーを大量に使って、安易な生活をするよりも、少し厳しくても我慢する生活のほうが活力が出て、幸せに暮らせるのです。


2:幸福論の総括 京都大学国際教育プログラム(KUINEP)2008年度秋期授業 Happiness シラバス 日本語版

幸福は象のように大きくて自分の経験だけからは想像しにくい側面もあるのだ、と思ってみるのがよさそうである。
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自分が触ったところ一箇所だけで象とは何かを主張する人を笑えるか? 葛飾北斎・浦上蒼穹堂蔵

自分の経験や身の回りだけを見て自分の幸福感を持つのは勿論勝手であり、それなりに良いものだが、他の人とコミュニケーションを持ち、より人間らしい幸福を得ようとするなら、人にも理解してもらえる幸福をさがしてみるのも良かろう。物事にはいつも自分の経験からは想像できない側面があり、自分の考えを人に理解してもらおうとするなら、いろいろな側面からものを考えることが大切になる。


この授業で検討すること:

1.幸福の4つのステージ:
1.楽しみを増やす。 2.楽しみの持続。 3.苦難や悲しみからの回復。 4.苦難や悲しみそのものにも幸福を見る。

2.幸福感と限界効用:
ウエーバー・フェヒナーの実験による、人の刺激(利得)に対する感覚が刺激の増加に対して対数関数(2倍嬉しいためには刺激は4倍)になっている事実。それが限界効用として経済学でいわれる、限りなく利得を求める行動の基本原理となっている(D.ベルヌーイのセント・ペテルスブルグ問題)。

3.功利主義の幸福:
最大多数の最大幸福。これが功利主義のキーワード。利得の増加すなわち幸福と考え、今生きている人だけの最大多数を数えてそれで良いか?

4.デボラ数と幸福:
人の噂も75日というように、何ごとにも過ぎ去る時間がある。それが緩和時間、τ。じっと我慢して待つ時間が観察時間、t 。
DN (= τ/ t) がデボラ数。デボラ数が1くらいになれば物事は流れ去る。 人生50年なら、50年の幸福があり、人類存続100万年なら100万年の幸福を考える、という事。50年は永遠でもあり、また一瞬でもあり得る。100万年もおなじ。

5.我々の住む宇宙:
空間、時間、物質。空間と時間は4次元の世界を作る。その中にいる我々と周りの全ては物質、すなわちエネルギー、というのが我々の感覚で捉えることの出来る宇宙。幸福と関係するのはこの世界のどれだけの範囲か?

6.パスカルの賭け:
二つの選択肢のどちらを選ぶべきか?神あり、と賭けて死後の天国を望むか、無しと賭けて地獄に堕ちる危険をおかすか?これがパスカルの賭け。 そんなズルイ賭けをして神を信じた振りをしても、神様はお見通しですゾ。とは、パスカルは考えなかった?! けれども神様以外の事にはこの賭けは有効。
幸福を求めて矜持(きょうじ)を捨てて金の亡者になるか、プライドにこだわり貧乏でも幸福になるか?日和見主義でそこそこ行くか?取り返しの効かない失敗の可能性を避けるのがパスカルの賭け。

7. 絶対という事は無い:
喜びだけあって悲しみなし。ということは、この世にも天国にもどこにも無い。不幸があるから幸福がある。絶対とは、対、つまり相手が無いこと。片手だけの拍手、隻手音声(白隠、禅公案)は絶対の音。 聞こえる、聞こえない!?

8. 想像できる幸福と想像を絶する幸福:
「仕合せな家庭はみな似たり寄ったりだが、不仕合せな家庭はそれぞれに不仕合せだ」 トルストイ、アンナ・カレーニナ冒頭の文章。人と同じである仕合せを選ぶか、人と違うことを幸福に思うか?「悲しみは笑いにまさる」 という言葉が理解できるでしょうか?旧約聖書、コヘレト。続きの文には「悲しい顔は、良い心をつくる」とある。幸福にはいろいろな側面があります。

9. 感動は前進、満足は後退:幸福になったらその後どうする?満足したら人はおしまい、という言葉は理解できる。

10. 幸福は個人的か普遍的か:幸福は個人的で、人それぞれである、と同時に人間すべてに普遍的な幸福の概念も考えられる。

11. 幸福には悪も必要?: 悪が世にあるのは、人を失望させるためではなくて、活気づけるためである。この世から悪を駆逐するために全力を使うことは、人の好むところであり義務でもある。そのような行動により、人はおのれの心を高揚し、より良くできるであろう。(マルサス、1798年)。

12. 命あっての物種(Primum vivere deinde philosophari):人類が存続してこそ幸福もある。環境保全を経済成長に優先させるべき?

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苦難からのがれようとして、人は苦難に向かって突き進む。
幸福を求めながら、まるで敵のように、愚かにも幸福を打ち壊す。
Santideva, "Bodhicaryavatara"(寂天、入菩提行論)


3:エネルギー利用の作法

エネルギー利用の作法:Discretion in Energy Utilization。エネルギーフォーラム誌 2007年12月号 

はじめに

ご飯粒を足で踏んだら‘罰があたる’という社会通念が一昔まえにはあった。今は‘賞味期限’が厳格になってコンビニでもファーストフード店でも、売れ残りは‘処分’すなわち廃棄しなければならない。日本国では約3000万トンの食糧を輸入していながら1500万トン以上を廃棄する事態になっているらしいが、その多さを実感するために日本全国の米の収量を調べると、今年はほぼ平年並みで873万トンと予想されている。つまり、お百姓さんが一年間に作るお米の倍近くの食料をゴミにしているのがわが国の現状である。こんな‘罰あたり’なことをしてどうなるのだろうか?‘もったいない’という言葉がポピュラーになりつつあるがこれは‘罰が当たる’と対だから、後の方を心得ずに使われると今一つパンチに乏しい印象である。
‘もったいない’を忘れた今の贅沢な浪費社会の維持は、安価で大量のエネルギー供給がなければ不可能である。エネルギーの大量消費に支えられた産業革命以来の物質文明の発達は、人類の英知による科学技術の輝かしい成果であると我々は思って来た。しかしこれからは‘何ごとも良いことばかりあるわけには行かない’という自然の法則を、エネルギーの利用について、特にはっきりと認識しなければならない。
科学技術による便利で物質的に豊かな社会の構築はそれに付随して、従来考えなくて済んだ大気汚染や廃棄物処理など、環境問題対策の必然性を生むが、その対策もまた科学技術の利用でしのごう、という考えが現在の社会の動きである。しかし、それは原理的に言ってオレオレ詐欺と同じ事で、不具合解消のための技術もまた不具合を生じ、その手当てのための技術もまた・・・となるのである。
 罰が当たるという感覚に頼って、人類は今まで何万年という長い歴史を、生活に必ず付随する環境への悪影響を少しでも減らしながら生き延びて来た。それに代わりこれからは、理性、端的には科学信仰に頼って行こうとするのは本来あやまりなのであるが、すこしでも豊かで便利な生活こそ幸福であるというメディアの扇動に惑わされて、切り替えを我々は急いであくせく暮らしている。本当は、人は不足においてこそ活気が出て、生き甲斐も生じ、満足すると元気が衰えて不幸になるのだ、という一昔前には常識であった感覚を失いかけているのである。
本稿は、エネルギー利用法についての我々が守るべき基本を今一度考え直して見ようとするものである。すなわち、芸術でも技術でも本来あるべき姿というもの、言い替えれば作法に適ったやり方があると見て、それではエネルギーの利用の仕方にも作法というべきやり方があるのではないか?ということ、その作法とはどんな事かを考えるのである。


1.地球のエネルギー事情

1.1 太陽エネルギーの量と人類の使うエネルギーの量

作法を考える前に先ず、人間にとっての地球のエネルギー事情の概要を把握することが大切であるので、概算を数字で示すと。




100,000,000,000,000 (百兆)kW :(太陽から地表に常時貰うエネルギー)
10,000,000, 000 (百億)kW : (人類が常時消費しているエネルギー)
1,000,000 (百万)kW :(大型発電所の発電量)

kW : 毎秒1キロジュールのエネルギーの流れ
1kWのエネルギーを一年間使うと、石油1トンの消費にほぼ相当する

端的に言って、太陽から地球に来るエネルギーの一万分の一程度の量を化石燃料と原子力を使って人類は消費している。一万分の一といえば少ないように聞こえるが、それは太陽エネルギーの下で太古から形成されてきた地球環境に余分な負荷をかけるという意味では決して少ない量ではないのである。

1.2 太陽エネルギー収集量、お米と太陽電池

1㎡当たりの米の収量は年間約530グラム、米の持つエネルギーはグラム当たり4キロカロリー(17キロジュール)、として、約9000kJの太陽エネルギーを米は取り込む。これを一年間の秒数で割ると、一年平均のエネルギー収量として約0.3ワット/㎡が得られる。太陽光の量は約1kW/㎡であるから、米は太陽エネルギーの約0.03%(300ppm)を一年を通じて固定するとことが分る。一方太陽電池は、効率13%、一日平均日照時間4時間として、おなじ太陽光から、約20ワット/㎡を固定する。
この試算では太陽電池は米を作るよりおよそ60-70倍も効率よく太陽エネルギーを取り込むことになる。もちろん米は大切な食糧であるから効率云々するべきものではないけれども、最近たとえばトウモロコシなどや場合によっては米もバイオ燃料の原料にしようという動きがある。これはエネルギー収量だけの視点からは大変効率の悪い技術であることがわかる。
それでは太陽電池で火力あるいは原子力発電設備一基分、百万キロワットの出力を出そうとするとどれだけの面積が要るだろうか?一平米あたり20ワットという上記の値を使うと、一平方キロ(百万平米)で2万キロワットとして、約50平方キロとなる。ゴルフ場は1か所18ホールでおよそ一平方キロなので、ざっとゴルフ場50か所に太陽電池を敷き詰めれば百万キロワットとなる。ちなみに日本全国にゴルフ場は約2400か所あるらしいので、これ全部に相当する広さの太陽光発電設備を作れば、なんとか現在の日本の原子炉(約50基)の発電量に近い電気を供給できる。
現状はどうかというと、太陽光発電の量は毎年伸びているとは言え、その総量は未だ世界の総消費電力の0.1%にも満たない。上記のように主要電力源として太陽電池が利用されるためには、とりあえず原料の太陽電池用シリコンの生産能力を現在の世界年産約3万トンの百倍以上にするという所から始める必要がある。
太陽エネルギーの量とそれをメジャーなエネルギー源として使うことの困難さと可能性を概観したので、次に化石燃料と原子力とによるエネルギーの浪費に依存する現在の社会あり方を改める工夫の一つとして環境税について考えてみよう。

2.環境税とエネルギー利用権取引

2.1 環境税の必要性

環境税は温暖化ガスの排出に関しておもに化石燃料の使用に関連して取り上げられている。では、原子力エネルギーは温暖化ガスを出さないので環境に絶対にやさしいか、というとそうではなくて、さし迫って使用済み燃料あるいは高レベル放射性廃棄物の処分場(保管場所と表現するのが適当だが、通称に従った)の問題を避けて通れない、これも確かに環境問題である。
余呉町や東洋町の記事を新聞で読むのはいかにもつらい。政府がお金を出して地方自治体が手を上げるのを待つという方式はどう見ても‘美しく’ない。お金で堂々と大人を釣る話は子供に説明できないのである。一方手を上げる町長も手を上げる限りは、地質調査の結果がOKと出たら処分場を引き受ける覚悟でなければおかしい。調査だけです、などと言うのは、お金だけ貰おうというずるい態度であって、これもまた子供に話せることではない。さらに、反対派の町長の態度もおかしい、廃棄物引き受け拒否を明言するなら、その哲学を明示しなければ反対の大義名分は立たない。自分の町には嫌だけれども他に行くなら結構、原子力発電した電気はバッチリ使わせて貰います。という話もやっぱり子供に話すことは出来ない。
公募に変えて「申し入れ」方式もこれから採用されるらしいが、申し入れ、という軟弱な態度でなく、原子力を国策とした限りは、命令でなければならない。国民がなにを選択するのか、という時点において、そこまで論議がなされているべきであったのだが、踏み切った限りは堂々と子供に説明できる筋を通すべきである。日本全国、東京都心を含めて、命令の可能性を承知したからこそ、原子力が国策となったのではないか?その政策を決めた国民(投票で政府を選んだ)には命令に服従する義務があるのである。
そして、原子炉の廃棄物の管理や炉そのものの閉鎖に伴う後処理などを子々孫々にまで文句を言われないように実行するには、莫大な費用が必要となるのだから、環境税はこれらに対しても温暖化ガス対策と同時に国民に対して課されるべきなのである。

2.2 世論調査の結果を考える

環境税についての興味ある意識調査結果を先日新聞で見た。地球温暖化などが具体化しつつある現状から、環境税に賛成する人が反対する人を上回ったというのである。くわしくみると、しかし、ひと月に千円以上負担が増えるのは困る、という内容である。要するに一般人は、月に千円程度よけいに払うだけで、冷房、暖房は今まで通りエンジョイできると考えているのである。
温暖化対策を真剣にやるなら、化石燃料の使用量はまず半分(1970年頃の使用量)に、次に又その半分というような決定的な決断が必要なのである。今の10分の1位にまで下げてようやく、自然の循環になんとかあわせて行けると見るのが、遠慮勝ちな見積りである。それを実現するには‘節約が儲かる’ように、環境税を利用してエネルギー料金を今の10倍にするくらいの覚悟が大切なのである。始めに書いたように、人は不足において活気がでて生き甲斐も生じ、満足において元気が衰えて不幸になるのだ、という原理によればそのような少ない(といっても公共の交通機関や最低限の暖房などは十分にまかなえる)エネルギー使用量にまで切り詰めることに問題はなにもない。メディアの取り上げ方一つである。
温暖化対策として原子力エネルギーを選ぶ人は5.5%しかいないが、その他の94.5%の人たちは温暖化も嫌、原子力も嫌なら、エネルギー使用量を今の10分の1に切り詰めて、本物の不足の幸せをエンジョイする覚悟がなければならないのである。それも嫌なのであれば、自然エネルギーに徹底的に切り替える決断が必要になる。ダムはムダ、などと格好をつけている暇はないのであって、水力を可能な限り利用、風力も景観に目をつぶって山という山に風車、太陽光発電のパネルは全国のゴルフ場を潰して敷き詰めるほどのことをしなければならない。
ちなみに概算すると全国のゴルフ場の広さに太陽電池を敷きつめる費用はおよそ300兆円かかる。同じ量の電気は原子炉50基で作れるから、こちらは、1基5000億円として25兆円である。廃棄物最終処分場を押し付けられるのが嫌なら、それだけの金額を負担する覚悟がいるのである。日本国には公式の借金が既に800兆円以上あるそうだが、こうなったら毒を食らはば皿まで、と居直ってあと300兆円払うのも良いかもしれない。これなら子供に堂々と説明出来そうではないか?

2.3 戦争に臨む覚悟と、民間でのエネルギー利用権取引

要するに化石燃料にしろ、原子力にせよ、自然エネルギーにしがみつくにせよ、エネルギーの節約は必須である。贅沢することが幸せではなくて、不足において元気がでる人間の本性をよくわきまえて
「節約は最大の資源」という標語をまず頭に入れて大切にエネルギーを使う習慣を社会通念にしなければならない。エネルギー・環境の問題は、サマータイムとかグリーン購入とか、免罪符のような小手先の工夫では抜本的な解決は望めない。それは上記の地球のエネルギー事情の概算からも明白である。今年5月に来日したアメリカの環境専門家、レスター・ブラウンの言葉を借りれば、環境対策は戦争に臨む覚悟を必要とするのである。「環境戦争」を戦う時の敵は我々自身であり戦うのも我々自身である(ブラウンの計算ではガソリンの値段は政府の補助や環境対策を計算に入れると実質現在の5倍以上して当然らしい)。
 節約を皆が競って実行するためにはエネルギー料金を10倍にするべきだ、とある会合で話したら、貧乏人は生活出来なくなるではないか、と質問された。これこそ待っていた質問である。電気料金を例にとると、全国民に一か月一人あたり50kWhまでは現在の20円/kWhくらいの低料金の権利を認めるのである。すると、節約して仮に月に10kWhしか消費しない人は、残りの40kWhをもっと電気の使いたい人に売れることになる。50kWhを超える料金を仮に1000円にしておけば、500円で売ったとして2万円の収入を得る可能性が出る。すなわち、エネルギー利用権取引である。これはホームレスの人に炊き出しをするより効果的な貧困対策ではないだろうか?取引を民間に任せれば、それで商売する人も出るはずである。

3.正法眼蔵にみる作法の真髄

 曹洞宗の開祖道元(1200-1253)の著作「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう、仏の正しい教えの真髄)」には「洗浄」の巻、というセクションがある。その本文冒頭に、「仏祖の護持し来たれる修証(真実実践)あり。いはゆる、不染汚なり。」とある。それにつづいて、作法これ宗旨なり、という語句が書かれている。「不染汚(ふぜんわ、ふぜんな):汚さない」ことこそ仏祖すなわちお釈迦さま以来仏教が守ってきた作法すなわち宗旨であるとは、これを読んだ時の驚きは忘れられない。洗浄の巻には、そのあと続けて、便所(厠)の建て方、その使用法、身を拭う方法にいたるまでが事細かに指示されている。最後には、寺院を建立するに際しては第一に厠の位置から決めるべきであり厠がきちんと建てられなければ、いくら寺院を立派に作っても仏心を広めるには不適当である、とまで述べられている。
仏教では他にも、般若心経には宇宙のすべて(諸法)は、不生不滅、不汚不浄、不増不減、というように、汚れるということに対する鋭敏な感覚が根本問題として取り上げられているのである。
このような見地に立つならば先述の、お米が太陽光エネルギーのわずか300ppmしか取り込まず、残りはひたすら原野を暖めている、という自然の‘節度’には深い意味が読み取れる。シリコン太陽電池を使ってその何十倍の‘効率’を上げる、という技術に感心してばかりはいられないのかも知れない。そして現在のエネルギー大量消費の社会を‘自然の一部としての人間’の生存条件にマッチさせる困難さも理解できる。
 お経だから信じるのではなく、自然の原理を注意深く観察した結果、エネルギーを利用するには‘汚すことが無ければ、浄化することもいらない’と見切っていると解する事ができるのではないだろうか?エネルギー消費量が少なければ、それだけ環境汚染は少ないのだから、エネルギーの正しい使い方の根本(エネルギーの正法眼蔵:つまり作法)は‘節約’である、とお経から学びたい。


4:最大多数の最大幸福 The greatest happiness for the greatest number of people。 開発技術 8号 (2002.6) 掲載

要約
最大多数の最大幸福、とは功利主義の中心標語であるが、今我々が直面しているエネルギー・環境問題に対してこの言葉から何を学ぶ事が出来るであろうか? 功利主義では、功利すなわち物やサービスなど、利益になることをより多く得ることが幸福であり、個人と社会の目的とされる。しかし、人間の欲望は限りの無いものであり、功利主義的にこの言葉を使おうとすると限度を超えた経済成長と、それに伴う環境の不可逆な変化による人間の生存に対する危険が避けられない。
功利主義的でない幸福をも我々は得て生きているのであり、さらに、最大多数という数の勘定を未来世代の人類の数まで入れて数えれば、この言葉の示す我々の取るべき行動は決して、エネルギーの浪費を省みない大量消費の生活すなわち目先の功利を求めるものではあり得ない。
本来使うべきでない化石燃料と原子力のエネルギーに、目先の功利の為に我々は手をつけていることを自覚せねばならない。少しでも、倫理感をもってエネルギー使用を考えるならば、エネルギーの有り難さを実感しつつ、みながエネルギーを使うようになる方策すなわちエネルギー価格が大幅に上がるような税制を実行することが、“現実的”な行動である。
老子45章にある「大直若屈(だいちょくは、まがれるごとし):本当に正しい意見は、間違っているように見える」という言葉をかみしめて、現実的行動を取らねばならない。
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1 緒言
持続的経済成長こそが「最大多数の最大幸福」をもたらす。このような文章で締めくくられた論説を最近読んだ。経済に関して最近書かれる意見は、消費の活性化すなわち、どうしたら国民がどんどん物を買うようになるかを論じているものが大半である。
経済成長の持続は原理的に不可能である事は、既に1970年代から、「成長の限界」というローマ・クラブのレポートや、H.デーリーの「定常経済学(Steady- State Economics)」などの出版物によって明確に示されている。人類の未来を考えれば、明らかに正しい意見がなぜ脇に追いやられて、少し真剣に考えれば決して辻褄の合わない、限界の決められていない成長を前提とする“経済学”が堂々と通用するのだろう?
本稿では、前述の論説の基調である、経済成長の持続が「最大多数の最大幸福」につながる、という考えがどれだけの根拠をもっているのかを検討し、果たして、経済成長の持続が将来の破綻を覚悟してまで我々が追い求めるべき重要性のあるものか否かを論ずることを試みる。

2 言葉の元祖:ハチソン
「最大多数の最大幸福」という言葉は、道徳哲学の教授だったフランシス・ハチソン(Francis Hutcheson)が,著書「美と徳の概念の起原:Inquiry into the Original of our Ideas of Beauty and Virtue(1725)」に書いたのが始めだとされている。ハチソンはそこに、「人の行動は、最大多数の最大幸福を得るものであれば最良であり、惨めさを与えるものであれば最悪である(Action is best, which procures the greatest Happiness for the greatest numbers; and that, worst, which, in like manner, occasions Misery)」と書いている。 ハチソンの他にも、この言葉の元祖として、ベッカリーア:「犯罪と刑罰(1764)」、プリーストリー:「First Principles of Government and …(1768)」などが知られている。
ハチソンは人の行動の善悪を基準を決めて判断する事を試みようとしたので、初期の功利主義者であると見られるようだ。しかし、ハチソンは、人の行動の動機は生来(innate)の他人をも思いやる気持ちに根ざしている、という孟子の言う性善説的な信念に立つ人だったらしい。その点では、人の本性はおのれの利を優先するものだと見る荀子や楊子の申し子のような人物、例えば、リバイアサンを書いたホッブス、蜂の寓話のマンデビルや、ハチソンの生徒だった道徳感情論、国富論のアダム・スミス、人間本性論のヒューム等とは際立って異なる立場に立っている。
ハチソンの一世代あとのベンサムによって定義づけられ、J.S.ミル等によって広められた功利主義が、功利(utility:ふつう効用と訳される)すなわち何か利益になる事を行動の目安にするという意味において一般化して、今でもそのように解釈されている事をみれば、ハチソンも自分の考え出した言葉が功利主義の標語となっているからと言って、功利主義の元祖だと言われたくは無いかもしれない。

3 功利主義(utilitarianism)の考え方
功利主義とは先述のとうり、ベンサムが主著「道徳と立法の原理」の冒頭に、これは「最大幸福原理:the greatest happiness principle」を求める主義である、と述べてはっきり定義づけている。ベンサムは誠に痛快な人物だったようで、理想的な刑務所の設計をやるかと思うと最低賃金、健康保険、老齢年金など社会福祉のアイデアを出すなどもしている。
ベンサムによれば、幸福はひとの感ずる“快(plesure)”の量によって“計る”ことが可能であるとされる。恋をして楽しい、食べておいしい、試合に勝ってうれしい、などの感情はすべて人間に快を与え、したがって幸福の計算に加算し得るものであり、痛い、寒い、空腹などは惨めさを与えるから減算される。こんな計算を真面目に試みようとするほどベンサムは無邪気な人物だったようだが、これらの快を幸福として、それらを増すことを社会の目的としよう、という主張は、確かに判りやすい。
しかし功利、効用(英語ではどちらもutility)を増すことが社会の、そしてそれを構成する個人の行動の判断基準である、という見方は社会の経済活動の規模のまだ小さかったベンサムのころすなわち産業革命が行き渡る前(19世紀初め)までは、社会の動きに大きなインパクトを与えていなかったと見られる。それは言いかえれば、古典派経済学の範囲で功利主義を考えてみればわかる。
物やサービスの効用(utility)は古典派経済学的には、当然、それらの持つ本来の効用として捕らえられる。例えば、コップ一杯の水の効用は自宅の居間でも、砂漠の真ん中でも体への効用は同じはずである。だから本来の効用を求める事が幸福につながる、とする功利主義を古典派経済学の範囲で解釈出来れば、一杯の水は居間でも、砂漠でも同じ幸福を与えてくれることになる。そうであれば、物やサービスを求める人の気持ちは、その効用が満たされればそれで満足して、更に求める行動は起こさないであろう。最大多数の最大幸福という言葉の幸福を功利(効用)と置いても、問題無さそうにも思える。

4 限界効用(marginal utility)と功利主義
人の求める効用はしかし、物やサービスの本来の効用ではなくて、限界効用である、と言い始めたのが新古典派経済学の人々だった。その定義は、ゴッセン、ワルラス、ジェボンズ、メンガ-、達に帰せられている。 この限界効用(marginal utility)という言葉は日本語では大変わかり難い。限界(マージナル)と言う英語は、余分の、とか、付け加わった、という意味だから、限界効用は、物やサービスが得られたときに、それが本来もつ効用の外にある有り難さ、みたいなものと言える。
砂漠の中では水は乏しい、皆が水を欲しがる、値段が高い、すなわちコップ一杯の水の限界効用は大きい。しかし、乏しさ(scarcity)が無くなれば、たとえその本来の効用が如何に大きなものでも、限界効用はゼロになる。レストランで水がタダであるのは限界効用がゼロである事を示している。
こんなに簡単なことを何故ここで取上げて説明したかと言うと、限界効用は幾らでも人為的に作り出すことが出来る点に大きな問題を含んでいるからだ。限界効用の概念の明確な提示は新古典派経済学の人たちのやった事だが、古典派経済学の本家のアダム・スミスは国富論の中に、水とダイヤモンドの値段の違いの意味や、穀物の需要と供給の差による値段の変化について自然価格と市場価格(natural and market price of commodities)という言葉で既に実質的には限界効用の意味を理解していたと見える。
何故、限界効用の概念が新古典派によって示された時に、限界革命、とまで呼ばれるほどに持てはやされたのかと考えると、それはその頃(19世紀後半)に至って、産業革命がヨーロッパ、アメリカでいきわたった為だと理解できる。すなわち、産業革命によってもたらされた、有り余る生産物、それを作り続ける工業力を処分するには、人々の大量消費の意欲、願望が必要となった訳である。物やサービスの本来の効用は直ぐに満たされてしまう。したがって、生産が追いつかない状態をいつも作り続けねばならない資本主義経済としては、幾らでも人為的に欠乏を作れる限界効用ほど有り難いものはないことが判ったのだ。
人が生存してゆく(subsistence)為に必要な効用などは、産業革命によってもたらされた生産性向上のおかげで容易に満たされるのだけれども、それでは資本主義は成り立たない。より速く、より暖かく、より快適に、よりおいしく、隣よりリッチに、科学の進歩は人類の使命です、などと、不足、欠乏を作る理屈づけは極めて容易である。限界効用と「最大多数の最大幸福」の看板によって、資本主義経済は時々不況にあってもすぐに“回復”し、どんどん成長出来て安泰でいられるという“お墨付き”が限界効用の理論だといえる。
産業革命は、石炭エネルギーのフル活用のお陰によるすべての産業における生産性の飛躍的な増大をもたらした。人がそれまで10日掛かって作れた物が1日で作れることになった時にどうなったかを見るのは興味深いことだろう。人が必要とする本来の効用(功利)がやすやすと手に入ることになった時に果たしてベンサムやJ.S.ミルが夢見た「最大多数の最大幸福」がもたらされただろうか。答えは歴史の示す通り、NO!だった。
人が利を求める欲望に限度が無い事は、例えば徒然草217段に見える仏教の言葉「所願無量」などに昔から書かれてきている。このような人間の本性が、産業革命後の大量生産大量消費社会を支える力となっているのだが、新古典派の示した限界効用の概念はそのメカニズムを上手く説明してくれた事になる。つまり、功利主義は本来の功利主義から“限界功利(効用)主義(marginal utilitarianism)”となったと言える。そして、次々と新しい欠乏を、人の競争心、見え、新らしいもの好き、などの心を煽ることによって作り出し、20世紀の社会の動きを支配して来た。20世紀を通じて、社会は決して満たされる事の無い「最大多数の最大幸福」を看板に掲げてどんどんと生産性を向上させ「供給が需要を作る」というセーの法則を実証しつつ物とサービスを供給しつづけてきた、と見る事が出来る。

5 看板の問題点
“限界功利主義”的な「最大多数の最大幸福」を看板に掲げる事には人類の存続を考慮すると物理的に問題がある。すでに前節にも触れたように、人為的に欠乏を作り続ける事は、限度の無い経済成長につながる事である。産業革命を支えたのは、石炭エネルギーの大量利用だったが、20世紀の経済を支えたのは、石油、天然ガス、原子力のエネルギーだった。これらのエネルギーの利用に伴う廃棄物の自然環境への影響の大きさが人間の生存に不可逆的なダメージを与え始めていることは、身の回りの環境変化、例えば林の立ち枯れ、海岸の汚れ、ゴミの量などを見るだけでも実感できる。廃棄物を技術の力で何とか出来るなどという言葉を決して信じてはならない、科学者、技術者は如何に自分達がわずかしか知らないかを知っていてこそ本物で、自信の有るようなことを言うのはニセ者なのだ。
いろいろな環境のデータがあり、それは重要なものであるが、その解釈をあれこれ検討して、まだいける(あと何年くらいは今のようなエネルギー利用法を続けても良い)と判定をする学者もいる。しかし、もしその判断が間違っていたらどうなるか。大切なのは、今エネルギーの使用量を半減すれば、今まで人類が生きてきた歴史の延長上での生存が可能だが、このままのエネルギー使用をつづけ、更にそれを増やそうとすれば、何が何時起こるか判らないということである。
“何が起こるか判らない事はやってみるべし”という、時には有効な格言も、起こってしまえばそれで人類がお終いになる問題には適用をすべきではないだろう。使用エネルギーの半減とは、日本で言えば1970年代の初め頃のことを指す。本当はそれでも使いすぎなのだけれども、まず目標をそのへんに置くのが良かろう。

6 “最大多数”の数え方
前節の続きを考えると、「最大多数の最大幸福」という時の、最大多数、をどう数えるかが問題となる。エネルギーの大量使用、大量消費は我々に安易な生活をもたらしてくれる事は確かである。それが幸福につながるのか否かは次節に考えるとして、仮にそれが功利主義の目的と合致するとしても、我々の世代の人類の数だけ、それも先進国と呼ばれる国に住んでいる人だけを数えて、幸福な人の最大多数を計算するのは、誰にも納得できそうにない。
人類が今後仮に1000年生存するとすれば、現人口の数十倍の未来世代の人々の幸福も数えねばならないだろう。10,000年生きることが出来ればもっと多くの人数が幸福にならないといけない。エネルギー大量消費社会は、人類の“お終い”を早めそうなので、どうも看板の中の「最大多数」の部分には合致しないようである。 環境税の先駆者で「厚生経済学」の著者ピグーは、目的地に一刻も早く着こうと速く船を走らせるために石炭を多く焚けば、それだけ未来世代の人の命を縮めているのだ、と書いている。鎌倉時代の西園寺公経の歌「山ざくら峰にも尾にも植ゑおかん 見ぬ世の春を人やしのぶと」も、わざわざ植えるのはどうかとも思うが、「見ぬ世の春」すなわち自分は見ることのない、未来世代の人が見る春のことを気にしている点で、最大多数の勘定の仕方を心得ているように読める。

7 幸福ということ
最後に、看板の一番肝心な所である「最大幸福」について考えねばならない。功利主義では先述のとうり、快をより多く得ることが幸福とされている。確かに、人間の本能に根ざす、恋、富、名誉、を得る快は幸福感を与えてくれる事は万人が認める。しかし人間には、苦しみや悲しみを経験しないと判らない幸せ感のある事も、皆が認める事である。むしろそのような幸福感の方がより強いものだ、という人も多いだろう。
さらに深く考えると、悲しみや苦しみの中にさえ大きな幸福があり得ると言うことにも考え至る。誰一人として、進んで、慰められる事の出来ない悲しみや苦しみを得ようとはしないし、全力をあげてそれを避けようとする。しかし、運命によって、また確率的に、世界の50億以上の人のある割合は必ずそのような状況に直面する事を避けられない。不運な人はしかし、不幸な人では無い。世界のどの宗教もその教えの中心には、このことを説いている。
このように見てくると、功利主義の目指す最大の功利を人に与えることが必ずしも幸福にはつながらないか、それは幸福とは無関係であるように思える。幸福は、功利主義に基づいて経済学者が助言して景気がいい社会を実現することとは関係ないことになる。しかも前節で勘定したように、景気のいい、大量消費の社会は、最大多数が幸福を得る機会を減ずる可能性を持つことを考えれば、達成しても幸福と関係のない看板は、少なくとも経済の目的としては掲げる意味は無いといえる。

8 エネルギーの値上げが“現実的”
「最大多数の最大幸福」の看板はいいとしても、それを功利主義的に解釈してその為に景気が良くないといけない、と考えるのは全くおかしい、ということが以上で明らかになったけれども、さて、それではその看板をどう見て、どんな具体的行動をすればよいのだろう?
 省エネルギーに励み、節約の生活をしなさいと個人に説得することには限界があろう。我々の現在利用しているエネルギーの料金は、ガスにしろ、電気にしろ、あまりにも安い。こんなに安くエネルギーが使えるのに、それによって得られる安易な生活を止めなさいと言われても、先ず筆者自身にとっても、それは難しい。しかしエネルギーが安価である事には全く何の根拠も無い事を我々は認識しなければならない。
19世紀の終わりに、エネルギー学(熱力学)を確立した人びとの一人で、エントロピーと言う言葉を考えたクラウジウスは「人類は太陽から来る光のエネルギーだけで生きていくように運命づけられている、科学がいかに進歩しても新しいエネルギーを作り出す事は不可能なのだから」と書いている。太陽エネルギー以外のエネルギーは環境を乱すことなく利用は出来ない、という意味において、それらは如何に容易に手に入っても、本来使用すべきでない禁断のエネルギーなのである。
 皆が否応無しにでも省エネルギーをするようにしなければならないことが至上命令であるときにどうするか? エネルギーの値段を大幅に上げるのが一番有効であろう。それは環境税などでなされることになろうが、今論議されているような、どれだけ税金をかけても景気に影響がないか、という考え方ではだめである。どれだけエネルギー使用量が下がるかをモニターしつつ税金をコントロールする方法、すなわちボーモル・オーツの言うような試行錯誤の方法でないといけない。
エネルギー・環境問題にとっては、節約こそが最も大切な行動である。「最大多数の最大幸福」のためには大量消費を背景にした成長経済が必要だ、という“限界功利主義”の間違った解釈に惑わされてはならないことを理解してほしい。それが本稿を書いた目的である。


参考文献

1 ハチソン:「美と徳の観念の起原」山田英彦訳、玉川大学出版(1983)、Francis Hutcheson : Inquiry into the Original of our Ideas of Beauty and Virtue(1725).Georg Olms Verlag(1990) 164頁。
2 ベッカリーア:「犯罪と刑罰」、風早八十二、二葉訳、岩波文庫(1938)、20頁。Cesare Bonesana Beccaria , Dei Delitti e Delle Pene (1764).
3 Joseph Priestley : An Essay on the First Principles of Government and on the nature of Political, Civil and Religious Liberty (1771), Cambridge Text in the History of Political Thought Ed. P.Miller (1993), pages 13, 46. 初版(1768)。
4 ベンサム:「道徳の原理」、堀秀彦訳、銀座出版(1948)26, 316頁。Jeremy Bentham : An Introduction to the Principles of Morals and Legisration:Clarendon Press Oxford (1996)
5 J. S. Mill :「Utilitarianism」George Routledge and Sons, London,12th ed. Page13. 初版(1863)。
6 河合榮治郎:「社会思想家評伝」日本評論社(1946)、25,26頁。
7 Herman Daly:Steady State Economics: 2nd Edition with New Essays. 1991.
8 D.H.メドウズ、D.L.メドウズ、J.ランダース:大来佐武郎監訳「成長の限界(1972)」、茅陽一監訳「限界を超えて(1992)」、ダイヤモンド社。
9 ピグウ:「厚生経済学I」気賀健三他訳、東洋経済新報社(1953)28頁。
10 石 弘光:「環境税とは何か」、岩波新書(1999)80頁。
11 新宮秀夫:「幸福ということ」、NHKブックス(1998)、「黄金律と技術の倫理」:開発技術学会叢書 (2001)

→新釈:日本永代蔵 2へ

Written by Shingu : 2008年06月27日 10:56

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