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<title>京都エネルギー・環境研究協会■エネカン■</title>
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<title>皆が正しい　ホッジャさんのお話</title>
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<modified>2009-01-17T07:13:46Z</modified>
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<summary type="text/plain">（丹南ＦＭマガジン原稿） 2008. 11. 30 学力が全国一の福井県ですが、...</summary>
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<![CDATA[<p>（丹南ＦＭマガジン原稿） 2008. 11. 30</p>

<p>学力が全国一の福井県ですが、トルコはどこにある？と中学生に聞いて正解が何％くらい出るでしょうね？　そのトルコで有名な13世紀頃の人物、ナスレディン・ホッジャさんのお話しです。ホッジャさんはイマムという身分、想像するに日本なら、お坊さまのように人々の相談や指導をしていたようですが、どちらかと言うと滑稽な逸話が多くてそれらを集めた本も出ています。</p>

<p><img alt="hodja.gif" src="http://www.enekan.jp/archives/images/hodja.gif" width="250" height="273" align=left hspace=5 vspace=5/><br />
あるときホッジャさんは土地争いの裁判をすることになりました。<br />
Ａさんが先ずやって来て、細かく自分の言い分を述べ立てましたが、ホッジャさんはそれを丁寧に全部聞いて、<br />
「なるほど、お前さんの言い分は全く正しい」と告げましたので、Ａさんは大喜びで帰っていきました。<br />
それを聞いた相手方のＢさんは、大慌てで即刻ホッジャさんの家に来て、自分の言い分を存分にまくし立てました。ホッジャさんはそれを丁寧に全部聞いて、<br />
「なるほど、お前さんの言い分は全く正しい」<br />
と告げましたので、Ｂさんも大喜びで帰っていきました。<br />
今度は、一部始終を後ろの部屋で聞いていたホッジャさんの奥さんが「ねえ、あなた、二人とも正しいことは無いはずでしょう？」と言いましたが、ホッジャさんは妻の言い分を丁寧に聞いて、<br />
「そのとおり、お前の言い分は全く正しい」と言ったのでした。</p>

<p>　皆が正しい、は、皆が正しくない、と同じになってしまう？　ホッジャさんの奥さんが、おかしい、と思うのは当然ですが、このお話しが何百年も語りつがれて、今ではインターネットで、Everyone is right.　というキーワードですぐにホッジャさんがヒットするなんて面白いではありませんか？<br />
　我々は日常、物事を正しい、正しくない、といつでも判定できるような気持ちで暮らしていますが、よーく皆の意見を、先入観なし、わだかまりなし、義理なし、見得なし、損得なし、無理なし、の六無（ろくむ）の心境で聞けば、やはりホッジャさんの発言を、やむなし、と思うのかも知れませんね・・・？。<br />
　新聞などをその気で読めば、具体例を挙げると差し障りがでるほど、あれもホッジャ、これもホッジャ、の記事ばかりだと思えませんか？“矛盾”は世の中にあまねく憑在（ひょうざい）しているようです。</p>

<p>蛇足<br />
１　逆に六有（ろくう）が我々の判断を可能にしているのか？！　裁判員に当たりませんように！<br />
２　憑在、ふだんは存在が見えなくても、幽霊のように何処にもいる？ </p>

<p>京都エネルギー・環境研究協会　<br />
　新宮秀夫</p>]]>

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<title>皆が正しい－２</title>
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<modified>2009-04-14T01:24:56Z</modified>
<issued>2009-04-14T01:23:09Z</issued>
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<summary type="text/plain">(財）若狭湾エネルギー研究センター　所長　新宮秀夫 本誌の前号に書いたナスレディ...</summary>
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<![CDATA[<div align=right>(財）若狭湾エネルギー研究センター　所長　新宮秀夫</div>

<p>本誌の前号に書いたナスレディン・ホッジャさんの“皆が正しい”お話が結構うけたので、趣向を変えてもう一度なぜ、皆が正しい、ことがあるのか考える事にしました。</p>

<p>今年はチャールズ・ダーウィンの誕生200年だそうです。進化論で名高いダーウィンですが、その進化論の書かれた書物が「種の起源：オリジン・オブ・スピーシーズ」です。これ読んだ人手を挙げて下さい、といわれて手をあげる人がこの、学力日本一、の福井県でも何人いるでしょうね？</p>

<p>もちろん私も十数年前までこの本はタイトルしか知らなかった。アメリカでは国民の半分以上が進化論を信じていない、という記事が時々新聞などに出るので、そこで一発、原文を確かめようと大判のペーパーバック、厚さ4センチメートルもある本にチャレンジしてパラパラ読み飛ばして、この本の肝心要（かんじんかなめ）の一言を本の最後の最後の5行ほどの中に発見しました。</p>

<p>「生命についてのこのような見方は壮大なものである・・・」という出だしのこの文章は丸暗記に値する名文ですが、どんな見方かというと、生命は最初たったの一個であった、と書いているのです。それが今、世界中にある多種多様の、かくも美しくて素晴らしい生命に進化したのだ、という見方です。</p>

<p>最初は一個って、これマジで考えるとすごいことなんですね。動物も植物も生きとし生けるものみーんな、です！　進化ってことから考えると、人には誰でも父母がいる、父母の父母は4人、父母の父母の父母は8人・・・です。そう数えて、源氏物語が書かれた紀元1000年頃まで遡ればご先祖様の数は約一兆（百万の百万倍）人にふえる。でもあの頃の人口はせいぜい多くて数百万人。だから、明らかに、あの頃の人は、みーんな私のご先祖様、となります。現代人は誰でも私の体にも紫式部の遺伝子がある、といって間違いないワケ。進化論に従って、どんどん行けば30億年位（？）溯るとオレもオマエも猫も犬も草も木も、みーんな共通のご先祖様である一個の生命に行き着く。</p>

<p>で、話は聖書、バイブルに飛びます。私を含めてクリスチャンでない人々も聖書のはじめには人類の祖先アダムとイブのことが書かれているらしいことは知っています。で、アダムが人類の祖先、これはたった一人の人です。その人は土くれから、神様がお創りになった。イブはアダムのあばら骨からそのあと造られた。そこを読んでみて妄想力に優れる私には「なんやこれ、ダーウィンはこれをマネして書いたのかいな」と思えたわけです。</p>

<p>急転直下結論ですが、アメリカ人半分が進化論を信じない、ということを驚くには当たらない。進化論と聖書とには同じことが書いてあるんだから、今さらダーウィンに教えてもらう必要ないわけでしょう。くわしく見ると違う、草や木が人より先に造られてる・・・、なんて細かい‘科学者’ぶった先生達が何をおっしゃろうと、人の最初は一個、というスタートなら、それがアダムであろうが、単細胞ともいえないカソケキ生命であろうが一個であることだけが重要なのですから、そこにある生命の哲学に変わりはありませんね。ホッジャさんの裁判ならかならず、聖書も正しい、進化論も正しい、つまり「皆が正しい」ことになる、というのが今回のお話でした。</p>

<p>(丹南ＦＭラジマガ　2009 vol. 13 掲載)</p>]]>

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<title>月光で文字を読む</title>
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<modified>2009-04-14T01:30:36Z</modified>
<issued>2009-04-14T01:27:52Z</issued>
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<summary type="text/plain"> はんたか1.5号　70cmｘ100cm　フレネルレンズで集光した月光で和泉式部...</summary>
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<![CDATA[<p><img alt="izumi.jpg" src="http://www.enekan.jp/archives/images/izumi.jpg" width="200" height="260" align="left" hspace=20/></p>

<p>はんたか1.5号　70cmｘ100cm　フレネルレンズで集光した月光で和泉式部の短歌が読めました、達筆が月の光で更に達筆にみえますね。京都市下鴨、09年4月11日午前2時半頃。朧月、月齢15（満月）絞り5.6でシャッター速度0.5秒位。写真は、ぼぼ実視の明るさを再現している。短歌の下には木の葉の陰が写っている。　色紙のサイズは葉書大。</p>

<p>太陽光調理器“はんたか”　については、下記ご参照下さい。<br />
<a href="http://www.enekan.jp/archives/2008/07/post_38.html">http://www.enekan.jp/archives/2008/07/post_38.html</a><br />
<br clear=all></p>]]>

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<title>『はんたか』実演ムービー</title>
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<modified>2010-01-27T06:43:08Z</modified>
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<summary type="text/plain">福井県の若狭湾エネルギー研究センターでの、小型太陽炉はんたか２号（1.4kW）の...</summary>
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<![CDATA[<p>福井県の若狭湾エネルギー研究センターでの、小型太陽炉<strong>はんたか２号</strong>（1.4kW）の実演風景です。<br />
操作しているのは、エネカン理事：大西東洋司氏です。<br />
釘をも溶かす太陽のエネルギーをごらん下さい!!</p>

<p><a href="http://www.enekan.jp/movie/hantaka.mpg">動画ファイル　56.1MB　mpg</a>非常に重いです。リンクを右クリック→ファイルに保存　でダウンロード→再生　を願います。</p>]]>

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<title>ギリシャ悲劇　（丹南ＦＭラジマガvol.18に掲載）</title>
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<modified>2010-07-28T13:15:37Z</modified>
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<summary type="text/plain">ギリシャという遠い国の経済破綻は対岸の火事ではない、と新聞に書かれていたが、果た...</summary>
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<![CDATA[<p>ギリシャという遠い国の経済破綻は対岸の火事ではない、と新聞に書かれていたが、果たしてギリシャは遠い国だろうか？　中学で習う円周率、つまり円周の長さは直径の3.14・・・倍、それはπ（パイ）と呼ばれるが、πはギリシャ文字である。小学2年生の国語の教科書には漢字表があって、空、月、犬、見・・・と沢山の字が並んでいるが、これらは中国語、である。人間はたったの2000年そこそこの間に、地球のあちこちで、それぞれに考えだした“文化・知識”をごちゃ混ぜに、誰もかれもが当たり前に利用する状態に到達してきたと見れば、遠い国なんて今は無いという気もする。</p>

<p>　新聞には、いつ我が国も悲劇に見舞われるか分からないゾ、日本の借金はギリシャの10倍もある、と書かれていた。で、どうすりゃイイんや？という意見は書かれていない。こんな事態になっていますョ、とだけ書けば良いのが当今の新聞の論説らしいから、これは楽な商売だな、という気がした。</p>

<p>　やるべき事は、消費の活性化などと言って、使えるものを捨てて、要らない物を買うことを政府が煽って、エネルギーの無駄遣いをし、経済界の安易な儲けを保護して来た悪習を絶って、倹約を基本とする、地道な経済に戻す事である。これは明らかだけれども、新聞の論説はそれを書か無いから、いつも尻切れトンボの記事になる。</p>

<p>　そもそも、ギリシャはお金持ちの国だと思っていた。オナシス何とかさん、は世界の海運を牛耳る大金持ちでアメリカ大統領未亡人を妻にして・・・。なんていう、おとぎ話を聞いている身として、なんでギリシャが経済破綻している時にそんな大金持達が出動して祖国を救わないんやろうか？と思える。けれども、それがビンボー人の発想であるらしい事は、先般のアメリカ金融会社の破綻の時に、政府がなん兆円というお金（税金）を大会社に供給して救済したのに、その会社の社長達はそれぞれ何百億円のボーナスだか年俸だかを貰って平気だったらしい事を見ても分かる。</p>

<p>ホームレスがスーパーで100円の握り飯を盗んだら警察に捕まる。100億円国民の税金を横取りしても、プール付きの別荘でのんびり暮らせる。墨子という中国の先生に「少見黒曰黒、多見黒曰白」（一寸だけの黒を見たらそれを黒だと言い、沢山の黒を見たらそれは白だと言う）という言葉がある、社会の動き方は2000年前も今も基本的には同じらしい。</p>

<p>　ところで、ギリシャ悲劇といえば、元来、経済の話ではなくて古代ギリシャの劇の事である。アリストテレスによれば、劇（ドラーマ）は悲劇こそ優れた人物を描くもので、喜劇はより劣った人物の描写だそうである。儲けに目がくらんだ、より劣った人達によって引き起こされ経済破綻は、勿論、喜劇と言われるべき事である。</p>

<p>経済破綻の喜劇をまた頑張って元に戻すのは結局、倹約を尊ぶ「正直でよく働く人たち」であることは間違いない。不平は山ほどある、しかしながら“ギリシャ悲劇”によく登場する、正義の女神（ディケー）は、すべてを見ておられて、誰が儲かるかとは関係なく、誰が幸福になるかをお決め下さるのである。<br />
</p>]]>

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<title>辻村公一先生と第一哲学</title>
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<modified>2010-09-25T06:22:02Z</modified>
<issued>2010-09-25T05:52:12Z</issued>
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<summary type="text/plain">哲学者の辻村公一先生が去る5月28日に亡くなられた。一言、感慨をのべたい。他の分...</summary>
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<![CDATA[<p>哲学者の辻村公一先生が去る5月28日に亡くなられた。一言、感慨をのべたい。他の分野同様に、哲学についても素人の厚かましさで、私はいつも書いたり言ったりしていながら実は、専門の先生の批判を恐れていた。　　　　　　　　　<br />
そんな時に、ご高名の辻村先生のお宅が、エネカン会員で幼稚園から大学まで一緒の藤原信一君のお隣であることを知り、そのツテで、哲学とは何か、お話が聞きたい、と厚かましいお願いをしたところ、なんと、開設間もない北大路橋近くの以前のエネカン事務所までお出で下さって、延々3時間を越えて、ざっくばらんに、いろいろとご教示頂くことが出来た。忘れられないお教えの幾つかを、思いだすままに紹介し、更めて噛みしめて見たい。</p>

<p><br />
<img alt="tsujimura01.jpg" src="http://www.enekan.jp/archives/images/tsujimura01.jpg" width="501" height="251" alt="辻村公一先生"/></p>

<p></p>

<p><strong>技術の危険性について。</strong><br />
どんな技術も必ず危険性を持つが、それを分かって、取りあえず利用している間はまだ良い。しかし、危険性への認識すなわち、“一旦横に置いた”事を忘れるのが人の常であり、それは“忘却の忘却”という事である。技術の危険性が牙をむくのはその時である。<br />
この、ハイデガーが1950年はじめに行った連続講義「技術への問い」に書かれている“忘却の忘却”という言葉は先生に教わって以来何度も、折りに触れて書いたり、言ったりしている忘れられない一言である。</p>

<p><br />
<strong>哲学はアリストテレスとカント。</strong><br />
　我々一般人でも、どちらも聞いたことはある名前だけれど、何を言ったか、書いたかを知っている人は稀である。他にも哲学者と言われてきた人は数多いから、素人が哲学について何かの印象を得るにはどうすれば良いだろうか、という、こちらの事情を察して言われたのだと思うが、ハッキリと先生は上記二人の名を言われた。<br />
　これに発奮して、いろいろ読み始めてみると、特にアリストテレスという人が、私のような技術者から見てもすごい万能選手だったのだ、と心から驚いた次第である。<br />
　アリストテレスの本は、200冊位もあったそうだが、その大半は何とか残っている。カバーする範囲が、文学、音楽、経済学、論理学、数学、物理学、哲学・・・そして幸福論の元祖でもある。そんな中で哲学に関して、先生がご指摘くださった、言葉を次にあげる。</p>

<p><strong>第一哲学、が本来の哲学だ。</strong><br />
　我々は普段なにげなしに、人生哲学、とか処世の哲学、などと、哲学、という言葉を気軽に使う。先生はこれを否定はされなかったが、君、第一哲学、が本来の哲学でその他は、マア、哲学と呼びたければ、それも良いでしょう。とハッキリと言われた。<br />
　となれば、当然、第一哲学、とはなんですか？と教えて欲しくなるが、それが実はアリストテレスの言葉で「形而上学：第六巻（1026a）アリストテレスのテキストは全てこのような記号で文章の位置が分かるようになっている」に書かれている。<br />
　先生は、君、アリストテレスを読むならせめて英訳を読みたまえ、<strong>本来ならギリシャ語を読むと良い</strong>のだが・・・。とその時に言われた。どうも、日本語訳がお気に召していなかった様子だった。<br />
　勿論、小生は先ず日本語の岩波文庫を読んで、なんと面白い文章だな、アリストテレスって親しみ易いなあ、と思えていたのだが、それ以来、エネカンの乏しいお金を投じたり、京都大学図書館を利用したりして、Loeb Classical Library、という英語・ギリシャ語の対訳本、を参照して、アリストテレスの真意（？）に近づこうとするはめになっている。<br />
さて、第一哲学、だが、折角だから、形而上学：第六巻（1026a）に書かれている、その部分をここに写して、アリストテレスが横にいる気持ちになって味わってみよう。</p>

<p>: εἰ μὲν οὖν μὴ ἔστι τις ἑτέρα οὐσία παρὰ τὰς φύσει συνεστηκυίας, ἡ φυσικὴ ἂν εἴη πρώτη ἐπιστήμη: <strong>εἰ δ᾽ ἔστι τις οὐσία ἀκίνητος,</strong> αὕτη προτέρα καὶ φιλοσοφία πρώτη, καὶ καθόλου οὕτως ὅτι πρώτη: καὶ περὶ τοῦ ὄντος ᾗ ὂν ταύτης ἂν εἴη θεωρῆσαι, καὶ τί ἐστι καὶ τὰ ὑπάρχοντα ᾗ ὄν. (Aristotle, Metaphysics　Book 6, 1026a)</p>

<p>Then if there is not some other substance besides those which are naturally composed, physics will be the primary science; but <strong>if there is a substance which is immutable,</strong> the science which studies this will be prior to physics, and will be primary philosophy, and universal in this sense, that it is primary. And it will be the province of this science to study Being qua Being; what it is, and what the attributes are which belong to it qua Being.　</p>

<p><br />
<img alt="tsujimura02.jpg" src="http://www.enekan.jp/archives/images/tsujimura02.jpg" width="328" height="250" alt="辻村公一先生"/></p>

<p><br />
もし、自然の理に従って出来ているもの以外には何も無い、のであれば、物理学が第一の学問であろう。<strong>しかし、もし、全く不動の物事があるならば</strong>、それが先であり、それが第一哲学であり、第一であるからより一般的である。そして、それは、存在を存在として学ぶ事であり、それは何であるか、それに属するものは何か、を学ぶことである。<br />
―――――――――――――――――――――――――――――――――<br />
和文は英文と、出隆（いでたかし、岩波文庫）の訳と（どちらを読んでも何かわかり難いので）を合わせて現代語風に解釈したものである。ギリシャ語を見る事が少しでも助けになると思った点は、<strong>ἀκίνητος</strong>　（アキネトス）という単語が英語では、immutable、と訳されているが、アは反対を表す接頭語であり、キネトス、は英語のシネマ、などの語源であり“動く”という意味だと分かるので、動かない物事があれば、という意味を実感できた点でなどである。技術分野でも、動力学という単語はキネティックス、と訳されている。</p>

<p>いずれにせよ、世の中のことがすべて理詰めで解決するなら（自然科学であれ、社会科学であれ）哲学は不要である。それらの根本には人間が知ることのできない、絶対的な基準があるはずである、なんとなれば、すべての理屈は何か絶対的な基準が無ければ成り立たないことは明らかなのだから。そして、基準が何であるにせよ、その基準は何によって成り立つのか、を考えると、いくら考えても切りが無いことに気づく。辻村先生はあの時に、仏教の維摩経にある“維摩の沈黙、雷の如し”という言葉をチラリと話された。今、考えると、第一哲学の、お経による説明だったのだろうか？</p>

<p>絶対的基準は普段の論議には顔を出さないから、適当に理屈をつけて世をしのいで生きればよい。けれども、最も分からない事を考える人がいても良いではないか、そのような人は哲学者であり、つまり、第一哲学、を考える人なのであろう。</p>

<p>先生はエネカンでお話された時には、温顔で終始にこやかだった。しかし、聞くところによれば、哲学者の会では大変厳しくて、先生を恐れていた人も多かったらしい。“私は不肖の弟子でした”という哲学者にも何人か会ったことがある。不肖が少しも悪いとは思わないが、皆が恐れる存在は、第一哲学、というような、答えが決して得られない学問に関しては特に大切だったのだと想像できる。</p>

<p>謝礼も出せない貧乏エネカンの借部屋にご来駕たまわり、大先生が、長時間、素人相手に少しも馬鹿にせず、真髄を熱心に説いて下さったことは、やはり何か、不動のもの、が動いた結果だったような気が、今思い返すと感じられて来る。<br />
なんの役にもたたないが最も高貴な学問である、第一哲学、を世の人がたまには意識して社会の動きを考えることを願って、辻村公一先生のご冥福を心より祈りたい。</p>]]>

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<title>エントロピーとは何か？・・・(1)</title>
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<modified>2010-10-13T12:44:27Z</modified>
<issued>2010-09-25T06:14:11Z</issued>
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<summary type="text/plain">エントロピーという言葉は、一般の人にはあまり知られていないが、エネルギー利用に関...</summary>
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<![CDATA[<p>エントロピーという言葉は、一般の人にはあまり知られていないが、エネルギー利用に関係する工学、情報処理の工学、さらに経済学、などの分野では大変重要な概念である。しかしながら、専門家でも、エントロピーについての、理解はまちまちであり、スッキリしない。単純な頭で理解しようと、いろいろ説明を考えた結果をここに紹介したい。2部に分けてあるが、（１）は、全くエントロピーの予備知識の無い方、（2）は、エントロピーは習ったけれども良く分からない、と言う人を対象にしたつもりである。どちらも、式とか理屈の説明を飛ばして、読んでもらえれば、エントロピー的考えかたを日常の出来事に使えるのではないか、と願う次第である。</p>

<p><br />
　どんな概念でも、その真髄は単純なものである。そもそも、概念、という言葉自体、簡単に分かる事、という意味である。概念さえ分かれば、それの応用、実用が出来るのであって、細かい式や、しきたり、はいくら覚えてもダメなのである。<br />
　さて、一番肝心なエントロピーの真髄は、ものを数える時に、数そのもの、ではなくてその桁（ケタ）で数える。という、この一言に尽きる。<br />
　数の力、という言葉が政治などで頻繁に使われるが、数の力、は数そのものではなくて、その桁で効く（逆に見れば、桁でしか効かない）場合が、自然科学にも社会科学にも沢山ある。こう言えば、賢明な読者（心にこだわりの無い人々）ならアッそうね。とお分かりになり、この先はもう読む必要がなくなるのである。</p>

<p>　<br />
　そこで、賢明でない読者（こだわりがあって、細かい事が気になる人々）に向けて説明を始めるのであるが、小学生に分かるためには、例を示すのが良いであろう。<br />
　先ず、桁、をどう数えるかを復習して見よう。先日新聞に文部科学省の教育方針として“兆を超える数”を小学4年生に教える、という例が書いてあった。政府のバラマキの大きな金額に幼少時代から慣れさせよう、という方針なのだろうか？<br />
では、兆、とは何かと振り返ると、1の右手に0が12個つく数である。1の右手0が0個ならそれは1、0が1個ならそれは10、2個なら100、3個は1000、であるつまり0が3個は千という“位”である。6個は百万の位、8個は億の位、と続いて、兆に至る、のである。一、十、百、千・・・という位の名前は勿論中国からの輸入（タダで頂いた）であるが、0が増えるに従って、位の名称も増えて行くのは面白い。ちなみに、0が52個ある位は、恒河砂（ごうがしゃ）、と呼ばれるそうで、これはガンジス河の砂の数、を意味するらしい（砂粒はそんな数は無い）。<br />
位にオモロイ名前がある～、と嬉しがっていれば、それでパッピーでいられるのに、西洋社会では細かいことが好きで、名前を沢山考えるのはイヤだから、簡単にしようと、数の桁、も新たな数、と見よう、という“進歩”した方式を編み出した。先ず、1という数には右に0がゼロ個しかない（つまり何もない）からこれは0ケタである。と見る事が行われはじめた。そうなれば、十は1ケタ、千は3桁、百万は6、億は8、兆は12、恒河砂は52桁、・・・となって、もとの“数”がいくら増えても、桁の名前は無くて、ただ“桁の数”が0、1、2、・・・、52、・・・、と増えるだけである。味も素っ気もない、やり方である。</p>

<p>　数の右の0の数を数える、すなわち桁を数える方式を表現する記号が、対数（たいすう）という、これは高校でやっと習うのだが、兆を教えるなら小学生にも当然分かる事である。要するに、数の、桁を、数えなさいという記号、対数記号とは、数をxで表せは、数の桁は、logx、と書く方式なのである。つまり、log1 = 0,  log10 = 1,  log100 = 2,  log1000 = 3, ・・・, log1,000,000 = 6,・・・、となって行くのである。面白いのは“数”の1が“対数(桁)”では0になる事である。これは、こういう方式を採用するなら、当然のことだが、“数”の1が“桁”の0に対応することは、エントロピーを“数の桁”として見るときに、注意しないと混乱する可能性がある。<br />
　対数、という奇妙な記号になじめない人も、例えば、2の2乗は4、という概念は分かるであろう。記号で書けば、2<sup><font size=2>2</font></sup>= 4、である。同様に、10<sup><font size=2>0</font></sup>= 1 、 10<sup><font size=2>1</font></sup>= 10・・・、10<sup><font size=2>6</font></sup>=6 、・・・と書けば、10の右肩に乗っている数が桁数である。</p>

<p></p>

<p>　要するに、百万、という代わりに、6、というのがエントロピーの概念である。具体的にみれば「1円持ってます」という人を基準にすると、その人のエントロピーは0、となり、「百万円持ってます」という人はエントロピーが6だ、と言おうとするのがエントロピーの発想である。（log1 = 0、log1000000 = 6,　と書くことに対応している）。<br />
　実際に、それでは、百万円は6、という表現がどんな意味を持つであろうか？これは、経済学では基本的に重要な、効用（こうよう）、概念を指しているのである。経済学をご存じの方なら、効用とはエントロピーのことです、といえばエントロピーの概念は全てお分かり頂けるのだが、実は経済学の先生にも、効用、の概念が良く分かっていない人が多いようである。効用、とは上記の例でいえば、お金をどれだけ持っていれば、どれだけ嬉しいか、を数字で表現することに過ぎない。</p>

<p><br />
　皆が1円持っていれば、自分が1円持っていることは“嬉しくも、悲しくもない”当たり前の事、つまり効用が0である。その時に百万円持っていると、皆より百万倍嬉しいか、というとそれほどでもなくて、せいぜい6倍嬉しい、効用は6である。という事が経済学の基本なのである。<br />
　簡単なことだが、注意すべき点は、１円持っている時には、効用0（エントロピー0）だが、その時に貰う1円の値打ち、すなわち効用の増加分は0ではなくて、1、だという事である。1円持つことが当たり前の時とは、1円の価値が1円という本来の価値である時、と見れば一応納得して貰えるであろう。そうなれば、百万円持っている時には効用（エントロピー）は6しか増えていないのだから、その時に1円貰う事により増える効用（喜び、エントロピー）は百万分の一、になる。これは、所持金が百万円プラス1円になっても、ちっと嬉しくない、という感覚を表している、とみれば納得できる。</p>

<p><br />
　さて、エントロピーと数の力、について最初に触れたが、百万円という金額が一人に集中している時と、百万円が百万人に分散して所持されている時、との百万円という金額の発揮する力について考えて見よう。百万円が、1円しか持たない人々（百万人）に1円ずつ配られたとすると、その人たちの喜び（効用、エントロピー）の総計は、1,000,000（百万）である。<br />
百万円が1人に集中している時には、百万円が百万人に分散している時に比較して、大まかに言って、喜びが6減って1,000,000、増えることの出来る“力”を持っていることになる。<br />
　逆に見ると、百万円という額までお金を集中するには、百万人から嬉しさ（効用、エントロピー）を1ずつ取り上げて、一人の嬉しさ（効用、エントロピー）をたったの6だけ増やすという“操作”が要ることになる。その又逆が、先述のバラマキで、百万人の人を1ずつ喜ばす“操作”である。</p>

<p><br />
　考えるまでもなく、集めるのは大変、バラマクのは簡単、である。同じお金の量でも、エントロピーはバラマカれた状態で大きく、集中した状態で小さいことは、上記の通りであり、一般に、“エンロトピーは増える方向に変化が起こる”のである。<br />
　税金で庶民からお金を徴収するのは、多くの人の嬉しさを取り上げて、お金を集中して、政府が適当な方向に、喜びを選択的に配分して国の現在、未来の動きを操作する事である。折角集めておいて、そのままバラマクのでは、集める手間だけ損だと思わねばならない。</p>

<p><br />
　もともとエントロピーは熱エネルギーの希薄さ、集中度について考案された概念だから、ここで、エネルギーについてのエントロピーについても上記のお金の効用と同じ扱いで理解できる事を見ておこう。<br />
エネルギーの集中度とは取りも直さず、物体の温度、のことである。ある物体が、熱い、ということは、冷たい、時より多くのエネルギーを吸収して持っているからである。温度の高い状態に集中した熱エネルギーは、自然に温度の低い分散した状態に移る、“ものが冷める”ことは自然に起こるが“温まる”ことは自然には起こらない。勿論、ものは温めれば、“温まる”けれども、温めるためには何処かで何時か、もっと温かいものから熱を取り上げておかなければならない。</p>

<p><br />
熱と並べて、物の密度、もエントロピーを用いて、密度の変化の作用の大きさが表現される。密度とは物がある決まった体積の中にどれだけあるか、という指標だから、密度の逆は、物1個の体積、である（物1個というのは任意で100個を基準にしても、国民1億人を1人と見ても良い）、密度のエントロピーは通常は、体積を“数”としてその“数の桁”が、変化の指標、すなわちエントロピーとされる。アルコールが1％水に溶けている時と1ppm（百万分の1）溶けている時では、水の中のアルコールの濃さは1万分の1である。逆に見ると、アルコールの分子１個あたりの“体積”は１万倍に増えたとみなせる。この“数”の桁はお金の時に考えた10倍毎に桁が上がる方式（10進法）では無くて、自然対数の底と呼ばれる、e = 2.71828、が使われる、つまり約2.72倍毎に桁が上がる方式である。1万倍の体積になった時のエントロピーの増加は、10進法なら前述の通り4だが、今度の方式では、約9.2である。濃い溶液は薄まる傾向にある、という事はエントロピーが増える事に対応しているので、濃度が1％から、1ppmに薄まるという変化が、エントロピーが9.2増えるという数値で示されるのである。</p>

<p><br />
情報の濃度もエントロピーが指標にされる。情報、というと難しそうだが、例えばサイコロの目のどれが出るかの確率なら、どの目も1/6の確率である。100個の目があるサイコロなら、確率は1/100である、確率が低いという事を情報の濃度が薄い、と見れば、今度も、濃度の逆は体積に類する“数”である。情報の理論ではこの確率の逆数である“数”そのものではなく“数の桁”をエントロピーと呼んで、情報の質の指標とする。エントロピーの大きい情報とは質の低い情報である。<br />
しかし、サイコロの一つの目（仮に1の目とする）に注目すれば、1の目が「出る」という目的に関しては、エントロピーはlog6と大きいが、見方を変えればこれは、1の目が「出ない」という情報としては、確率が5/6と大きいのである。従って「出ない」に注目すればエントロピーはlog6/5となり大きくはないのである。すこしヤヤコシイがサイコロを一回振る時の1目のでる確率は1/6出ない確率は5/6だから、「出る」のエントロピーと「出ない」のエントロピーとにこれをそれぞれ掛けて、平均のエントロピーを求める、というエントロピーの表し方が出来る。「2種類以上の元素を混ぜ合わせる時に使われる“混合のエントロピー”とこれは同じ概念である。このような、「出る」と「出ない」の両方を勘案したエントロピーについては後記の（２）にも触れている。<br />
</p>]]>

</content>
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<title>「福島原子炉の現状」(エネカン通信172号)</title>
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<modified>2011-04-10T07:29:30Z</modified>
<issued>2011-03-18T07:19:39Z</issued>
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<summary type="text/plain">エネカン会員の皆様、 原子炉の現状についての私見を先に報告します、素人がベテラン...</summary>
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<name>Shingu</name>


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<![CDATA[<p>エネカン会員の皆様、</p>

<p>原子炉の現状についての私見を先に報告します、素人がベテランに聞いた限りの報告ですから、間違いもあると思って読んでください、また、間違いがあればご指摘をお願いします。</p>

<p>1　原子炉の現状<br />
　12日にエネカン集会を開いた前日に、大地震があり、それは大事件でしたが、その後の原発事故が今は最も憂慮すべき事になって来ました。テレビで見ても、楽観的な意見とか報告をしながら、どんどん悪い方向に向かっています。最悪の事態では、そうなるのか、という事こそ我々は知りたい。そうならなければラッキーですが、そんなことはどうでも良いわけです。<br />
　エネカン代表の小生は原子炉の専門家に友人が何人かいますので、電話で事態の現状と最悪事態の時どうなるかを聞きまくりました。簡単なまとめ、を報告します。聞いたことなので、自分でも本当にそうなのか判断できませんが。でも、テレビより私はこちらを信じています。</p>

<p>　先ず、今、事故になっている、いわゆる軽水炉、ですが、この原理はアメリカ製です。アメリカはこの原理の原子炉を作るに際して、福島のような、水が抜けた状態でどうなるか、などの実験までして、その経験を踏まえて炉を作ったそうです。ですから、アメリカにいろいろ聞くのが賢明な気がしますが、どうなっているのか、救援に来てくれているそうですから、やっているでしょう。日本は設計図だけ貰って“改良”を加えたと言って来ました。</p>

<p>　さて、この軽水炉、というのは、いわゆる低濃縮ウランが燃料です。ウランは、天然ものは、核分裂する種類のウランを0.7％しか含んでいません。これを約5％まで濃縮して使用しています。ちなみに、原爆では99％以上に濃縮しているそうです。北朝鮮がやっても中々上手く行ってない様子はそんなに純度高く出来ないのかも知れませんね。そんなに濃縮してしまうと、いわゆる、臨界というウランが一定量あつまると、スゴイ速度で核分裂が進む現象になります。<br />
　今事故っている炉のウラン燃料も低濃縮ですから、集まっても、原爆なみの核分裂、それに応じた熱と中性子の短時間大量放射は起こらないそうです。これで安心してはもちろんダメですが、一応の知識としては、意味あるでしょう。</p>

<p>　そんな低濃縮ウランが、何故、原子炉の中で燃える（すなわち臨界と呼ばれる核分裂反応の継続状態になる）のか、という点が大切です。5％程ある核分裂するウランは、分裂して放出する中性子が次ぎ次ぎ近隣のウランに当たり、当てられたウランは当てられた中性子以上の量の中性子を出します。これが連鎖反応、つまり臨界を越えたウランの燃え方、です。<br />
　しかしながら、ウランが分裂して放出される中性子は、高速中性子と呼ばれるように、速度が速すぎて、近隣のウランに当たってそれらを分裂させるより早く、突き抜けて外に飛び出してしまいます。そうなると、連続的核分裂を維持（臨界に達する）することが出来ません。</p>

<p>　そこで、低濃縮でも臨界にしてやる為に、燃料棒の周りを、水、で取り巻いて、一本の燃料棒から出た中性子が水を通っている間に、減速されて、高速でない、熱中性子、という速度の遅い中性子になるように工夫がされているのです。熱中性子は近隣のウランに吸収されて新たな核分裂を起こし易いので、適当な水の量を燃料棒の周りに保つのが、軽水炉のコツらしいです。<br />
　では、臨界を止めるにはどうするか、というと、今度は、水より遥かに中性子を吸収、つまり熱中性子の速度どころか、それらをストップさせてしますほど、遮蔽効果の大きい、ホウ素（ボロン）を含む材料を棒にして、核反応を止める為に、燃料棒の間に挿入するのです。制御棒、と言われるのがコレです。今、事故っている原子炉内にホウ酸水を注入しようとしている理由は、ホウ素によって核分裂の継続を止めたい為です。制御棒がなくても、ホウ酸水に取り巻かれた燃料棒は燃料にならないのです。</p>

<p>　以上が今小生の頭にある軽水炉の概要です。幸い、地震でも福島の原子炉は制御棒が入って､止まった（臨界を超えていない）状態にあります。では、何故、熱や放射線が、沢山でているのか？が問題になります。<br />
　燃料棒は原子炉で燃えるまでは、ウランが自然に出す放射線しか出しません。この量はちょっとで、近づいても恐れる程ではありません。学生の時に東海村を見学に行って、鉱石から製錬された濃縮していない0.7％のウランの大きな塊が置いてあったので、指で触ろうとして、所員に怒鳴られたことを覚えています。<br />
　一旦原子炉内で臨界に達して燃料として使われたウランは、しかしながら、核分裂に伴って生成する他種類の放射性の元素を含んでいます。それらに中には気体もあれば、固体もあり、寿命の長い元素も短い元素もあります。これらの放射性元素は寿命が短い物は短時間の寿命の中で精一杯放射線をだすので、非常に危険ですが、あまり寿命が短い物は、あっさりと放射能がなくなるので、かえって無害です。<br />
　とっても寿命が長いものは、又、常時出る放射能が少ないですから安全。中間の物、寿命（半減期、つまり放射能が半分に減る時間）が8.1日くらいでベータ線を出す放射性ヨウ素131、とか5.3年で人体に有害なガンマ線をだすコバルト60とか、28.8年でベータ線を出し、人体に取り込まれやすいストロンチウム90やセシウム137（半減期30.1年、ガンマ線）、など厄介な元素があります。</p>

<p>　これらの元素が出す放射線は燃料棒の中で吸収される時に熱をだします。ですから、一旦使用した燃料棒は、臨界が止まっても､発熱し続けます。この熱は大変な量ですから、燃料棒を使用途中、あるいは使用が終わって取り出したあとは、深い水の中に付けて冷却しつつ保管しなければなりません。臨界が終わって、取り出してからおよそ10日で発熱量が半分位になる、とベテランから聞きました。しかし、0になるには何万年も掛かるらしいです。</p>

<p>　使用ずみ燃料棒は、水の中に保管されていないと、自分の熱で燃料を覆う被覆管の金属を溶かす能力があります。ですから、保管プールの水が減っている現状は怖いです。溶けてプールの底も溶かして下に落ちれば、そのあたりの水と反応して爆発して飛散という事態もあり得ます。<br />
必死になって今、3号炉とか4号炉の燃料保管プールに水を入れようとしているのはその為です。<br />
しかし、ＴＶで知った事はプールの容量は1400トン、掛ける水は１回７０トンとかですから、焼け石に水に近い気もします。</p>

<p>　炉の中で心配なのは、炉内の水が減って、これも燃料棒の発熱で自ら溶けて下に落ちることです。<br />
高熱になれば炉の圧力容器の底を溶かして炉外に漏れ出す、そして、更に炉の外を覆っている、格納容器の底も溶かして外に出る。という事態も考えられる。そうなるとどうなるか？誰にも分からないそうです。原子炉のことは素人ながら、技術屋の感で言えば、水と接触すれば、これも爆発して飛散、というストーリーがあり得ます。</p>

<p>　要点を振り返ると、低濃縮ウランである、燃料棒、その中のウランが、再臨界になって、遮蔽無しの原子炉が大規模発熱を開始する可能性は極めて低い。さらには、原子爆弾が野ざらしで爆発、という事にはならない。らしいです。これは原理的にならないということですから、最低の安心感がもてるでしょう。</p>

<p> 今、一番怖いのは、使用済み燃料棒が溶けて、プールのそとに出て、水と反応して爆発飛散する、というストーリーのようです。どんな規模の爆発で、何処まで燃料棒の中身が飛ぶか、はだれも分からない、という説明？は分かります。最大の爆発でも、その規模は爆発としては，大したことは無いでしょうが、空気中に飛散する放射性物質の放射能が大きいですから、この飛散範囲では大変である事が想像できます。半径３０キロとか、８０キロ以内は待避とか、言われるのはこの理由からでしょう。それと、遠くても（東京まで200数10キロ）、風下なら局所的に，高レベルの放射線が一時的に観測されるかも知れません。</p>

<p>　以上が聞きかじりで、原子炉については門外漢の小生が得た原子炉事故の現状です。間違いはあると<br />
思いますが、ＴＶや新聞に書いてない知りたい事を、ベテランから聞き出して理解した限りを書きました。<br />
　責任を負うべき人達の後手後手、と、危機感の欠如には、腹も立てる気がしませんが、それにいくら文句を言っても仕方ないので、ここには書きません。インターネットに沢山書かれています。</p>

<p>　炉の設計にしても、放射能が強いので、すくなくとも３００年間は地下３００メートルに埋めて水をかけつつ監視する、と自ら新聞に書いていた使用済み燃料を、原子炉の建屋の４階に１４００トンのプールを作って、一時保管している、とは呆れるより仕方有りません。屋上のプールなんて底が抜けたらどうするの、と設計時点で誰も考え無かったのですね。きっと経済性優先でしょう。</p>

<p>　ＴＶで見る責任者達の会見や発表は、多くがまるで、太平洋戦争時の「大本営発表」のようです。小学2年生でラジオから毎日聞かされた大本営発表では、戦果が毎日挙がって日本が勝っていたのですが、その結果が広島、長崎の原爆でした。<br />
　今、現場にいて命がけで水を掛けている人達は、まるで前線で命を賭けて戦った徴兵された兵士を彷彿とさせます。先ずトップが命がけにならねばなりません。<br />
　アメリカとの戦争なら、敗戦で終わりですが、原子炉事故は何世代にも影響が続きます。原子炉事故の現況は正に、未曾有の戦争だ、という覚悟、姿勢、行動で臨まねばなりません。</p>

<p>　最後に言いたいことは、腰抜け連中のおかげで最悪の事態になりつつあるのは、ムカつきますが、連中に良い思いをさせて原子炉を沢山作った責任は、我々電気を１ワットでも使った全員にあると思います。「倹約と幸福」第３話、に書いたように、安い電気代を望んだツケが，事故である、と認識しなければなりません。１ワットでも倹約すれば、それだけ事故の元である原子炉は減らせるのです。</p>

<p>　さらに、今、急に原子炉はイヤだ～と合唱が世界中で始まりそうな、情勢になってきましたが、では、電気はどうするの？という答えと合わせて考える人は少ないです。石炭、石油に頼るなら、今度は、ひょっとすると放射能より怖い炭酸ガスを出し放題になるかも知れません。５０年間に炭酸ガス濃度が２０％以上増えたのは事実です。後に書いたエントロピ－にも関係ありますが、炭酸ガスの｛効果｝は増加した絶対量が５０ｐｐｍ（０．００５％）だから少ない効果ではなくて、濃度が２０％増えたという濃度の割合の変化こそ恐ろしいのです。<br />
　これを、人間の活動の為であるか、無いか、不毛の議論が学会誌にまで載っています。「倹約と幸福」第１１話に書いたパスカルの賭を考えて下さい。人類が急激な気候変動で滅んでその原因が結局は人間の活動の為であったとしたら、シカタガナイ、では済みません。</p>

<p>　原子炉事故の後始末に何兆円もかかるでしょうが、それは全部電気代に加算して我々が払う必要があります。結局、原子炉による電気は高くつくのです。化石燃料による電気代も、もっと高くつくのかも知れません。<br />
　答えは唯一つ、高い燃料代を払うのがイヤなら倹約するしかない。これです。自然エネルギーは、原子炉の電気代の１０倍近くする、なんて言われてイヤがらて来ましたが、ダムが決壊しても復興できますが、放射線で汚染された土地は再利用には時間を待つ（何十年、何百年？）より仕方ないんですね。</p>

<p>　安藤昌益の「自然真営道」は今日のこの事態を予測していたように思えて来ました。</p>

<p><br />
　おわり、でないけど、おわります。</p>

<p>　<br />
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊<br />
今年の総会、講演会、懇親会は2011年７月02日（土曜日）午後<br />
同じ、京都大学時計台記念館です。いまからご予定をよろしく！！<br />
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊<br />
京都エネカン　新宮秀夫<br />
ハイツあすは603－8051　京都市北区上賀茂榊田町54<br />
TEL&FAX 075-722-1223　shideo@enekan.jp<br />
</p>]]>

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<title>「音感と色感」　アヴェ・マリアの色符</title>
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<modified>2011-04-10T08:54:54Z</modified>
<issued>2011-04-10T08:50:21Z</issued>
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<summary type="text/plain">波長変化は桁で効く、つまりエントロピーが効く例 「色」は光の波長を人間の目が識別...</summary>
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<name>Shingu</name>


</author>

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<![CDATA[<p>波長変化は桁で効く、つまりエントロピーが効く例</p>

<p>「色」は光の波長を人間の目が識別する現象であり、「音」は空気振動の波長を人間の耳が識別する現象。</p>

<p>色は、赤（波長が～800nm）から紫（波長が～400nm）まで、すなわち、波長が倍から半分、に変化する範囲しか、人間の目は識別できない。波長が倍から半分（振動数が倍になる）、という変化は、音に比較すれば、1オクターヴ音階が上がる変化に対応することは皆が知っている。</p>

<p>こう思ってみて気づくことは、例えばド音と、その1オクターヴ上のド音（波長が半分＝振動数が倍、の音）とは、同じ調子に聞こえるのだから、色の場合も、1オクターブ“色階”が高い色は同じ色調に見えるに違いない？！このエネカンの大（迷）発見を確かめて見たのが下記した図です。</p>

<p>要するに結論として、確かにそうだ！！と言えそうです。赤色が目に見えなくなる程波長が長くなる（赤外線に近づく）と色は赤っぽい紫になるらしい。そして、波長の短い方の見える限界（紫外線に近づく）では紫色も少し赤っぽい。下の図を見て下さい。これは太陽の光をプリズムで分解して波長に応じた色を示したいわゆる光スペクトル、というものですが、紫の左端と赤の右端（波長が倍違う）はどちらも赤紫っぽくて、色が似ている！</p>

<p>そこで、音階（ドレミファソラシド）を、対応する波長で色分けして見ると（赤紫、赤、橙、黄、緑、青、紫、紫赤）ちょっと苦しいけど、かなりピッタリではありませんか？シの音は紫（＋シ）なんて、神様はダジャレの趣味をお持ちでしょうか？そう言えば赤もレッドのレ、橙はミカンのミ、か～？ </p>

<p><img alt="avemaria01.jpg" src="http://www.enekan.jp/archives/images/avemaria01.jpg" width="590" height="342" /></p>

<p><img alt="avemaria00.gif" src="http://www.enekan.jp/archives/avemaria00.gif" width="559" height="368" /></p>

<p><br />
蛇足ド：1.0612 = 2 は複利率6分で12年間経ったら元金が倍になること。1.06を基本にして12桁の数(1.06を12回掛ける)が2となる事です。</p>

<p>蛇足レ：音速は20℃で約340メートル毎秒。音楽で基準とされるラ音の振動数440Hzでは、340/440 = 77.3 ㎝が波長。身長の半分位が基準？</p>

<p>蛇足ミ：色を感知する眼底の錐体という器官の微細構造は青色の波長450nm・0.45 ミクロン 位の寸法。良くできてますね～神様！</p>

<p>蛇足ファ：色でなく明るさ識別にも桁が効く。星は100倍光量が増えて明るさの等級が5上がる。2.51を5回掛けると100。小学4年で習う？</p>

<p>蛇足ソ：絶対温感と絶対色感と絶対音感。0℃の水は誰にも同じく冷たい。空の色は誰にも青い。ラ音が鳴ってもラ（青？）と分かる人は少ない。</p>

<p>蛇足ラ：色も音も振動数Hzが基本、コレは振動回数と時間との一対（ペア）の大きさが指標。0℃も440Hzのラもペアの“ある値”。</p>

<p>蛇足シ：温度、容積は、それぞれ、熱エネルギー量、体積と、物質量とのペア。資産額は、お金と人数とのペア。高温、大容量、大金持ち、はペアの位置の感覚。これらは皆～んな、ペアの値の桁で効果が現れる（桁でしか効かない？）これがエントロピーの真髄デス！</p>

<p>蛇足ド：桁が0はイヤだと、努力を1000しても、桁は3しか上がらない！これがエントロピーに仕切られている世の中の現実、自然のルール、フィジオ・クラシーの世界、これぞハッピネスではありませんか？　デモ・クラシーでは0の努力で1000嬉しくなりたい連中<br />
の天下になる訳です。エントロピー則が逆に効く。1嬉しくなるために、資源を無制限に掴み取り。環境が保つワケないですね。<br />
　　　　</p>]]>

</content>
</entry>
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<title>原子炉事故とこれからの社会</title>
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<modified>2011-05-07T06:39:11Z</modified>
<issued>2011-05-07T05:43:39Z</issued>
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<created>2011-05-07T05:43:39Z</created>
<summary type="text/plain">　【芦屋倶楽部3，4月号：3月25日発行】（2011/03/15取材) 『未曾有...</summary>
<author>
<name>Shingu</name>


</author>

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.enekan.jp/">
<![CDATA[<p>　【芦屋倶楽部3，4月号：3月25日発行】（2011/03/15取材)</p>

<p>『未曾有の東日本大地震の被害とエネルギー論』</p>

<p>～新著「節約と幸福」で警告した新宮秀夫・京大名誉教授に聞く！～</p>

<p>3月11日午後、東北・関東地域を襲ったマグネチュード９．０という未曾有の「東日本大地震」が発生した。この大地震の直接的な被害や予想を上回った大津波の影響で、太平洋沿岸を中心に約２万人近い人々が尊い命を失ったほか、東京電力福島原子力発電所の大事故による放射能被害も重なって、歴史上でもかつてない大災害の行方が世界中の人々から注目を浴びている。</p>

<p>このような日本を直撃した今回の大地震は、まさに自然災害の恐ろしさを痛感させたと共に、当初予想出来なかった「原子力発電の事故」の被害など、今後も大規模な社会的再建や復興工事を前に、地球規模の「環境破壊」や「自然エネルギーの浪費」を反省させる警告とも言えるようだ。今、たまたま大災害を前に、人口急増など人類社会の危機が迫っている大きな教訓や悲感的な見通しが強い中で、果たして今回の自然災害の傷跡を前に日本人がこの危機を乗り切れるのかどうか、まさに未来社会の在り方を問われている。<br />
たまたま３月１２日、大地震の直後に開いた「エネカン集会」（エネルギー環境研究協会主催）の講演で、長年、現代人のエネルギー浪費を警告して来た京大工学部名誉教授の新宮秀夫氏に、今回の大災害の影響や未来の日本社会の生き方、方向付けについて改めて伺ってみた。</p>

<p>【今回の大地震のエネルギーは過去最大級】</p>

<p>［問］　太平洋沿岸部で起きた地殻変動による巨大なエネルギーが大陸棚に沿って、長さ６００キロ、幅２００キロの範囲で放出されたそうですが、今回の大地震について、長年、エネルギー学と環境論を研究されてこられた立場から、どのような印象をお持ちでしたか。</p>

<p>［新宮］　私は、地震学者でも自然災害の専門家でもありませんが、地球が誕生して以来、宇宙のメカニズムのなかで、こうした地殻変動のサイクルは避けようもないと思います。数千年の単位で見れば、このような天災は、いつどもどこでも起こる可能性がある訳です。</p>

<p>地震のマグニチュードＭと言われているものを調べると、震度の指標はリヒタースケールと呼ばれ、Ｍが１増えるとエネルギーが31.6倍になります。2増えると31.6×31.6で1000倍になるのですね。大正12年（1923年）の関東大震災はＭが7.9でしたから、今回のＭ9はエネルギーが約45倍だった事になります。この程度の事件は地球の歴史からみれば、ほんの些細な事であるのは明らかですから、自然界では何が起こっても不思議でない、と受け取るべきでしょうね。</p>

<p>私たちは、今回の大災害や原子力発電所で起きた事々にたいして、必要十分な備えをしていると思い、そのように、教えられていましたが、そのような想定が如何に容易に覆るのかと、痛感させられました。私も学者、研究者のつもりで今まで暮らして来たのですが、常に「実は何も分かっていない」のだという態度を忘れてはならないという教訓を改めて得た気持ちです。</p>

<p>【原子力の利用の怖さと共存】</p>

<p>［問］　今回の「東北関東大地震｣の事故の影響で、かなり深刻かつ危険な状況が報道されている上、将来的に日本の原子力利用政策について、国と福井県が設立した若狭湾エネルギー研究センターの元所長だったご経験を通じて、何か原子力問題に警告すべき点があれば、お教え頂きたいのですがー。</p>

<p>［新宮］　私の勤務していた研究所では、放射線など医療関係の利用を主に、太陽熱を含むエネルギーの利用、応用について研究していたもので、原発とは直接には関係していませんでした。しかし研究所は敦賀にあり原発が近くに何基も稼働している場所ですから、今回の事故には強い関心があります。今回の大事故を見ると、地震、津波、については、その規模が想定を遥かに超えていたとしても、天災だから被害は仕方がない、と人は思わざるを得ません。しかし原子炉については、天災に対する備えの不備、災害後の処置が全くの後手々だった事、を人は“人災”見ると思います。確かに、後から調べれば適切な処置さえしていれば、大事故には至らなかったと言えるでしょう。しかし、だからといって現場の人を責めても空しいことです。胸に手を当てるまでもなく、どんな些細な事でも、当然と思える適切な処置が滅多に出来ないのが人間なのです。</p>

<p>　　科学技術の発展には、常に人間の過ちや手違い、が付いて来ることは避けられませんね。元々、原子爆弾から電力開発の応用に至る過程は、科学的に未知な領域も多くて、今回の事故を見ても、その道の専門家でも正確な対策方法や経過措置などで「初めての経験」となり、指導者たちは、見るも哀れなドタバタ騒ぎをしているように見えます。これが人間というもの、と受け取るべきでしょう。</p>

<p>今後は、世界中から日本社会の対処力が試されている状況を考えると、冷静に個々の日本人が“人災”は自分を含む全員の責任である、と思って覚悟を決めて立ち上がる以外に方法はないと思います。具体的には、原子炉事故の後始末に何兆円もかかるでしょうが、電気を今まで1ワットでも使った人が全員今回の事故責任があると思うべきです。ですから、住んでいた場所から避難させられた人々の生活費まで含めた対策費は今後何十年でも、全部、電気代に加算して我々が払う必要があります。結局、原子炉による電気は高くつく。化石燃料による電気代も、大気汚染が本当に深刻になれば、もっと高くつくのかも知れない、という認識を持たねばなりません。</p>

<p>　　答えは唯一つ、高いエネルギー代を払うのがイヤなら普段から「倹約するしかない」。太陽光、風力、水力・潮力など自然エネルギーは、原子炉による電気代の１０倍近くする、なんて言われて嫌がられて来ましたが、そうは言っていられないでしょう。自然エネルギーの利用できる量は、今は限られていますが、量そのものは、十分にあります。これからの工夫が期待されますが、原子力や火力のように、集中して便利に手にいれる事は，如何に工夫が進んでも難しいでしょう。そこを工夫するのも、やり甲斐ある仕事だと思えばよいのですね。</p>

<p>【人類は、生き延びてこそ、幸せがある】</p>

<p>［問］　私たち人類は、人口爆発によって40年後には約100億人を超え、開発途上国を中心に「大量消費、大量生産のメカニズム」の道を進み、世界中の資源が枯渇する事態も予想されている。果たして今回の大地震の影響と日本人社会はどのように変わるべきか。長年、エネルギー論を研究されている新宮先生は、この国難という危機下にある日本人は、今、何を求めて新しい社会の仕組みを目指すべきか、最近の著作「倹約と幸福」を参考にお話し下さい。</p>

<p>［新宮］　自分自身を反省していますが、石油を始めエネルギー資源を巡る世界的な政治的、経済的、民族的な紛争の根源には、自己の「欲望」や自由勝手な文明化論が横行して、常に現代社会が「豊かな社会」を目標として来たこと、つまり無秩序な欲望を野放しにして来たことがあります。この際、大きな反省と生活上の工夫や見直しの必要性を問いたいですね。つまり、すでに多くの哲学者や有識者が指摘しているように、間もなく人口１００億人に迫る地球上の人類にとって、我々が必死に追い求めて来た「豊かな社会」が果たして、幸せな社会なのか？という疑問です。</p>

<p>　　昨年書いた「倹約と幸福」という本の根本的な考え方は「感動は前進、満足は後退」という標語に示されるように、満ちたりる、豊かである、ことは、人の幸福感にとって大敵である、ということです。西洋の諺にあるように、空腹は最高のシェフ、なのですね。小学2年で終戦を経験した私は、食べ物が極度に乏しい時代を知っています。ある日、お袋がどう工面したのか卵を２個手に入れて、姉2人と妹と私4人に、ゆで卵を1人半個ずつ食べさせてくれました。あの時の、嬉しさ、美味しさ！これを60数年経った今でも鮮明に思い出せます。勿論、お袋の分は無かったと思います。こんな幸せを今の子供が経験出来るでしょうか？それが難しいのは、豊かすぎる、からです。</p>

<p>　　この本の巻頭で「エネルギー大量消費の技術を知ってしまった人類が存続する道は、倹約以外にない。人類が生き延びてこそ幸福がある。地球規模の繁栄を求めてやまない時代において、未来の人間のあるべき姿と本当のしあわせを、真の倹約精神に求めるべきだ」と説明しております。本の第３話からも「安い電気代を望んだツケが，事故である、と認識しなければならない。１ワットでも倹約すれば、それだけ事故の元である原子炉や火力発電所は減らせる」ことを改めて思い知らされる気持ちです。</p>

<p>「倹約と幸福」の冒頭には、良寛さんの教え「しかたがない」という心のあり方を紹介しました。良寛さんが71歳の時、新潟・三条で大地震が起きた際、被災した人々の惨状を見て「長生きしようと思って努力してきたが、こんな悲惨な有様を見ると涙がとまらない」と嘆き悲しんだ良寛さんは、同時に「災難に逢う時には、災難に逢うのが良いのです、これが災難を逃れる妙法です」と語っています。今度の天災とそれに続く“人災”を見てつくづく、何が「しかたがない」のか、何が「しかたがない」では済まないのか、が実感されます。目先の利便性にかまけて、将来世代に禍根を残すような行動、判断は、決して、「しかたがない」と言ってはならないのですね。</p>

<p>【日本を救う道は、倹約精神を】</p>

<p>［問］　最後に、かつて地球温暖化に歯止めを掛けようと、世界各国が集まって「京都議定書」という削減目標を基に、世界各国で具体的な削減には賛否両論で混乱しています。本来、エネルギーコストは、安心・安全を代償とするならば、「現在の電力料金のコストは、むしろ多少、高くても仕方がない訳」で、この際、世界のエネルギー資源を有効に生かすため、今、人類にとって最も大切なことは「倹約精神」にあるのですね。</p>

<p>［新宮］　そうです。東北関東大地震が起きなくても、私は、現代の地球社会がエネルギー資源を無制限に浪費する問題にメスを入れるべきだと主張して来ました。10年前には「幸福ということ」という本を書き、古今東西の哲学者、宗教者、文学者などによる「幸福論」のレビューを作ると共に、社会工学者の立場から独自の視点から論じたつもりです。<br />
しかし実は、そのような難しそうな「屁理屈」よりも、孫、子、の時代にも続く持続的社会を実現するには、「良いものは高価であるが，長い目でみれば経済的である」という知恵の一言で十分なのです。目先だけ安価な原子力や化石燃料への依存度を下げるために、エネルギー料金を大幅値上げして、我々はそれを我慢するべきなのです。</p>

<p>エネルギーが手に入り難く，大切に使わねばならない事は人間が幸福に生き続けていくために自然が与えてくれた素晴らしい工夫です。もしエネルギーが使いたい放題であれば，人類はより幸福になるどころか、仕事を失い，頽廃（たいはい）の中に，せっかく人間に与えられた幸せを得る可能性を捨て去って，ついには生き続けることさえ危うくなるのだと理解しなければなりません。</p>

<p>端的に言えば楽しい事ばかりの世の中が一番不幸なのであって、倹約を最大の資源と見て，エネルギーをつましく使い，仕事の苦しさに耐えて生き続ける社会こそ人間の本性すなわち，自然の営みに沿った持続可能で幸福な社会なのだと、今の未曾有の事態から学ぼうではありませんか。（了）</p>

<p>　　　　　　　　　　＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊</p>

<p>付記：エネルギー料金を今の何倍にも上げるべきだ。と述べると必ず、そんなことをしたら、貧乏人が割を食らうからダメだ。という意見が出ます。そこに、工夫はいくらでも出来ることに気づいて欲しいです。</p>

<p>電気料金を例にとれば、国民皆に1人が一定量の電気を低料金で使える権利を配分するのも一案です。毎月50kWhまで安く使う権利が貰えるとして、我慢して20 kWhでひと月をしのげれば、余った電気使用の権利を、贅沢に使いたい人に売れることにしておけば、皆が頑張って節電するでしょう。5人家族で頑張れは、大もうけ？出来るかも。</p>

<p>つまり、アダムスミスが「国富論」で主張した“己の利得を考えた結果として、社会全体の為になる行為をする”という“見えざる手”を活用したメカニズムが期待できるのではないでしょうか？</p>

<p>参考：『幸福ということ』（NHKブックス、1998年）、『黄金律と技術の倫理』（開発技術学会、2001年）、『倹約と幸福』（小学館101新書、2010年）など。<br />
</p>]]>

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<title>富山大学入試問題 | ストレスは健康のもと</title>
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<issued>2011-05-07T06:47:40Z</issued>
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<summary type="text/plain">平成２３年度　富山大学　芸術文化学部芸術文化学　推薦入学小論文問題 ======...</summary>
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<![CDATA[<p><a href="http://www.enekan.jp/archives/pdf/tomidai.pdf" target="_blank">平成２３年度　富山大学　芸術文化学部芸術文化学　推薦入学小論文問題</a></p>

<p>=======================<br />
「倹約と幸福」（小学館101新書）「巻の二</p>

<p>第六話　ストレスは健康のもと</p>

<p>ストレスは体に悪い、ということが常識になっている。ストレス学説の元祖ハンス・セリエはしかし、ある程度のストレスは「人生のスパイスのようなものだ」として一概にストレスを否定しているわけではない。<br />
スパイス程度にしかストレスの効用は無いのか、かねてより疑問には思っていたが、幸福に関してのある討論会で、筋肉ドクターと自称する整形外科の医師から「幸福の反対は安静です」というサラリとした発言があり、なるほど！と確信を持つことができた。幸福、という抽象的な、あるいは哲学的（答えのない）問題にたいして、極めて具体的な、安静、が対比されているアンバランスなこの先生の表現は大変新鮮で面白い。</p>

<p>ストレスには、筋肉に力が掛る、肉体的なものと、イライラの元であるプレッシャーなど精神的なものとがあるが、先ず肉体的ストレスの大切さを考えて見よう。介護保険が大赤字というニュースが新聞に出るけれども、赤字でも、介護される人がそれで幸福になるならＯＫかも知れない。けれども、筋肉ドクターの説なら、筋肉の衰えを防ごうとするなら、なるべく筋肉を使うことを心がけるべきであり、安静にしていれば、筋肉はますます衰えるのである。つまり、介護イコール運動機能の衰えた高齢者をなるべく安静に、という方策の現在は、お金を使って老人の体の衰えを助長している、すなわち返って老人をイジメていることになっているわけである。痛くてもしんどくても、無理に体を動かすことこそ大切だというのが人体のメカニズムなのなら、老人はいやいやでも、とことん自分で身のまわりの事をこなすように、冷たく？見守ることこそ高齢者の為でもあり、それが本当の介護なのかもしれない。国の介護保険への支出もそれで減れば一石二鳥であろう。</p>

<p>宇宙飛行士は無重力状態で生活するのだから、筋肉には体重を支えるというストレスが掛らない。その結果、筋肉や骨に回復不能のダメージが生じるので長期宇宙滞在は出来ない。我々はいつも体が重いのは厄介だと思っているけれども、それが厄介である事、つまりストレスが不愉快である事こそ、体を健康に保てるように自然が設定した上手い工夫なのである。</p>

<p>結局、肉体的な健康のためには、ストレスは不可欠なのである。ジョギングとかスポーツジムとかで体を動かす健康法は、すべて筋肉にストレスを与えることなのだ、と理解すればこれは当然のことであり、健康すなわち体のハピネスはストレスに頼らねばならないのである。精神も、それが脳の働きとすれば肉体的ストレスと同様に、苦しい、きつい、という状態なしに健康すなわちはハッピーな状態に保てないであろうことは容易に納得できる。</p>

<p>「人生の楽しさは、消費する喜びプラス余暇の喜び、マイナス仕事の苦しみ、である」と提言した学者がいるが、このような思想が今の世の中では広く受け入れられている。しかし、一歩下がって考えれば、マイナスであるとされている仕事の苦しみ、いや、仕事に限らずとも、苦しみが無くて、消費と余暇とだけある人生なんて、とんでもないものだろうと気づく。</p>

<p>もっと考えを進めると、楽しみだけあって苦しみのない人生が「人生」であり得るか？という疑問も出る。偉い人の自伝は、ほとんどが若い頃の苦しかった体験の自慢話と、成功のきっかけの奇跡的なハプニングのストーリーである。若いころから恵まれて苦労なしに成功した話では、読んでも面白くないし、読む人はいない。だからそんな自伝は無い。若い時の苦労話は苦しいほど読者にうけるのである。さらに考えをおし進めるなら「成功」しなくても、一生苦労の連続であっても、苦労出来たことは幸せだった、という感覚も納得できる。</p>

<p>「安易な生活は清らかであり得ないのです・・・」というセリフがロシアの作家チエホフの劇中にあるが、この言葉がすぐに納得できるのは、清らかでなくても安易な生活に流されやすい我々の避けがたい行動が、実は求めている幸福を遠ざけているのだ、と心では理解出来るためである。トルストイも二十世紀の始めにインタビューに来た新聞記者が、文明は武器や快楽の具を作っただけでなく、人の労働を軽く、労働時間を短くすることにも貢献した、と述べたことに答えて、労働は善いことで、心身を健全にする非常に大切な事柄です、とのべている。</p>

<p>共産主義革命の元祖マルクスは著書、資本論、に革命の主要目的として労働時間の短縮を掲げているが、革命前の状況が酷過ぎたにしても、労働なくして幸福はない、という面がその後、ないがしろにされて来ている。仕事はストレスを伴うけれども、そのストレスは幸福の基でもあることを、忘れてはならない。安楽に暮して来た人が必ずしも長生きでなくて、仕事をし続ける人が長寿である例をよく見聞きするが「ストレスを伴う仕事は、健康のもと」とやはり言えるようである。</p>

<p>さらに精神的なストレスについて考えを進めると、喜びだけ有って悲しみの無い人生がどのようなものだろうか、という問いが出て来る。カール・ヒルティの「幸福論」は神を信じる事を第一とするキリスト教的な至福について書かれているが、そこにも一生運よく喜びにつつまれて過し、本当の悲しみを経験することの無い人生を送る人にはどこか「ちっぽけ、で平凡な感じがつきまとう」そして老年になるとそれが「人相にまで現れる」と書かれている。</p>

<p>幸福論とか、幸福について書かれた書物は、東西を問わず古来沢山あるが、それらを出来る限り集めて検討すると、人が生きていく上で誰しも求める「恋、富、名誉」の達成、所有への欲求を如何にして達成して行くのか、という問題が取り上げられ、それを「より沢山得る、得たそれらの喜びを持続させる、それらを一旦失い、苦労してそれらを挽回する」というような、幸福が書かれた書物が多い。しかし、それらと一味違い、「なぐさめられることのない苦しみ、悲しみの中に、喜びの感情からは得られない幸福が存在する」ということが、示されたり、述べられたものが、かなりの数ふくまれている。</p>

<p>人の心を打ち、読んで教えの得られるのはそのような、幸福論、であることは誰もが認めると思う。悲しみは、人の心に最も大きなストレスをあたえる感覚であり、本当の悲しみは、慰めることの出来ない悲しみである。人間にしか出来ない生き方は、ストレスなしには　存在しない、といえるようである。<br />
人はみな、自分からは望むことのない「悲しみ」すなわち、最も大きなストレスをも、幸せにつなぐ、不可思議で、矛盾に満ちた、素晴らしい生きものであるらしい。</p>]]>

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<title>受験生にも「倹約と幸福」？</title>
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<modified>2011-05-08T21:13:52Z</modified>
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<summary type="text/plain">ベネッセ、という通信教育の高校生向け、模擬テスト？の問題に、「倹約と幸福」の第4...</summary>
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<![CDATA[<p>ベネッセ、という通信教育の高校生向け、模擬テスト？の問題に、「倹約と幸福」の第4話が使われています。設問が面白く、受験生には難問（特に、設問６，は答えが困難？）ですが、今回の原子炉事故の寸前にこれが出題されたのは、偶然ながらタイムリーであったと思います。問題を添付します。これは、配布しても良いか、とベネッセに電話で確認しました。営利目的でなければ公表ＯＫとのことですので掲載しました。ご興味ある方は高校生になった気分を味わって下されば幸いです</p>

<p><a href="http://www.enekan.jp/archives/pdf/Benesse.pdf" target="_blank">ベネッセ　2010年度2年生1月　実力判定テスト</a></p>

<p>=========================</p>

<p>付記、模擬テストを現在担当している講義、京大工学部（物理工学英語）と関大工学部大学院（エネルギー・環境論）の学生に解答させてみました。<br />
第6問の解答分布を報告します。</p>

<p>京大：ア4名、イ6名、ウ10名。エ0名。<br />
関大：ア21名、イ24名、ウ28名、エ5名、解答無し1名。</p>

<p>という結果でした。私は，「自分の主張につなげている」という、イ、が出題者（私ではありません）の意図する正解かな、と憶測しましたが、どれを取っても、正解らしいですね。学生の解答には少ない、エ、も「展望の無さに気づかせている」なんて、今の福島の状況に対する、政府、テレビ、学者、達の愕然とするばかり、ノンキさ無責任さ、をみると、バッチリ、という気もしてきました。エネカン会員の皆様のご見解を頂ければ幸いです。</p>]]>

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<title>原発事故後の社会のあり方・「倹約と幸福」新書の紹介</title>
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<modified>2011-08-24T13:45:02Z</modified>
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<summary type="text/plain">　『倹約と幸福』　 ―エネルギー・環境問題解への道―　 小学館新書（2010年2...</summary>
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<name>Shingu</name>


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<![CDATA[<center>　『倹約と幸福』　<br>
―エネルギー・環境問題解への道―　<br>
小学館新書（2010年2月出版）から抜萃<br>
京都エネルギー環境研究協会（京都エネカン）新宮秀夫　</center>

<p><br />
2011年3月11日に起こった福島原子力発電所の事故以来、多くの人が原発とは何かを始めて知り、また、事故の影響の大きさから脱原発が課題とされ始めています。</p>

<p>人の作った原子炉は必ず事故を起す。それが技術というものである事は自明ですが、では脱原発して、電気はどうするのか？という答え無しには如何なる論議も成り立ちません。<br />
火力発電に頼れば、二酸化炭素を始めとする大気汚染が問題となり、これが原発以上の環境破壊を起こす可能性もあります。太陽エネルギーの量は十分にあるけれども、それを有効に電気エネルギーに変換する技術は普及していません。</p>

<p>そこで、改めて、元来我々人間社会の目的は何であったか、を問い直せば、電気が十分以上に供給される事自体が目的ではなくて、人間の幸福が目的のはずであった事に気がつきます。<br />
世間では、技術の進歩のおかげで今、物質的な豊かさが実現しているかの如く言われていますが、とんでもない誤解であって、産業革命以来我々は本来使うべきでないエネルギーの掴みどりをする技を磨いて来たのです。技術がいくら進歩しても人は太陽のエネルギーを基本とした地球上での、つましい生活以上の利便性を見つける事は不可能なのです。</p>

<p>この厳しい条件は人類に対して自然が設定してくれた、生き続けることを可能にするための巧妙な工夫であることに我々は気づかねばなりません。もし、地球上に、エネルギーを始め、使いたい放題の資源があれば人類は幸福になるどころか、安易な生活の果てに退廃に陥り、すぐに滅びてしまうのです。</p>

<p>以上のような考えを世に問う目的で、2010年2月に出版した「倹約と幸福」でしたが、福島原発事故が起こり、エネルギー供給を中心とした社会の有り方が、問われる現在、改めて、多くの方々にご一読願いたいと思い、本書の一部を此処に抜萃して紹介いたします。</p>

<p>　　　　　　　　　　＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊</p>

<p>はじめに―歴史は繰り返さない―</p>

<p>「大豆（まめ）一粒の光り堂」という小話が西鶴の日本永代蔵、巻の三、にある。かわばたの九介、という貧農が、節分の豆まきのあと、煎ってあるはずの豆一粒を、溝川の堤に埋めてみたら、思いもかけず収穫があり、それを十年繰り返して、八十八石の豆を手にいれた。これを元手に才覚を発揮して、中国から輸入された綿打ち機をひそかに改良して性能をアップ、大金持ちになった。せがれの九之助は、父親の倹約主義を浅ましいと思っていたので、自分の代になると気前よく遊んで人気を博したが、死後に後継ぎの九太郎、九二郎、九三郎に残したのは借金証文だけだった。</p>

<p>「大福新長者教」と副題のつけられたこの名著は、江戸消費文化の幕開けともいえる、元禄元年（貞享五年、1688年）に出版され、副題から分かるとおり、お金持ち（長者）になるには如何にすれば良いか、の教えの書（ノウハウ本？）を気どっている。しかし西鶴は、運と工夫と努力と倹約、が成功の鍵であり、浪費と怠けと無責任、は没落の道、という典型的なストーリーの中に、成功とか没落とか、そのことよりも「人間とは何か」、「人の幸せとは何か」、「自然の営み、掟はどんなものか」といった宗教、哲学や科学を、さりげなく盛り込み、読み手を飽きさせない。</p>

<p>今、我々は江戸時代よりはるかに贅沢な生活に浸って暮らしているが、限られた資源の中で如何に努力して社会を維持するのか、人間の生き方への問いかけは、西鶴の時代と全く同じである。しかし、お天道さま、つまり太陽の恵みだけが頼りであった西鶴の時代と大きく違う点は「エネルギー掴み取り」の現代では人間の社会活動による自然破壊の規模が限度を越えて拡大し、人間の生存そのものを危うくする心配をせねばならなくなった事である。今の時代は、昔のように、面白おかしく、楽しく嬉しく、苦しく悲しく、暮らして行ければそれが幸せだ、と言っていられない事態になりつつある。なんとしても、今の生活様式を大きく変える倹約の社会に変革しなければならない。</p>

<p>日本永代蔵の様式にならって、地球規模での繁栄を人類が求める今の時代における、人間の有るべきあり方と、それが幸せとマッチするのかどうか、という問いかけと、答えの試み、すなわち現代における、永代蔵（持続的な社会）を、小説ではないが同じく六巻三十話の小文にまとめて見たのが本書である。副題に書いた「エネルギー・環境問題解決への道」をこれらの話が示しているかどうかは、読者に判断して頂くとして、覚悟を決めて、倹約を実践する方向以外に人類が生き延びる道はない、という、あまり世間では表に出ない事実に気づいて頂ければと切望する次第である。</p>

<p>　　　　　　　　　　　　　　＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊</p>

<p>第三話と第二十五話、とのミックス版　（ケチの反対は倹約＋倹約は最大の資源）</p>

<p>　資源が無いはずの国が食料を三千万トン以上輸入して、その内の半分をゴミにして捨てている。日本の一年間のお米の生産量は九百万トン弱であると知れば驚くより外にない。つまり、お百姓さんが苦労して田んぼの世話をして収穫するお米の倍近い食糧が毎年捨てられているのである。「正気の沙汰ではない」行動を何故我々は平気で毎年繰り返していられるのであろうか？　</p>

<p>　電気エネルギーについて見ても、見た目にキレイであるということで、街をライトアップする、お寺までが五重の塔を照明して、それに加えて空中に強力な投光器で光を発して、仏様の有難さを見なさい、と「説法」する事態である。何故こんな「すさまじい」浪費の世であるのか、と問えば、答えは簡単明瞭で、倹約が儲からないからである。家庭用電気料金は一キロワット時（百ワットの電灯を十時間点けっぱなしにするエネルギー）が二十円程度である。テレビを居間に点けっぱなしにして、台所で料理、外で立ち話をしても十円少々しか費用が掛らない。いくら新聞が「もったいない」精神を宣伝しても、我々は自分のフトコロが「もったいない！」と叫ぶまでは全然気にしないのである。</p>

<p>　　環境税が論議される時に、政府に諮問される経済学者の仕事は、どれほどの環境税をかけても、景気に影響がでないか、見積もりをすることである。有名な外国の経済学者の説を勉強し、コンピューターを「駆使」して学者は答えを出そうとする。その答えは、エネルギー料金を数％上昇させる。という程度のものである。</p>

<p>　環境税を、景気に影響しない限度で施行する、ということは、病人に、病気が治らない量だけ薬を与える、という事に等しい。税の目的は景気を押さえて、消費を減らし、環境を保全すること、である。問題は、何処までやるか？という覚悟である。</p>

<p>　全国に二百万台ほどもある、といわれる飲料の自動販売機を維持する電気は、百万キロワット以上必要と見られるが、それは火力、原子力の大型の発電設備一基分の電力である。ガシャンといつでも、飲料を買える便利さ、と引き換えに我々は、将来の世代に環境破壊の借金をしているのである</p>

<p>　乗用車が日本では、年に千万台ほども生産されて、それは景気を支える大きな柱である。しかし、本当に環境を考えるならば、大半は不要不急の贅沢品であって、その数も大幅に減らすことが出来る。　アメリカでも、以前に数年間、乗用車製造が禁止された事実がある。それは太平洋戦争が勃発して、アメリカが、戦時体制に入るに際して、ルーズベルト大統領がビッグスリーの社長を呼びつけて、乗用車製造の即時停止と、戦争協力を命令した時である。</p>

<p>　戦争、となれば、庶民は車が買えなくてボロ車に乗り、公共交通機関を使って、節約の生活をする事に、なんの不満も言わないのである。つまり元来人は目的が判然として、皆が協力して頑張ることには、仕合せ感をもつように出来ている。今の社会は、「環境戦争」を始めるべき事態にある。政府は、なりふり構わず倹約を第一優先順位においた政策を立てて、国民を導かねばならない。あれこれ、細かい施策をするよりも、エネルギー料金を大幅に上げることが、最も効果的である。</p>

<p>エネルギー料金が大幅に上がると、割をくらうのは、所得格差に苦しんでいる人達ではないか、という意見が必ず出る。しかし、国民一人あたり、電気料金なら普通の生活に最低必要な「月に五十キロワット時」程度までは現在の価格かそれ以下で使用する権利を持つことにして、更に倹約して「月に三十キロワット時」で暮せれば、残りを贅沢したい人に高額で譲れるようにすれば良い。一家五人で倹約すれば相当の収入になる。所得格差是正と倹約の一石二鳥も狙えるのである。皆が倹約を励行するにはケチが儲かる方策の利用が一番である。</p>

<p>千五百万トンを超える食料を捨てて、有り余る乗用車を使い、ペットボトル入りの飲み物が何時でも買えるために多量の電気をつかっている国は、見方を変えれば、そのような膨大な食料、材料、エネルギー資源を、「倹約」することが出来る余裕を持っている。つまり、その分を節約すれば、その量の資源を手に入れることとおなじだ、と言える。「倹約は最大の資源」であり、日本は資源大国なのである。</p>

<p>　　　　　　　　　　　　＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊</p>

<p>あとがき　―人は笑う―</p>

<p>なんのかの言っても、人は楽しいこと、心地よいこと、つまり快楽を求める生きものである。我々は、楽しみを求め、安全、安心を願って暮らし、それは社会の向かう目的とされている。</p>

<p>宇宙に地球という珍しい星が出来て何十億年、そこに人類という不思議な生きものが生まれて何十万年とか言われるけれども、人間と他の生物との違いはなんだろうか？　数年来やっている留学生の混ざった「ハピネス」の講義で学生に訊いたら「人は笑います」という答えが出て、また即座にヨーロッパからの女子学生が「マイ・キャット・ラーフス（ワタシの猫は笑うわよ）！」と反論を出したりして面白かった。</p>

<p>笑いは、かなり人間特有に近い感情表現のようだが、それではどんな時に人は笑うか？と考えてみると、これは結構難しい。人は嬉しい時に笑い、悲しい時に泣く、のだけれども「嬉し泣き」は誰でも経験している。そして「悲しい時に笑う」事を想像してみると、急に深刻な気持にならずにはいられない。人間はなかなか複雑な感情を持つ生きものであり、ただ生きて死ぬ、という以上の生き方をするものらしい。</p>

<p>学生に質問した魂胆はもちろん、ハッピネス、を考えたり求めたりするのは人間だけだ、という見方に誘導するつもりだったわけだけれども、幸福とは何か、を考えることも結構難しい。「喜ぶ者でさえ幸福なのだから、悲しむ者はもちろんだ・・・」と言われたら、そんなものかな？とも思えてくるかもしれない。</p>

<p>この本の目的はしかし、幸福とは何かを調べたり考えたりする、そのことではなくて、宇宙に我々だけであるかも知れない、嬉しい時に泣いたり、悲しい時に笑ったりする、人という生きものが、今までずっと生き続けて来られたように、これからも生き続けて行くためには、どんな行動をとるべきか、その行動は幸福と一致するのか、それを知る事である。</p>

<p>物質的に豊かな生活、ゴージャスな生活、安心安全な生活を求め、消費の活性化をして、お金がもうかる事すなわち成功、を目指して競争することが、本当に人の幸福につながるのであれば、人類はもうすぐ滅びる運命にあるといえる。</p>

<p>人は安易な生活ではなくて、限られた資源を再生可能な範囲で倹約しつつ使って生きていく時に、肉体的にも精神的にも安心でいられるように、そのように進化して来たからこそ、今地球上で繁栄出来ている。そのような社会こそ、人が生き続ける条件と一致するのであり、生き続けてこそ人は幸福を求めることも可能になると気づくことが大切であろう。</p>

<p>消費の活性化か、倹約か、どちらが人の幸福につながりそうか、日ごろ心に浮かんで面白いと感じてきた話題のいくつかを、そのような観点からここに書いたが、一部にでも共感して頂ければ幸いである。</p>

<p>　　　　　　　　　＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊</p>

<p>倹約と幸福　目次</p>

<p>はじめに　―歴史は繰り返さない―<br />
巻の一「人の心理は不思議なもの」<br />
第一話　　　良寛さんの教え（シカタガナイという哲学）<br />
第二話　　　願望に根ざす判断は危ない（熊に出会っても釣りを続ける人）<br />
第三話　　　ケチの反対は倹約である（アルパゴンと涼庭、ローソクを倹約）<br />
第四話　　　忘却の忘却が恐ろしい（覚えている、忘れる、忘れたことを忘れる、０、１、∞）<br />
第五話　　　言葉の値段（己の欲せざる所を、人に施すなかれ）<br />
巻の二「常識は真理ではない」<br />
第六話　  　ストレスは健康のもと（幸福の反対は安静）<br />
第七話　　　朝三暮四の手法による政治（民主主義の危険性）<br />
第八話　　　思慮分別は知識にまさる　（生命をもてあそんではいけない）<br />
第九話　　　倹約と幸福は同語反復（撞着語法「オクシモロン」と、同語反復「トートロジー」）<br />
第十話　　　技術革新のパラドックス（ジェボンズのパラドックス）　<br />
巻の三「神仏と環境問題」　<br />
第十一話　　パスカルの賭け（「神様問題」と「環境問題」）<br />
第十二話　　神さまに責任はない？ (なぜ氷は水に浮くのか？)<br />
第十三話　　寝ずの番も空しい（作法の真髄は不染汚）<br />
第十四話　　不可思議解脱の法門（椅子を求めるのか、法を求めるのか）<br />
第十五話　　山が流れる？（賞味期限とデボラ数）<br />
巻の四「文学はいろいろな体験をさせてくれる！」<br />
第十六話　　太平記の逸話（天下の利か、権利保護か、自然体か）<br />
第十七話　　風車場の秘密（すべてのことには終わりがある、か？）<br />
第十八話　　貧福論と銭神論（お金は羽がなくても飛び、足がなくても走る）<br />
第十九話　　ヒマは不善を呼ぶ（小人閑居為不善　無所不至）<br />
第二十話　　人生は筋の分からない劇（ドラーマ・悲劇は優れた人を、喜劇は劣った人を描く）<br />
巻の五「お金の性質と人の性質」<br />
第二十一話　賢者には一言で足りる（自然真営道　人間ひとりは百ワット）<br />
第二十二話　まことの商人は先も立ち、我も立つことをおもう（先の先の・・・には我がいる）<br />
第二十三話　最大多数の最大幸福（未来の人も数に入れるとどうなるか？）<br />
第二十四話　生産は常に赤字である（形あるものは必ず壊れる） <br />
第二十五話　倹約は最大の資源　(倹約が儲かるようにするべし)<br />
巻の六「哲学は役に立たないけれど最も大切」<br />
第二十六話　皆が正しい（判断を可能にするのは　ひいきの気持ち）<br />
第二十七話　はんたか の教え（ラジョ・ハラナン　塵を払う）<br />
第二十八話　人は何で生きるか（自分の影を売った男の話）<br />
第二十九話　火宅の教え（最初は一個の生命）<br />
第三十話　　感動は前進、満足は後退（自分は騙せても、自然の掟は誤魔化せない）<br />
あとがき　―人は笑う―</p>]]>

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<title>朝日新聞（エネルギー工学）連載記事</title>
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<issued>2012-02-26T06:51:42Z</issued>
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<name>Shingu</name>


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<![CDATA[<p>■記事画像をクリックすると拡大されます■</p>

<p></p>

<p><br />
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</br clear="all"><br />
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</br clear="all"></p>

<p></p>

<p><br />
</p>]]>

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<title>高校入試問題に「倹約と幸福」</title>
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<modified>2012-05-05T08:26:40Z</modified>
<issued>2012-05-05T07:47:44Z</issued>
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<summary type="text/plain">東京八王子高等学校の入試問題、国語、に「倹約と幸福」第六話 “ストレスは健康のも...</summary>
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<name>Shingu</name>


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<![CDATA[<p>東京八王子高等学校の入試問題、国語、に「倹約と幸福」第六話 “ストレスは健康のもと（幸福の反対は安静）”が使われました。</p>

<p>問題をそっくり載せますので、チャレンジして下さい。<br />
　著者にも答えるのが難しい微妙な問いもあります。受験生は大変ですね。<br />
でも、これを通じて若者がこんな思想に触れる機会を作ってもらえることは嬉しいです。</p>

<p><br />
<a href="http://www.enekan.jp/archives/img/20120505hachioji.pdf" target="_blank">問題文</a><br />
</p>]]>

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